正義の秘密結社  作:松田蛟

私は、いわゆる平々凡々な日常を送っていた。勤務先と自宅を機械的に往復するだけの、安寧に満ちていて、それでいてつまらない日々。妻子もなく、遅くまで飲み歩いても特段問題ないのだが、生憎酒の味は好きではない。休みも昼まで寝ているか、あまりの娯楽の無さに焦燥を覚えた時などは半ば強引にうまい飯を食おうと同僚を誘ってみたりした。が、まあ一時的に退屈が紛れても、いつかのように明日という日に特別な意味を見出す気分になることはなくなっていた。昨日も、今日も、明日も大差ない。


その日はたまたま気が向いて、溜まっているであろう郵便を一気に処理することにした。ダイヤル錠を右に二回、左に四回、再び右に二回。こんな七面倒くさい手続きを踏んでまで保護する郵便の心当たりはないのだが。然し今日は違った。引き出してみた紙束の一番上に、茶封筒。宛名の左下に「親展」の赤文字を仰々しく備えたそれは、私にある種の焦りを感じさせた。さては、水道の支払いが滞ったか。用途別に幾つかの口座を一丁前に開設してはいるが、記帳を怠り残高を把握していない。私は急ぎ部屋に戻った。乱雑に破いてみると内側には透かし防止の目が痛くなるようなモザイク。いよいよ行政の匂いがしてきた。然し中の書類は上等な紙一枚に、「大人の楽しみ 秘密結社 ユースティティア こちらの封筒を丸ごとお持ちください」という金で箔を押した文字と整理番号らしき英数字、住所が書いてあるだけだった。風俗の開店記念営業か何かだろう。ちょうど給料の使い道もなく、予定のあるわけでもなかったので、男は怖いもの見たさで住所に向かうことにした。




いざ着いてみると、拍子抜けなことに雑居ビル。フロントの守衛室に腰掛ける、半分寝ている爺さんに声をかけてみた。


「あの、ここにユースティティアというお店があると思うのですが」


爺さんは少し首をかしげながらも奥に引っ込み、すぐに戻ってきた。どこかに内線をかけていたらしい。


「そちらでお待ちください、係が参ります」


そう言うと守衛は再び眠そうに下を向いてしまった。私はいささか居心地の悪さを感じながらしばらく突っ立っていた。少し後悔を感じながら建物の随所の小汚さを観察していると、自動ドアの奥から、黒のスーツに白手袋と、絵に描いたような紳士が歩いてきた。ポマードをぴっちりとつけていて、胸には銀のネームプレート。漆のような黒で「Justitia Officer」と彫りこんである。まるでホテルマンだ。


「いらっしゃいませ。秘密結社、ユースティティアへ。差し上げた書類に書いてあった番号をお願いします」


私が応じると、タブレット端末にそのまま入力する。すると、ぬるりと私の氏名が表示される。気味の悪いものだ。


「それでは封筒と書類をお預かりします。どうぞこちらへ」


言われるがまま、四人乗ればいっぱいになるエレベーターに乗り、小さい応接室のような場所に通された。小さなガラステーブル越しに向き合い腰掛けると、ホテルマン風の男は慇懃に礼をし、口を開いた。


「まずはこのような素性不明のチラシにも動じず、お越しいただきありがとうございます。と言いましても、我々は決して怪しい団体ではございません。日常に少しのスパイスを加える、社会人クラブ、サークルのようなものです」


怪しい奴らが自分を「怪しいです」なんていうものかと内心舌を出しながら、私はそのまま思ったことを口にした。


「私はここをお店か何かだと思ってきましたが、どうもそうじゃないらしい。詐欺団体、カルト宗教、政治団体の類なら帰らせていただきたいのですが」


ホテルマンはこの問いには慣れているらしく、私の疑いを間髪入れずに否定した。


「決してそのどれでもありません。入会金もいただきません。後から法外な金銭を要求したり、何かを売りつけたり、思想を押し付けたりも誓って致しません。会員同士の交流もありません。マルチのようなこともいたしませんし、むしろこのクラブのことを誰かに言ってはいけないのです。禁じられているのです」


禁じられている、とは? オウム返しに聞いてしまう。


「このクラブ唯一の鉄の掟。それはこのクラブの存在、そして自分がその会員であるという事実を誰にも言ってはいけない、というものです。ここでいう『言ってはいけない』は、いかなる手段をもってしても発信してはならず、またいかに親しい相手でも、たとえ警察相手にでもこの秘密を明かしてはなりません」


「ちょっと待ってください。私を犯罪にでも巻き込む気ですか。私は善良な市民だ。悪の秘密結社の片棒を担ぐなんて」


私はあわてて財布と携帯を忘れていないことのみ確認し、席を立とうとした。ホテルマンは軽く手で制し、あくまで落ち着いてこう応じた。


「滅相もございません。我々はただこの『秘密性』を楽しむクラブです。秘密を抱いて日々を過ごす。これだけで何の変哲もない日々にも、彩が生まれます。更に我々は『秘密結社』であるのですから、もし存在が漏れたら字面だけで世間や警察が要らぬ騒ぎを起こすでしょう。それに加えて、我々は『正義』の秘密結社なのですよ」


言われてみると、確かに道理である。ただ、最後の一言はまだ理解できなかった。


「今、正義の——とおっしゃいましたが、具体的に何をするのです」


ホテルマンはこの問いを待っていたかのように、懐から紙を取り出す。


「簡単です。どんな些細なことでもよいので、世の中に蔓延る貴方が不道徳であると思うこと。いけないと思うこと。犯罪ではないかと思うこと。これらを、証拠付きでこちらに書いてあるアドレスにメールするだけ。証拠は状況のメモでも、写真でも、音声データでもいい。我々は定期的に拠点を移動するので、こちらのメールに送るだけです。」


受け取った紙には、不規則な英数字の後にフリーメールのドメインが振られていた。ホテルマンは続ける。


「これはいわば『スパイごっこ』。勿論、悪いことを見かけたら止めるべきですが、君子は危うきに近寄らないもの。憤慨しても、リスクを冒して止める義理はないのです。これらを私どもは集め、ともに憤慨する。勿論本当に犯罪でもなければ外に決して漏らしませんが、仮に重大犯罪発見のきっかけとなれば秘密裏に警察に通報します。その際会員が希望するならば、通報者としての名誉も得られます。社会貢献にもなります。これが、我々が正義の秘密結社たるゆえんです」


ホテルマンはこういうと、私の答えを待っているようだった。聞いてみれば、悪い話ではない。私が、社会の秩序を監視する立場になるようなものだ。金がとられそうになれば警察にこの組織の存在をしゃべってしまえばいいわけだし、そうでなければこの「秘密結社」の一員として、忠誠を誓うのも悪くない。安全に、スリリングな思いをしながら、社会の不義を同志たちと断罪できる。なるほど大人の楽しみというわけだ。私は承諾の意を伝えると「Justitia Member」と書かれたプラスチックのプレートを受け取った。






「それで?Officerくん。首尾はどうかね」


「上々ですよ、Commander.いえ、警視正」


某県公安委員会会議室。ポマードを固めた警部補は、機嫌よさそうに手元の書類群を眺める。


「国家公安委員会も妙案を考え付きましたね。出先機関として秘密結社をぶちあげ、非警察の密告システムを作り上げる。相互監視の中で、あらゆる犯罪の証拠となりうる情報を収集する。人件費が省け、社会の隅々まで目が行く。つくづく妙案です」


正義の権力者たる警視正も、ニッタリと口角を上げる。


「それも秀逸だが、なんといっても一粒で二度おいしいのがこの組織だ。秘密結社を名乗る組織にホイホイ加入し、己が正義と思うことを他人のプライバシーなど構わず蒐集。必要とあらば警察、ひいては国に対して噓をつくような危険因子を炙り出すには絶好だ」


ああ、哀れな一市民! 警視正はさらに邪悪な笑みを浮かべて、曰く。


「仮に、メディアや裁判で告発の憂き目に会おうとも、『自分は正義の秘密結社・ユースティティアの一員だ』なんて戯言を、誰が信じるものか」



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2022年度・九州大学文藝部・学祭号 九大文芸部 @kyudai-bungei

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