心、空模様
しらす丼
心、空模様
昨日、仕事を辞めてきた。
その選択に間違いはなかったと思っている。
でも、なぜか心はどんよりとした曇り空のようだった。
ショッピングモールの屋外駐車場。
私は愛車である、三菱トッポBJの車内でハンドルに突っ伏している。
なぜ車内なのかと言えば、気晴らしのために買い物へ来たのだけれど、結局きもちが晴れることなんてなくてさっさと引き上げてきたからだった。
「私のワガママ、だったのかな」と小さく息を漏らすようにつぶやく。
私は市内にある歯科医院に、昨日まで勤めていた。
円満退職であったのなら、こんな鉛を飲むような思いをせずに済んでいたのだけれど、実際はそうじゃない。
「院長を責めても仕方ないけど、あれはないよ。みんなが加害者みたいな言い方はしてほしくなかった」
まだ昼間だというのに、愛車の中は薄暗かった。空が晴れていないせいなのだろう。私の心のように。
ふと、昨日のことが蘇ってきた。
院長から昼に話があるとスタッフ全員に呼びかけがあり、午後の診療準備を終えてから話し合いの時間が設けられた。
話し合いと言っても、院長が一方的に意見を言うだけの場だったけれども。
***
『みんなが何に不満があるかわからないけど、みんながみんな同じ仕事をするわけじゃないと俺は思っている。だから当然給料の額だって違うし、昇給システムがある。
「やりたくない」というのなら仕方ないし、内容に向き不向きは誰にでもある。だったら向いている方を伸ばした方がいい。そっちの方がやる気も出るだろうから。
コロコロとやることが変わって不満があるのはわかるけど、文句を言っても仕方ないじゃないか。
白洲さんの気持ちをみんなで受け入れてあげなきゃダメだろう』
うん。確かに私は、ある一つの仕事内容について不安だと自信がないとは院長に伝えていたよ。
でも、『やりたくない』とは一言も伝えていない。とんだ勘違いだよ。
この話し合い以前――午前の診療前にも、院長は若いスタッフさんに私に関することを何か伝えていた。
その伝えていたという事実は私も知っていたけれど、その内容は分からなかったし、明らかにそれのせいで朝から職場の空気はよろしくなかった。
さすがにそれを察した院長が、みんなを集めて今の話し合いがあるわけなのだが――。
なるべく目を合わさないよう、スタッフの顔を見回した。
あまり肯定的な表情とは思えない。むしろ午前中よりももっとひどい顔をしている。
院長のさっきの一言でみんなに植え付けられた感情は、私にだって容易に察することができた。
『みんなやっている仕事なのに、やりたくないと白洲さんだけが文句を言ってる』
『みんな嫌でも頑張っているのに。なんかそれって気に入らない』
と、そんなところだろう。いつも聞いている悪口だ。
それに気づけなければ、良かったのに。
私がもっと鈍感であれば良かったのに。
朝からなんとなく湿っていた職場の空気が、院長から発せられた言葉の冷気によって凍りつき、私の全身も凍結させる。
もう、ダメだ。
ここにはいられない。
それに気づいた時、私は俯くことしか出来なかった。
それから院長が解散を宣言し、そのまま午後の診療が始まったのである。
――最悪な状態を放置して始まった時間は、最低なものだった。
声をかけてもロクな返事はない……どころか返事すらない。
集まって話していても、私の姿を見ようものなら三々五々に散っていく。
横切る度に舌打ちをされ、業務連絡すら回してもらえなかった。
これじゃ、仕事にならない――。
この時間はこれからもずっとずっと続いていくのだろうか。
そんな絶望にこのままずっと一人で耐えられるだろうか。
無理だと、思った。
このままじゃ、お互いに嫌な気持ちのままだ。
それはみんなも可哀想。どっちかと言えば、みんなの方が被害者かもしれないのに。
それから同僚スタッフたちからの明らかに冷たい態度に耐えつつ、ようやく午後の診療を終えた。
やっと帰れる――絶望的な時間を終え、私はほっと胸を撫で下ろす。
それからスタッフ用の出入り口にあるタイムカードを切ろうとした時、急いで帰ろうとしているスタッフの一人が靴を履いているところに居合わせた。
そのスタッフに「お疲れ様でした」といつものように私は言う。たぶんそんなに小さな声でもなかったはずだ。
しかし、その言葉に返事はなく、私の存在などなかったようにスタッフはそそくさと出て行った。
何かの気のせいだと思いたかった。けれど、今の私にそんな余裕なんてものはない。
もしこの時、返事があったなら――。
それから私はみんなが職場を出ていったのを確認したあと、ロッカーの荷物をすべて鞄に詰め込んで、もう戻ってこないつもりで職場を出た。
***
「院長に相談さえしなければ、良かったのかも」
多少つらい仕事でも我慢できないことはなかったし、頑張ろうと思えば頑張れた。
なのに、あの話し合いの前日。
つい院長に弱音を吐いてしまった私が、悪かったんだ。
後悔してももう遅い。そんなことは分かっているのにね。
ふと顔を上げると、鈍色の空からは私の涙を代弁するように冷たい雨が落ちてきていた。
「好きだった。みんなも、仕事も。これからもずっとそうでありたかった。でも、あのままどっちも嫌いになるのは嫌だし、そもそも私の心がもつとは思えなかった」
どこでおかしくなったのか、分からない。
私にだってまだ出来ることはあったかもしれない。
コソコソ逃げて、迷惑をかけるだけかけて。
私はとんでもなくどうしようも無い人間だな、と思った。
フロントガラスを打ち付ける雨音がいっそう強くなる。
「どうしよう。これから」
不安ばかりが膨らんでいった。
もう、まともに働くことすら出来ないんじゃないかと。
生きていくのが、つらいな……。
そう思った時、ふと目の前に光が見えた。
不思議に思い、ゆっくりと顔を上げてみる。
するとその光の先には、青空があった。
鈍色の空に円形の隙間ができていて、そこから青空と陽光が見えているということらしい。
「こんな嘘みたいなことってあるんだね」
曇った心の中にも、まだ光はあるんだよと神様が教えてくれているのかもしれない――。
やっぱり今は不安しかないけれど、それでも私はまだ生きている。
雲間の光は誰にだって差すはずなんだ。
「頑張ろう。自分にしか出来ない人生にしよう」
空を見上げた時、もう雲間の青空は見えなかったけれど、私の心にはしっかりとその光が残っていた。
心、空模様 しらす丼 @sirasuDON20201220
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