森の中のお菓子屋さん   作:淵瀬 このや

 よくある物語と同じように。その村のはずれの森には、嫌われ者の魔法使いが住んでいました。そんな物語と違うのは、彼の家はまるでおどろおどろしくなく、可愛らしくてこじんまりとした外装をしていることで、丁寧に切り出された木でつくられた壁におしゃれなテラス、透明で真四角なたった一つだけのガラスの窓、梅雨時のばらと同じ色の赤い屋根の家は、まるで森の中のお菓子屋さんのよう。けれどそこは魔法使いの家、甘い香りは一つもせず、代わりにつんと鼻をつく薬草の匂いが、誰も通らないのに綺麗に整備された小道にまで漂っていました。


 ガラス窓からそっと覗き込めば、奥の方の机の前にちょうど薬の調合をしている魔法使いの背が見えます。机の両脇には小さな家の天井に届く大きな棚。収められたガラス瓶の中には満杯に怪しい色の液体や鮮やかな緑の粉末、その一つひとつに貼られた小さなラベルにはミミズののたくったような字。薬たちは静かに自分が役に立つ日を待っていて、その圧の中にいる魔法使いは大層小さく見えるでしょう。魔法使いの集落からは飛び出てきて、人間の村からは追いだされた哀れな魔法使い! それでも彼は大好きな薬品の匂いに囲まれて、寂しくも穏やかに暮らしていたんです。




 ある日のことでした。こつ、こつ、と何か硬いものを叩く音に、魔法使いは作業をしていた手を止めました。上げた顔はいささか土気色で、目の下には一日ぐっすり寝たとしても取れないようなあおいクマが出来ています。音はガラス窓の方からしたようで、彼は薬草をすり潰していたすり棒とはちを置いてふらふらと歩いていき、それを覗きます。もう一度、こつ、こつ、と、魔法使いが見ていたのよりずっと下の方から音がしました。


そちらを見やれば、幼子の親指ほどの大きさの人が、窓枠に立って、困り顔でそこにいました。






「いやぁ、僕の家に人が訪ねてくるなんて何十年ぶりかな! しかも君、その淡い桃色の帽子は『笑顔の妖精』だろう? 妖精の種族の中でも特にめったに人前に姿を現さない一族、まさかそんな妖精さんが、僕に『頼みごとがある』なんて!」


 魔法使いはいつになく上機嫌で、棚から薬の瓶を取り出しては机に座らせた妖精さんの前にドン、ドン、と置いていきます。その度に、片付けもせず積み上げられた本のタワーが揺れて今にも崩れそうで、妖精さんはひええ、とおびえた声を出して帽子を小さな手できゅうと握りしめました。


「あ、あのね、魔法使いさん、ボクね、」


「それにしても君、顔色が良くないね。笑顔の妖精はもっときらきらした表情をしているものと思っていたけれど……。体調がすぐれないのかい? それならこちらの頭痛を治す薬を使ってみるかい? ああ、頭痛だけじゃなくて腹痛も歯痛も何でも揃っているよ! 心の問題ならこちらの飲むだけで楽しい気持ちになる薬も」


 魔法使いはそこでようやく妖精さんのおびえた様子に気が付き、ふっと口をつぐみました。


「……ごめんね、どうやら怖がらせてしまったみたいだ。久々に誰かの役に立てると思うと、少し高揚してしまってね」


 君の要件は何だい、僕にできることならなんでも力になるよ、と今度は先の興奮した声とはうってかわって穏やかな声で尋ねた魔法使いに、妖精さんは口を開きます。


「あのね、魔法使いさん、ボクに『あい』をください!」


「……『あい』?」


「うん、この瓶いっぱいに、魔法使いさんの『あい』が欲しいんだ」


 妖精さんはそう言うと、どこからかその背丈とちょうど同じくらいの小瓶を出しました。瓶口に近い部分だけが少しばかりきゅっとしぼられていて、コルクの栓がされています。


「ふむ……。確かに妖精たちが貰った『あい』を原動力に、人を笑顔にしていることは本で知っていたけれど……。こういった小瓶に溜めるものなんだね」


 触れてもいいかい? と妖精さんに許可をとってその小瓶を持ち上げて底から中を覗き込みますが、いたって普通の小瓶、特に変わったところなどは無いようです。ありがとう、と魔法使いはそれを妖精さんの横に置いて、眉を下げて妖精さんに向き合います。


「さっき、なんでも力になると言ったのに申し訳ないけれど、僕ではきっと君の役には立てないと思う」


「ええ、どうして? だって魔法使いさんは魔法が使えるんでしょう?」


 きょとんとした顔で尋ねてきた妖精さんに、魔法使いは悲しげな顔をします。


「妖精の『笑顔の魔法』はどんな種族にもかけることができるそうだけれど、魔法使いの魔法はね、魔法使い同士にしか効かないんだ。昔はそうじゃなかったらしいんだけどね」


 そう、昔は魔法使いの魔法は人間にも妖精にも効果があって、それで他の種族の怪我を治すこともありました。けれど魔法使いの中から魔法を悪用して人間を奴隷のように扱う者が出てきたので、魔法使いの集落の長老たちはどのような魔法も魔法使い同士にしかかからないように取り決めたのです。


「だから例えば君に、僕からの『あい』が感じられるようにする、なんて魔法をかけたって、ちぃとも効かないんだ」


「そうなんだ……。それじゃあ、魔法使いさんが『あい』を魔法で生み出して、それをボクに渡してくれる、っていうこともできないのかな?」


 妖精さんの問いかけに、魔法使いはぐぐっと眉根を寄せました。それなら確かに、できないことはありません。魔法使いは魔法でなんでもつくることができますし、他の種族に魔法をかけることはできなくても、魔法でつくったものを渡すことはできるからです。例えば、魔法で人間たちの怪我を治すことはできないけれど、魔法でつくりだした薬を渡すことで治す手伝いをすることはできる、といった具合に。しかし、やはり一つ大きな問題がありました。


「僕はあまり、『あい』がどういうものなのかも知らないんだ。それを注がれた記憶は、下手をすれば百数十年は昔のもので、もう思い出せない。そして、魔法使いはよく知っているものじゃないとそれを生み出せない。だから、僕が『あい』をつくるのは、……難しいだろうね」


「そっか……。魔法使いさんでも、『あい』はつくれないんだね。どうしよう、ボク、もう誰も笑顔にできなくなっちゃうのかな」


 妖精さんは悲しげな顔をして、小さな肩を落とします。それを見ている魔法使いの胸はひどく痛んで、彼は棚から杖を取り出しました。サンザシでできたその杖は、最近あまり使っていなかったため、少し埃っぽくなっています。それを丁寧に払い落として、杖で弧を描けば小さくて真っ白なお皿が、もう一回、今度はくるっと優しく空でかき混ぜれば、四角くころころしたチョコレートが二つ。それを妖精さんにそっと差し出して、魔法使いは微笑みかけました。


「代わりにもならないかもしれないけれど……。さあ、これをお食べよ。どうかそんなに悲しい顔をしないで、僕も一緒に他の方法を探すから」


 妖精さんはおずおずとそれを抱えます。魔法使いが昔魔法の勉強の途中によくつくってはつまんでいたそれは、妖精さんの頭とちょうど同じくらいの大きさで、妖精さんは両手でないと持てません。その小さな口でかぷっと齧ると、ほろりほろりと溶け出す甘い味。さっきまでの不安そうな顔が一転、妖精さんの目はきらきらと輝いて星のようにこぼれてしまいそう。夢中になって食べるから、手も服も顔もつやつやのチョコレート色に染まっていきます。


「ふふふ、べたべたじゃあないか」


 魔法使いが杖でふわ、ふわっと波をつくれば生成り色のハンカチーフが現れて、彼はそれで妖精さんの顔を優しく拭ってあげました。きょと、と目を丸くした妖精さんは、次の瞬間幸せそうに破顔しました。


 コロン、コロン、コロン。


「え?」


 何か小さくて硬いものが転がる音に、魔法使いは驚いてその音の方を見ました。すると、妖精さんの横に置いた小瓶に三つ、淡い水色と桃色と緑の、空の星をそのまま取ってきたみたいな何かが、キラキラと輝いていました。


「これは……、金平糖?」


「魔法使いさん、それが『あい』だよ! わあ、ありがとう!」


 妖精さんは目をキラキラさせて、その目と同じくらい輝いている金平糖を見つめました。


「これが魔法使いさんの『あい』なんだ。とっても綺麗!」


その言葉に、魔法使いは胸がきゅううと、引き絞られるような感覚がしました。自分が生み出したもので、誰かを笑顔にすることができた。久しぶりに感じたその幸せが、魔法使いの心を痛いほどに締めつけました。


「……それにしても」


 魔法使いは努めて平静を装って言います。


「君は、どうやってこんなにたくさんの『あい』を溜めていたんだい? 見たところ、この瓶を満たすには一回の『あい』の量は少ないように思うけれど」


 妖精さんが受け取った『あい』は小瓶の底を一段埋めた程度で、瓶を満杯にするには途方もない時間がかかりそうに思えます。それとも満杯にする必要はないのかな、と魔法使いが尋ねると、妖精さんはまたまた困ったように首を横に振りました。


「うーん、いつもはそんなにかからないんだけどなあ。前の家ではその家の兄妹が毎日ボクに手作りのあたたかいごはんを振舞ってくれて、三日くらいで小瓶がいっぱいになったよ」


「……やっぱり僕が、『あい』をよく知らないからなのかな」


 魔法使いは消え入りそうな声で呟きました。妖精さんを笑顔にできた喜びが、一気に萎れていきます。すると妖精さんは、小さな腕をぶんぶんと一生懸命に振って訴えかけました。その顔は、なんだか寂しそうです。


「でもでも! さっき魔法使いさんから『あい』を受け取ったとき、ボクすっごく幸せな気持ちになったよ! ねえ、魔法使いさんはそうじゃなかった? ボクの顔を拭ってくれたとき、とってもあたたかい感じがしなかった?」


「……した、と思う」


「でしょでしょ! さっきボクは、魔法使いさんは『あい』を知らないわけじゃないって感じたよ。今はちょーっとだけ、かくれんぼしているだけなんじゃないかなあ。だからね、他のところに何か違いがあるのかもって思うんだ」


 他のところ、と繰り返して、魔法使いはふと思い至りました。魔法使いはチョコレートを魔法で生み出しましたが、兄妹は「手作り」の料理を振舞ってくれたと言いました。もしかすると、そこに何か秘密があるのかもしれません。検証する価値はありました。しかし、魔法使いはどうにも気が進みません。


「参ったな。僕は魔法と薬学以外はとんと不器用なんだ。おまけに手作りとなれば、つくり方を書いた本が必要になる。そうすると村に出ていかなくてはならないのか」


 難しい顔をした魔法使いに、妖精さんはおずおずと話しかけます。


「あ、あのね、魔法使いさん。本当に嫌だったら断ってくれて構わないんだよ。魔法使いさんが『あい』をくれたから、もう少しなら動くこともできるし……。人間の大人の前には姿を現すことはできないけれど、うまく子供か魔法使いを見つけられたらお願いできるから」


「……でも、この村には子供は少ないし、僕以外の魔法使いはいない。だから僕を頼ってきたんだろう? そして、ここを出ていったら、次にいつ頼れる人に会えるかもわからない」


 魔法使いの冷静な声に、妖精さんはうっと黙り込みました。魔法使いを困らせていると感じて今にも泣きそうな瞳になった妖精さんの頭を、魔法使いは人差し指の腹で優しく撫でました。


「僕、やってみるよ。料理は上手くいくかはわからないけれど……。レシピ本を村に買いに行ってこようと思うから、少しだけ待っていてくれるかい?」


「……いいの?」


「もちろん。僕だって、君の役に立てることがとっても嬉しいんだよ」


 だって、君は僕にこんなにもあたたかい感情を教えてくれたんだ。魔法使いはにっこり微笑むと、魔法で真っ黒のローブを引き寄せて頭からすっぽり被りました。ろくに手入れもしていないのに綺麗な白銀の髪も、魔法使いである証の金色の瞳も、ローブの下を覗き込まなければ見えません。いい子にしていてね、と言い残して、彼は一人、村への小道を歩きます。






 森を出るとそこは森の中の静寂が嘘のように多くの人でにぎわっており、色とりどりの飾り布が目に飛び込んできて、魔法使いは思わず目を見開きました。ああ、そうか、今日は村の祭りの日なのか。彼は小さく呟いて、少し頬を緩めました。彼の視界の中の全員が笑っていて、子供たちがそんな大人たちの間を鬼ごっこをしながら駆け抜けていきます。


これなら別に妖精さんを引き留めなくても、彼を助けてくれる子供にはすぐに会えたのかもしれないな、と魔法使いは思って、ほんのり自嘲しました。そうとわかった今でも、彼は「自分が」妖精さんの役に立ちたいと思っていることに気が付いてしまったからです。久方ぶりに触れた自分のつくった誰かの笑顔は、手放すには眩しすぎたのです。


何はともあれ、彼はもう妖精さんを引き留めてしまいました。だからもうあれこれ悩んでも、今は妖精さんの願いを叶えるために動く以外に選択肢などないのです。そう思いなおして、魔法使いは一歩喧噪の中に踏み出します。その一歩で、身体に染み付いた薬草の香りが、ふわっと道に漂いました。


「……この匂いは何だ?」


「なんだかこう、鼻の奥に来る匂いだな……。まさか」


 ひと際鼻の良い村の人間たちが、匂いに気づいて足を止めます。その言葉を聞いた人々は、次々と顔色を青ざめさせていきました。そのうちの一人が、ふと森と村の境界に立つローブのフードを目深に被った魔法使いの姿を認め、声にならない悲鳴を上げました。


「魔法使いだ」


「魔法使いのお出ましだ。子供たちを隠せ」


「忌々しい魔法使いが出たぞ、祭りは中止だ」


 ざわざわと囁きが広がっていって、とうとう道から誰もいなくなってしまいました。がらんとした道のど真ん中で、魔法使いはまた自嘲しました。自分は所詮、人から笑顔を奪うことしかできないのだと。


 この村に来たばかりの時は違いました。少なくとも、前の村長は魔法使いの薬の調合の腕を買ってくれて、それで彼はここにいることに決めたのです。その時は、魔法使いは今とは違ってこの村の中に居を構えていました。魔法使いが役に立つとわかっている間は、皆優しくしてくれたものです。「魔法使いさんの薬はよく効くから助かるよ」なんて言って笑ってくれたものです。そんな日々が失われたのは、ひとえに彼がただ選択を間違えたからでした。


 悔恨に浸っていても仕方がないので、彼は村の本屋さんに出向くことにしました。高い背丈に見合わなくなってしまったローブをなびかせながら、彼は村の奥に歩を進めます。村唯一のその本屋さんは、まだ十にも満たない息子を育てている女性が一人で切り盛りしています。彼が店の引き戸を開けると、彼女はカウンターの後ろから露骨に嫌そうな顔を向けてきました。魔法使いはそれを気に留めないようにしながら、平置きにしてあるレシピ本の表紙を眺めます。想定していたよりも多くの種類があることに、彼は戸惑いました。家庭の味の代表のような料理の本、異国の料理の作り方の本、お菓子のレシピ本。そのお菓子のレシピ本を見たとき、彼の頭にチョコレートを食べた時の妖精さんの嬉しそうな顔がよぎりました。彼はでかでかと「初心者向け」と書かれたそれを手に取りカウンターに向かいます。勘定を済ませて店を出ようとしたとき、聞こえていないものと思ったのか、店主の大きな独り言が聞こえてきました。


「やれやれ、必要な時に必要なものもつくれなかったくせに、まあた何かつくろうとしてるんだから、あきれたもんだねえ」


 彼はその言葉にその場にとどまりそうになったのをぐっと抑えて、来た時と同じように、静かに静かに、村を立ち去りました。






「魔法使いさん、お帰りなさい! ってわあ、すごい顔だよ! 大丈夫?」


 出迎えた妖精さんはそう言ってわたわたと魔法使いの頬に触れました。それだけで、長く孤独に慣れ親しんでいた魔法使いの心も陽だまりに溶かされていくようで、彼は泣きたいような縋りたいような思いを抱えて微笑みました。


「……大丈夫だよ。ちょっとだけ、悲しい昔話を思い出してね」


「昔話って、魔法使いさんの?」


 そうだよ、と頷いて、薬の調合をする机を愛おしげに撫でながら、彼は椅子に深く腰掛けました。妖精さんは深い焦げ茶の木目の綺麗なその机に座って、首をこてんと傾げて続きを促します。その仕草と溶かされてしまった心が後押しして、魔法使いは口を開きました。






 妖精さんは、魔法使いが魔法使いだけで集落をつくって暮らしていることは知っているね。僕もそんな集落の一つの出なんだ。魔法使いの魔法は、魔法使い同士ならかけることができるから、集落の中に入れば大抵のことには困らない。風邪をひいて自分ではうまく治せなくても、他の魔法使いがすぐ助けてくれるし。そんな便利な集落を出て何でここにいるかって言うと、実は家出をしてきたんだよ。長老様、集落の皆の意見を押し切ってね。


 長老様の話で知ったんだ、人間は薬や道具に頼らないと満足に傷も病も治せないんだって。人間ってなんて可哀想なんだろうって思ったよ。魔法が使えない、効かないばっかりに効力の強くない薬に縋るしかないなんて。僕は自慢じゃないけどより効く新しい薬をつくれるくらいには魔法薬学が得意だったんだ。だからね、僕のその力はこういう人たちを助けるためにあったんだってそう思い込んだんだよ。若かったとは思うけれど、でもせっかく力があるなら人を助けるために使って「いい人」でいたいじゃないか。


 それで集落を出ていきたいと言えば、皆に反対されたんだ。特に長老様には「人間はか弱い分、集団になって敵を排除する能力と道具の扱いには長けているんだ。魔法しか術を持たない私たちは、魔法の効かない人間の集団になど太刀打ちできない。近づいてはならぬのだ」なんて諭されたよ。でも僕はもう決めてしまっていたんだ。僕のこの魔法と薬で、誰かを救いたい、笑顔にしたいって。だから黙って集落を飛び出してきた。歩いて歩いて、辿り着いたのがこの村だった。






 魔法使いはそこまで一気に話してふっと口を噤みました。


「魔法使いさんは優しいんだね。そうやって誰かの役に立ちたいって思っても、集落を飛び出してくるなんてとっても勇気がいることでしょう?」


「……僕は優しくなんかないよ。さっきも言ったけれど、本当に自己満足な理由なんだ、ただ誰かの役に立つことで、僕がここにいていい理由を探していただけなんだよ」


 そんなことよりも少しお腹が空いてきていないかい、と魔法使いが笑いかけると、素直な妖精さんのお腹がくう、と鳴きました。


「さっき、お菓子のレシピ本を買ってきたんだよ。材料は魔法で出せるから、さっそく作ってみようと思うんだけど、何がいいかな」


「えっ、でも、まだ魔法使いさんのお話が途中だよ」


「その辺はまた、食べ終わったら話させてもらおうかな。実を言うとここから先は思い出すのも少しばかり、苦しくてね。話すのにも時間が欲しいんだ。……さあ、何をつくろうか。僕もわくわくしてきたよ」


 魔法使いはそう言いレシピ本を広げます。妖精さんは魔法使いのその言葉に納得して、笑いました。


「それなら、レシピ本の最初に載ってるお菓子をつくってみようよ。ホットケーキだって。わあ、写真もついてる、こんがり焼き目にたっぷりはちみつ、とっても甘そうでおいしそう……! ねえ魔法使いさん、ボクも何か手伝えることない?」


「それじゃあレシピを読み上げてもらえると、とても助かるな。何が必要かい?」


「任せて! えっとね、小麦粉、お砂糖、鶏の卵一個、牛のお乳と膨らし粉、溶かしたバター、それにはちみつだって」


 妖精さんの声に合わせて魔法使いが杖をふるえば、ぽん、ぽん、ぽん、と机の上に材料が並びます。最後にボウルとふるい、バルーン型の泡だて器を出すと、彼はその袖をまくりました。妖精さんが歌うようにレシピを読み上げていきます。小麦粉と膨らし粉をふるいにかけて置いておき、卵と砂糖、溶かしバターをボウルのなかでしっかりと混ぜます。少し白っぽくなったところで牛の乳を加えました。魔法使いはそこで棚のほうまで歩いていき、一つの小さなガラス瓶を取り出してきました。中は濃い飴色の液体で満たされています。


「魔法使いさん、それはなあに?」


「バニラの豆をお酒に何か月かつけておいたものでね、とても甘い香りがするんだ。これをお菓子にいれると風味がよくなると昔聞いたことがあって」


 彼がそれを一、二滴ほど加えると、ふわと甘い香りが家の中に充満していた薬草の香りを覆うように香って、妖精さんは幸せそうな顔をしました。甘い香りというのは、それだけで人を笑顔にさせます。


 そのボウルにさらに先程ふるっておいた小麦粉と膨らし粉とを加え、これを泡だて器で丹念に混ぜます。小麦粉の塊のないなめらかな生地を掬い上げとろとろと落とすと、妖精さんから感嘆の声が上がりました。


 つづいて魔法使いは魔法で平鍋を出します。それを一旦机の上に置いて家をうろうろしたかと思うと、彼は少し広めのスペースに向けて杖を振り下ろしました。ずずずずず、と床から生えてきたかのように大理石が現れ、即席の台所をつくり上げます。魔法で弱めの火をつけてその上に平鍋をそっと置き、溶かしバターを薄く塗り広げて温まるのを待ちます。温まった平鍋にさらさらと生地をまんまるく流し込めば、ふつっ、ふつっ、と生きているかのように波打ちます。魔法使いは慌てて火をさらに弱めました。その間にもふつふつプツプツと生地に小さな穴がいくつもできていきます。


「よ、妖精さん、これはいつひっくり返せばいいんだい?」


「え、えっとね、全体がプツプツ穴ぽこになって、ふちが固まってツヤがなくなったら!」


「じゃあもうひっくり返さないと!」


 ひっくり返して、二人の口から「あ!」と声が漏れました。


「真ん中とはしっこで全然色が違うねえ!」


「本当だ、真ん中は焦げたみたいな色になっているのに端にいくほど白っぽい。生地が流れちゃったみたいだ。牛乳を少し入れすぎたかもしれない」


そう魔法使いは少し落ち込んだ声を出しました。やっぱり僕には魔法や薬学以外は向いていないのかもしれない。魔法だったらきっと完璧なものがつくれたのに。


「妖精さんに、おいしいものをつくってあげたかったのにな」


 コロン、コロコロ、カラン。


 音に魔法使いははじかれたように小瓶を見ました。小瓶の中の『あい』が増えたのです。


「え、なんで。僕は君のためにホットケーキをつくっていたのに、失敗してしまったんだよ」


 魔法使いがほとんど泣きそうな顔をして問えば、妖精さんはくすくすとくすぐったそうに笑いました。魔法使いの家に来てから、一番幸せそうな顔をしています。


「あのね、魔法使いさん。ボク、今すごくうれしいよ。魔法使いさんがボクのために一生懸命何かをつくってくれているっていうことが、うれしいの。知ってる? 誰かのために頑張れるのだって、とっても大きな『あい』なんだよ」


 妖精さんの笑顔を見て、魔法使いの胸の内にあたたかいものが迫ってきました。それは目尻を濡らし、頬を伝い顎まで流れ、そしてぽたりと一粒の涙となって落ちました。妖精さんはあわてて魔法使いの手を取り、椅子に座らせます。その小さな手できゅっと魔法使いの人差し指を優しく握って心配そうに見上げる妖精さんに、魔法使いは言いました。


「ねえ、僕にも『あい』が、愛がわかるかもしれない」


「え、それは本当? 魔法使いさん、それってひょっとしてボクのおかげ?」


 無邪気に問いかける妖精さんの頬を指ですりすりと撫でて、魔法使いはまた立ち上がりました。この喜びを座ったまま噛み締めるのは、あまりにも難しかったからです。そんな魔法使いの一挙一動ごとに、ころころと小瓶に『あい』が溜まっていきます。うれしくてたまらないというように、その色はすべて淡いオレンジです。


「そうだよ、妖精さん。君のおかげだ。もう一枚ホットケーキを焼いてもいいかい? この気持ちを形にしないのは、もったいように思えてしまってね」


「わあい、やった! うれしいな、ボクも何か手伝うよ! あ、生地がさらさらしすぎてるなら、小麦粉をもう少し入れてみたらいいんじゃないかな」


 二人でわいわいと焼いた、四枚重ねのホットケーキ。妖精さんのサイズのそれを焼くのは難しかったので、一皿で二人分です。頂上に四角く切り出したバターを宝石みたいにのせ、その上からとろーりとろりとはちみつをかければ、妖精さんが手を叩きました。小さなフォークと大きなフォーク、二つを生み出して小さい方を手渡すと、妖精さんはわくわくとホットケーキを小さく切り分けます。ふかっと一度沈み込んだホットケーキはすぐにまたもとの形に戻り、熱で溶かされたバターがその断面を滑り落ちていきました。その小さな口にホットケーキを運んだ妖精さんは、片手で頬を押さえました。閉じられた目の端から涙がにじんでいるのを見て、魔法使いは驚きました。


「どうしたんだい、もしかしておいしくなかったかな」


「ううん、違うの。おいしくて、とっても幸せだなあって思ったら泣いちゃった」


 魔法使いはほっとして、彼もホットケーキを切り分けました。途端にあつあつのホットケーキではちみつの香りがより一層強く香ります。中までしっかり焼けていることを確かめてぱくっと一口。焦げ目は少し苦くて、はちみつは彼には甘すぎるくらい。それでも、魔法でこれまで生み出したどんな料理やお菓子よりもおいしいと感じました。


「ねえ、魔法使いさん。ボク、さっきの話の続きが聞きたいな。魔法使いさんの昔話」


 ホットケーキもあらかた食べ終わった後、妖精さんがそっと言い出して、魔法使いはフォークを置きました。面白い話じゃないよ、と前置きして、彼はまた話し始めました。






 僕がこの村に辿り着く前に、一人の少年が道に行き倒れていたんだ。なんでも、村長が重い病で、その薬を隣町に買いに行く途中で力尽きてしまったらしくてね。空腹で倒れただけのようだったからとりあえずパンを食べさせて、この村まで案内してもらったんだ。村長さんは本当に村の皆から愛されていたから、家には村人全員が集まっていた。よそ者の僕は当然警戒されたけれど、頼み込んで診させてもらったらちょうど手持ちの薬でどうにかなる病だった。治した功績を買われて村の中にあった余っている家をもらったんだよ、これからも村人がけがをしたり、病気になったときに助けてほしいって。だから僕はこの村で薬づくりを生業にしていたんだ。特に村長は僕のことを気に入ってくれて何かとよくしてくれた。本当にあの人には感謝してもしきれないよ。


 魔法使いがよく知っているものじゃないと生み出せないという話はしたね。だから薬に使う材料が初めて使うものの場合は、それを生み出すことはできないから採集に行くしかないんだ。


 村に来てしばらく経ってから、僕は少し採集の旅にでることにした。村長の病状が少し悪くなり始めていてね。でも、新しくつくろうとしていた薬ならひょっとすれば効くかもしれなかったんだ。数日村を空ける程度なら大丈夫だろうと思っていた。道中の険しさも、人間のか弱さも見誤っていたんだ。結局帰ってくるまでに一週間と少しがかかった。手遅れだった。村長はすでに亡くなっていたんだ。あんなに笑いかけてくれていた村人たちからは「役立たず」と罵られた。頼りにしていた村長が亡くなって、気が動転していたんだろうね。耐えきれなくなって、この森に逃げ込んで立てこもった。それも良くなかった。村では僕が薬を盛って村長の病状を悪化させたという噂まで流れ始めた。或いは、村長の家の横にある僕の家から常につんとした薬草の匂いがするから、村長の体調が悪くなったんだと。






「これで嫌われ者の魔法使いの話は全部だよ。ふふ、面白くなかっただろう」


 魔法使いが笑うと、妖精さんが空っぽのお皿の向こうでぽつりとつぶやきました。


「魔法使いさん、つらかったね。さみしかったよね」


「え?」


「だって魔法使いさんだってその村長さんのこと大好きだったわけでしょう。そんな悲しいときに皆から責められるなんて、悲しくて逃げちゃっても当たり前だよ」


 言われて、魔法使いはしぱしぱと瞬きました。魔法使いも村長のことを尊敬していたのは本当でした。あの人は行く先もなかった魔法使いに村の中という居場所を与えてくれたのですから。どうしても助けたかった、その行動が裏目に出た。村を離れずいつも通りの投薬を続けていたら村長はもう少し長生きしたのではないかと、罪悪感が魔法使いを苛み続けていました。その罪の認識はしていたけれど、自分が悲しかったということには初めて思い至って驚いたのです。


「そうか、僕は村長を喪ったことが、悲しかったんだ」


「うん、そうだと思うよ。だから魔法使いさんは今でもこの森に住んでいるんでしょう? 魔法使いさんが村にいた時代の人たちがいなくなっても、その子供たちがもしも病気になって魔法使いさんの助けを求めに来た時に、いつでも力になれるように。だからボクが窓を叩いたときも、すぐに気づいてくれたんでしょう。ずっと、待っているから」


 魔法使いは今度こそ目を見開きました。自分が何度か森を離れようと思ってもなぜか離れられなかった理由が、妖精さんから語られることでようやくわかったのです。彼は、少しでもここで誰かの役に立てた記憶を、忘れることができなかったのです。知らず知らず、ずっと幸せな記憶に縋りついていたのです。魔法使いはぽろぽろと涙をこぼしながら、顔をくしゃりとゆがめました。


「情けない話だ。ここにいたって結局村の人たちの役に立てる日が来るわけがないのに。彼らは僕のこの薬草の匂いを嫌っているから。そうだろう、こんな鼻をつく、攻撃することしか知らない匂いなんて、誰も好ましく思うはずもない」


「ボクは好きだよ!」


 叫ぶように泣く魔法使いに、妖精さんは同じように叫びました。


「ボクは魔法使いさんの薬草の匂い好きだよ。これは誰かの怪我とか病気を治すために魔法使いさんが頑張った証でしょう。だからボクは好きだよ」


「……本当かい?」


「嘘なわけがないでしょう」


 自分の過去と現在にまっすぐな肯定をもらって、魔法使いの胸は歓喜に震えました。そうです、魔法使いは肯定してほしかったんです。誰かの役に立ちたくて、でも出来ない自分ごと、肯定してほしかったんです。


「妖精さん、ありがとう。すごく、すごくうれしくて溶けてしまいそうだ」


 からん、コロンコロン、コン。


 満たされた喜びの色の、淡い桃色の『あい』が小瓶に溜まって、とうとうコルク栓にあたって音を立てました。小瓶が満杯になったのです。


「魔法使いさん、『あい』がいっぱいに溜まったよ。魔法使いさんのおかげだよ。本当にありがとう」


「……妖精さんは、もう行ってしまうのかな」


「そうだね、『あい』が満杯になったら、ボクはもう見えなくなってしまうから」


 ねえ魔法使いさん、と妖精さんは少し項垂れてしまった魔法使いに呼びかけます。


「ボクね。魔法使いさんのつくったホットケーキ本当に好きだったよ。だから、もしまた会うことがあったら、またお菓子をつくってくれる?」


「……ふふ、約束するよ。また来ておくれ。それまでにたくさん練習をして、妖精さんが食べたことのないくらいおいしいお菓子をつくってみせようじゃないか」


 その言葉に、妖精さんは微笑みました。魔法使いも微笑もうとしましたが、泣き疲れてしまったのか猛烈な眠気に襲われて、瞼を閉じてしまいました。




 朝、魔法使いが目を覚ました時。妖精さんの姿はどこにもありませんでした。


魔法使いは服の胸のあたりをくしゃと掴んで、大きく大きく、息を吸いました。






 妖精さんとの約束通り、彼の日常にお菓子作りが加わりました。アイスキャンデーにブドウのゼリー、カボチャのプリン、レアチーズケーキ。彼のお菓子作りの技術は日に日に上達していって、食べる人もいないお菓子が家にあふれかえっています。さすがに困った魔法使いは、ふと思い至って今作りたての生チョコタルトを一つ一つ丁寧に透明な袋につつみました。それらをさらに大きな袋にいれて持ち、それから杖でローブを引き寄せようとして、辞めました。白銀の髪も金の瞳も晒したまま、彼は村への小道を一人歩きます。




「おい、魔法使いだ」


「今日はローブをかぶっていないのか。いったい何をしでかす気なんだ」


「とにかく逃げるぞ」


 村につけば案の定、そんな声が魔法使いを包んで彼は苦笑しました。村の人たちにおすそ分けできないかなど、自分はいったい何を考えていたのでしょう。そんな風にうまくいくはずもないのに。それでも、彼は以前と同じように村の奥に歩を進めました。本屋の引き戸を開けると、店主はまた嫌そうな顔をしました。それに傷ついた自分を自覚しながら、彼はカウンターにずんずんと進んでいき声をかけます。


「……ここで買ったレシピ本で、お菓子をつくったんです。よければ、どうぞ」


「わあ! お母さん、なんだかすごく甘い香りがするね、なになに?」


 小さな店主の息子が、ひょっこりと顔をのぞかせて、店主は慌てて抱き上げ「何を言っているんだい!」と𠮟りつけました。


「魔法使いのつくったものなんてろくでもない! 顔を出すんじゃないよ!」


 息子に言った後に店主は魔法使いと目があい、気まずそうな顔をして「とにかくそういうことだから、うちはもらわないよ」と早口で言いました。


「いえ、無理を言ってすみません」


 彼は少しばかり微笑んでそう言って、そのまま足早に本屋をあとにしました。


「お母さん、でも本当に、おいしそうな匂いだったねえ」


相変わらず無邪気にそういう息子を「滅多なことを言うんじゃないよ」とたしなめて、店主もまた、疲れたように椅子に深く座り込みました。






 こんがりプレッツェルにバターサンド。黒ゴマのアイスクリーム。桃のパフェ、フォンダンショコラ。家の入口に近いところに設置した大理石の台所に置かれた冷蔵庫にはお菓子がいっぱいつまっていて、家の中の方が相変わらず薬草の香りで満ちているのに対し、玄関のドアの周りには甘い香りが常に漂っていました。


 妖精さんが去ってから、幾か月が過ぎたころ。コンコン、とドアを控えめに叩く音に、やはり薬草をすり潰していた彼は飛ぶように玄関に向かいドアを開きました。


 はたしてそこに立っていたのは、知らない一人の少年。年のころは十ほどで、身体のあちこちに泥汚れがついています。待ち望んでいたその人でなかったことにひそかに落胆しながら、彼は優しく問いかけました。


「やあ、はじめましてだね。どうしたんだい?」


「あのね、お兄さん。僕は隣村から来たんだ。ねえ、信じてくれる? 妖精さんが僕の家に来たんだ」


「妖精さんが?」


 驚いて大きな声が出て、彼は慌てて「信じるよ」と言い加えました。


「妖精さんは、今も君の家に?」


「ううん、もう十分だって帰っちゃった」


「そうなんだね。妖精さんは、元気そうだったかい?」


「元気だと思うよ。とってもにこにこしてたもの」


 そうか、それはよかった、と頷いて、彼は妖精さんが無事であったことにとても安堵しました。それから、うまく他に『あい』をくれる人を見つけられたことにも。


「それでね、妖精さんがよくお兄さんの話をしていたんだ。隣の村の森の中には、やさしいお兄さんが住んでいて、その人のつくるホットケーキがとってもおいしかったんだって。だからね、僕気になって来ちゃった」


 それを聞いて、魔法使いは様々な思いが去来してしばらく口が開けませんでした。妖精さんが、自分のことを覚えてくれていた。彼は泣きそうな思いで微笑みました。


「そういうことなら、御馳走しようじゃないか。ちょうど先ほどパンケーキをつくったところだったんだよ。どうぞ入って」


「わあい、やった! お邪魔します、ってなにこれ、変なにおい! 鼻がつんってした!」


 家の奥の方に入るなり、素直な少年は鼻を押さえて叫びました。冷蔵庫からパンケーキを取り出して、魔法で温めていた魔法使いは慌てて少年を台所の方の机につかせて、言いました。


「薬草の匂いだよ。……妖精さんから聞いていない?」


 少年の前に「どうぞ召し上がれ」とパンケーキにバターとはちみつをたっぷりのせて出すと、少年は嬉しそうにフォークを持ってかぶりつきました。


「薬草? 特に何も言っていなかったと思うよ」


 お兄さん、これとってもおいしいね、上手だね、と笑う少年の顔に、魔法使いの薬草の匂いを「ボクは好きだよ」と言った妖精さんの笑顔が重なりました。でも、妖精さんの心のなかには、きっとホットケーキの味しか残っていなかったのです。


 そうか、それは、よかった。


 魔法使いは、そう言ってゆっくりと、微笑みました。








 その村のはずれの森には、一人の青年が住んでいました。彼の家の中には手作りのお菓子の並んだ棚とお会計のカウンターがあり、彼はいつもそこに穏やかな笑みをたたえて立っていました。可愛らしくてこじんまりとした外装で、丁寧に切り出された木でつくられた壁におしゃれなテラス、透明で真四角なたった一つだけのガラスの窓、梅雨時のばらと同じ色の赤い屋根の家は、森の中のお菓子屋さん。


 訪れた人々は、口々にそのお菓子のおいしさをほめたたえます。ふわふわのクリームパンにほろ苦いコーヒー味のクッキー。バナナのパウンドケーキ。どれも口に含めばあたたかい気持ちになるという青年のつくるお菓子は、いつも大人気です。


 もう一つ、皆が言うことには、窓の前に不思議な人形焼が置いてあるそうで、幼子の親指ほどの大きさの人をかたどったそれは可愛らしい笑顔で、背中には羽が生えていて、日の光が常に当たっているのにもかかわらず、いつ見ても腐ることなくそこに置いてあるとのこと。その横にはミントの鉢植えが一つ置いてあって、家の中でその窓の前だけが、まるで魔法でもかかっているかのように、いつだってキラキラと輝いているのだそう。


森の中のお菓子屋さんでは、家の中も外も甘い香りが漂い、綺麗に整備された小道には、今日も長い長い列ができています。




おしまい。

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