神の踊り子  作:皐月メイ

 薄ら寒さを感じる青空がどこまでも広がっている。雲は無く、陽光が容赦なく照り付ける。吹き荒ぶ風が肌を刺す。暑いのに寒い。二律背反な事象が奇しくも一体となる。


 首からかけた手拭いで額の汗を拭う。数分も放置すれば凍ってしまいかねない。男は鍬を振り下ろす。一端の農夫らしく引き締まった壮年の腕力をもってしても、土地の表層を数ミリ削るに止まった。


 そんなことを繰り返すこと数度、ようやく最低限の農地が確保できた。最後に軽く踏み均して顔を上げる。どこまでも続く地平線にポツ、ポツと見える人影。視界の端で一つ影が消えた。成功したのか、将又……。


 途中で頭を振って考えるのを止める。考えたって同じなのだ。思考なんてこの場ではただのお飾りだ。そう思い至ったのは昨日だったか、数か月前だったか、それとも数年だろうか。




男が『ここ』に来たのは七か月と少し前だった。少しそっけないが優しい妻と、可愛い二人の子供に囲まれた平凡な社会人であった男は、目を覚ますと『ここ』にいた。前後の記憶が全くない。『ここ』がどこかすら定かではない。しかしそんなことは気にならなかった。『野菜を作れ、我に捧げろ』そんな声が日夜を問わずに語り掛けてくる。手元には鍬と種が握られていた。農業知識など微塵もなかった筈なのに、気がつけば体は鍬を振るっていた。


それから暫く、二つの太陽にも慣れ始めたころ、遠目に見えていた男が、すぐ近くまで迫って来ていた。近付いて初めて、その男が酷く年を取っていることに気が付いた。顔には深い皺が刻まれ、頭髪は白く染め上がっているにも拘らず、その肉体は壮年の男よりも尚逞しく、美しいとさえ思えるものだった。


男は老人に尋ねた。「ここはどこなのですか? 」老人は答えない。また男が尋ねる。「あなたはどなたですか? 」老人は答えない。最後にもう一度尋ねてみる。「何故この土地を耕しているのですか? 」老人は初めて、顔を上げて男の方を見た。獣のような鋭い眼光だった。このまま嚙み殺されるのではないかとさえ感じた。そこでふと、自分がまだ名乗っていないことに思い至った。


「すみません、不躾に色々と。私はですね…………」言葉に詰まる。私の名は何だっただろうか? そもそも私に名などあっただろうか? 男は足場が崩れだすような不安に苛まれ始めた。


バチン、という音とともに両頬に痛みが走る。思考の渦から抜け出せた。男の顔を挟み込んでいた手をどかした老人は再び下を向き、言葉少なく語りだした。


「突然すまぬ。だが、考えるな。考えたら帰ってこられなくなる。お主はお主だ。それで良い」


正直訳が分からなかった。言語としては認識できるのに、内容の理解ができない。むしろ何者かによって理解できないように仕向けられているようにさえ感じた。


老人は一通り話すとまた、農耕に戻った。これが、『ここ』で男が行った最初で最後の会話だった。その後、二人ほどと近付くことがあったが、そのどちらも、もはや人間ではなかった。無心に鍬を振る。口許から垂れた涎を拭うこともせず、その眼光には理性など微塵も感じられなかった。文明を得た獣。そんな表現が一番近く感じた。




また、長くの時が流れた。男はもはや時間という概念を忘れつつあった。ある時、雲が太陽を隠した。男が『ここ』に来て初めての出来事であった。顔を上げ周りも見ると、男から程近い辺りを耕していた男が、クネクネと奇妙な踊りを踊っていた。人間の関節を無視したようなその踊りは、言い知れぬ恐怖と際限ない好奇心を掻き立てた。


雲がどんどんと厚くなってゆく。遂には雨が降り出した。気がつけば体が震えていた。体感でも一桁あるかどうかという寒い土地での雨だ。雪でないのが奇跡とすら思える。


遠く空の彼方から雷鳴が轟く。音は瞬く間に近づいてゆき、遂に男の程近くまでやってきた。正確には、踊る男の真上辺りで留まった。




ピカッ……ドゴォーーーン、ォオーーーン、ォオーーーン…………




一筋の閃光が地に降り立った。光が脳を焼き尽くす。しかし男は瞬き一つせず、その光景を見守っていた。否、瞬きなどできなかった。体が、言うことを、きかなかった。


神話の一頁を垣間見ているような、どこまでも厳かで、畏ろしく、それでいて美しい。言葉に出来ぬ光景であった。男は文字通り『神縛り』にあっていた。




フワリ、ユラユラ。踊っていた男が『溶け始めた』。雷に打たれて白くなった体が半透明になりながら、次第に周りの風景へと溶け始めた。それでも踊ることだけはやめない。ふと、男の視界が揺れ始める。地震かと思うが、どうやら様子がおかしい。


体が勝手に動いているではないか‼ 気が付いたものの、どうしようもない。意識しようにも、そもそもどこからどこまでが自分の体であったかすら思い出せない。


次第に、私とは何かすら怪しくなってきた。体だけが動き続ける。そのまま『ワタシ』はこの空へと溶けていった。






田畑の中に古民家が立ち並ぶ田舎の村に、古今東西津々浦々、共通する噂がある。曰く、田畑の上で奇妙に踊っている白い人影があったら目を合わせてはいけない。万が一見てしまったら……

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