縁
明星浪漫
序
古くから様々なものを絶ってきた。
ひととひとの縁、医者が匙を投げた病、時には命を。
人の縁とは不思議なもので、切っても切っても切れない縁──所謂腐れ縁、鎖縁である──があったり、どんなに繋がっていたいと強請ったところでぷっつん、と音を立てて切れることもある。それはもう箸が落ちるより軽い音である。呆気ない。
嘉宮の、絶つ力をもつ者には、女しかいないと云う。共通している姿は薄い肌と、濡鴉の髪、衣にえがかれる菱に覗き陰細桜の紋だけである。それだけが、嘉宮の家の者であると判ずる材料である。
今、嘉宮の家は風に紛れる噂だけをひとびとの耳に残し、姿を消している。
**
男は林の中を駆け抜けていた。道と言ってよいものか分からない、穴ぼこ石ころだらけの道を、木を避け穴を避け、時には喰われかけた動物の死骸を避けて、駆けていた。昼ではあるが、光を求めて生い茂った木々の葉によって空は見えない。辺りは一面影である。夜のようだ。
男は叫んだ。
「なァ、あんた、
苔むして幹が見えない大木の、雑草だらけの根元にしゃがみ込んだ人間を見た。影、または夜に擬態するかのような闇色の着物を着た、女である。女はこれまた闇色の衣を
嘉宮の家は昔から
いろんな色がある。赤、とりわけ溢れたての血のような鮮紅は、活気溢れる命の色。病は灰黒。恋だの愛だの惚れた腫れたはもっといろんな色がある。淡い桃からドス紫。
「良縁以外、おれの命と、良縁以外、全部、おれに関わる
女は黙っている。男はがなった。
「頼む!あの女、おれをずっと見ているんだ!」
「······御意」
女は何かを選ぶように空を見た。うろ、と惑って、視点を定める。縁を絶つのは呆気ないほど容易であった。嘉宮の者が、人さし指と中指を立て、その間に見えている縁の糸をまとめて、閉じる。ぷっつん。呆気ない。箸が落ちるより、赤子の柏手より軽い音がする。散っていく。残骸はさらさらと砂のようになって
「もったいない、なァ」
男は安堵から股の下を濡らして呆然としていた。
**
「お嬢さん」
守り役が、絲巴の乱れた単衣を見て片目を眇める。直ぐに戻る。彼女はこっそりこの守り役のことを、カッチコチンの
「身支度をサッサと整えてください。昼餉が出来てます」
低く、穏やかで、よく通る声である。守り役は
女である自分に男の守り役が付くのは異なことであるが、この屋敷には、絲巴と司を除いてもあとは二人の男しかいない。だだっ広い屋敷には、常に静寂が付き纏っていた。幸運なことに、屋敷に住む者全てが──と云っても四名だけであるが──騒がしいものを好まない質だったので、この静けさは歓迎されていたのであった。
司は着物を広げた。これは常に苛立っていて、実にセッカチな男だった。朝は仕様が無いと諦めてはいるが、昼からは時刻に細かく煩い男であった。絲巴はこれ以上カッカさせないよう、司の用意した着物にのそりのそりと腕を通した。裏は鴇色、表は黒橡にみ空色の蝶が舞っている物だった。司はせかせか、せかせかと前から後ろから絲巴を締め付けた。帯をぎっぎと縛る。時折撃たれた鶴の声を上げながら、絲巴は大人しくしていた。お人形のように着せ替えられた絲巴は、肩を強く掴まれ、鏡台の前に腰を下ろした。鏡に自分が写って、絲巴は瞳に剣呑な色を乗せた。血の透けるような薄い肌、血色の悪い唇。しかし瞳は鮮血のように赫いのである。絲巴は己の顔が大嫌いであった。目を背けるように、司の手の動きを追った。眉上で揃えられた前髪が浮いているので、櫛を通して落ち着かせる。腰より長いたっぷりとした濡鴉の髪を、セッカチな司は、いつもゆっくり、ゆっくりと梳いていた。一房を手にしては、星の砂を零すまいとする幼子のように、じっくりと髪を撫ぜるのである。仕上げに司の瞳と、そして絲巴の瞳の色と揃いの結紐で、首の裏で括る。それで支度は仕舞であった。絲巴は、支度をする時間の中で、この
「行きますよ。汁物が冷えます」
差し出された手を掴むと、水仕事で荒れた肌と触れ合う。切りすぎるほど整えられた爪、ささくれだった皮膚、青年期を迎えたばかりの、まだ細い指先。しかし決して頼りなさを感じるわけでは無い。その体温の低ささえも、絲巴の心を穏やかにした。
歩き出すと、司はすぐに一歩分ほど後ろにつき、必ず絲巴より前には出なかった。絲巴はそれが気に入らなくて、しかし隣に立てとも言えずに、重たいものを胸に抱える心地になるのであった。
「今日は花結びかい」
絲巴にとっては、朝餉なのか昼餉なのか分からない席で、男が一人、既に円座に掛けて絲巴を迎えた。煙管を構え、カラリと笑う。
「臣さん」
「悪かった」
司の尖った声に、男──
「器用なもんだね、毎朝毎朝」
「それがお勤めなもので」
帯は花を形作っていた。柔らかな帯で文庫のような結び方をして、しかしそれで仕舞いとせず、羽の長さを短めにとり、三重の花を作るのである。司は実に器用な男であった。壮年の男は感心したように息を吐いた。紫だった煙が男の顔を
「臣さん」
「悪い」
臣の煙癖は、治らぬ病のようなものであった。
昼餉を食ったあと、臣は物書きの仕事に、司は家の雑事を行う。絲巴は何もすることが無いので、町へ下りる。紋の入った衣は被くことなく、高下駄をからんころ鳴らしながら、木々で作られた
糸は見えるが、意識しなければ触れる訳では無い。体を通り抜ける数多の糸は、実は今でも不愉快なんだか擽ったいんだかよく分からない心地がする。気にせず歩くには、あともう少し、時間を重ねる必要がありそうだった。
幼い頃は糸がそこに在ると思って、糸の隙間を潜り抜けようとした。すると屋敷の中すら歩けない始末で、糸に触れたり触れなかったりする感覚の調整に時間を掛け、マトモに動けるようになるまではさらにもっと時間の掛けたものである。限られた人生の、多くを、他のひとびとよりも、無駄にしている気がしてならなかった。
絲巴は店の女にみたらしを二本頼んだ。
「どうだい、最近は」
団子屋の店前に置かれた長椅子には、真っ赤な布が掛けられている。そこに爺がひとり、座って湯呑みを啜っていた。食えない笑みを浮かべた、爺であった。絲巴はきっと、狸か狐の類だと思っていた。狐狸爺の側に二本の串と、きな粉の掛かった串付きの団子があった。
「どうもこうもございませんよ」
すぐに出てきた団子のみたらしを、行儀悪くも少し舐めとる。あまじょっぱく広がる味に、口角を上げた。
「アッサリ切ってしまえと云うヒトが、多すぎます」
カカカと爺が笑った。何も可笑しくはないが、何かが可笑しかった。縁ありきで、ひとは生きているのに、どうしてこうもアッサリと、ひとりで生きていこうとするのか、絲巴には分からなかった。絲巴は、世話役のいない人生を歩んだことがなかった。正直に言って、着物もひとりで着ることが出来なかった。飯の作り方も分からない。掃除洗濯や買い物も、今でこそ司の働きを見て覚えたが、今の屋敷に来るまで、その生活が落ち着くまで、何も、知らなかった。
「そうかい、縁なんぞなくともええ奴らが多かっちゃねぇ」
爺は串についた三つの団子を一口で食べた。店の中から「爺ィ! そげん一息で食うたら死ぬぞ馬鹿たれ!」と叫ぶ店主の声が聞こえた。何も可笑しくはないが、爺は大声でカカカカ、カカカカと笑っていた。絲巴はそっと茶のおかわりを頼んでやった。
縁 明星浪漫 @hanachiri
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