第188話

***健吾②***


 環境の汚染。


 この論点は、健吾自身が気がついたことではない。

 頼信から渡された紙に走り書きされていたメモがなければ、危うく見落とすところだった。


 知識としては、健吾ももちろん頭の中にあった。

 というか現代人なら誰もがその単語を知っている。


 しかし、そんなものに現実感を持っている者がどれだけいるだろうか。

 身の回りではせいぜいが、ごみの分別くらいではないか。


 しかもここでは、魔法だとか、獣人だとか、精神を操る悪魔だとかのぶっとんだ話をしている真っ最中で、なんなら武装した帝国から存在を脅かされるかもしれないなんてことになっている。


 なのに、環境汚染だって?


 頼信のぼんやりした顔は、締まりがないようにも見えるが、多分、違う。

 あまりに視界が広すぎて、どこを見ているかわからないから、そう見えるのだ。


 頼信は、ある意味で魔法使いだ。

 普通の人がただの知識として頭の中で腐らせている物を、昨日手に入れた武器みたいに、ぴかぴかのまま取り出すことができる。


 健吾としては、シルクハットの中から鳩を取り出すマジシャンを見る思いだ。


 けれど、と健吾は思う。


 前職では、あまりにすごい人たちの前で立ち尽くすばかりだったが、ここでは違う。

 自分にもできる仕事がある。


 頼信はシルクハットの中から鳩を取り出せるかもしれないが、たびたび、取り出した鳩につつかれて泣きそうな顔をしているのだから。


 前の世界で、鍛えた筋肉は自分自身を支えてくれなかった。

 だがこの世界なら、それは誰かを支える筋肉となれるようだ。


 健吾なりに前職では頑張った。

 仕事で鍛えた仕事筋は、それなりの仕事量を支えることができるだろう。


「昨晩のうちに、獣人たちから島の環境を聞きだして、候補地になりそうなところはないか調べてみた。それから、頼信が目指している各種産業を支えるには、どの程度の規模の町が必要かについて、ざっと試案を作ってきた」


 健吾が新しい紙を広げて見せると、頼信が目を丸くしていた。

 自分にもマジシャンの真似事くらいはできるのだ。


「島をくまなく調べた獣人たちの話だと、ここは水源が限られている。自分たちから離れた場所にごみを捨てたからって、ゴミ捨て場が同じプールの中にあるなら、事態は悪いままだ。この世界には、車も電車もない。だから工場を作ると、その周囲に家を建てないとならず、人口密度が上がらざるを得ない。産業革命時の都市がひどい有様だったのは、ほぼそれが原因と言っていい」


 健吾は歴史の授業で、もちろんその時代のことは覚えたし、テストは満点だった。

 でも、まさかここで役に立つだなんてまったく思わなかったし、自力では頭の中から引っ張り出すことすらできなかった。


 しかし、解決すべき問題がわかっているのなら、こちらの得意領域である。

 受験勉強ではそれなりに猛者と呼ばれてきたのだから。


「獣人の皆に労働を頼ったとしても、工場にはたくさんの人手が必要になる。工場の周りは家だらけになる。でも下水道はないし、運河を掘ってそこに汚物を全部捨てるにしても、島の水源は限られている」


 健吾は、昨晩寝ずに吟味した結果を披露した。


「あと、獣人たちが集住するとなると、肉屋が特に大きな問題になる」


 頼信がどこか虚ろな目を向けてきて、健吾はいささか緊張する。

 伸ばした髭が、表情を隠してくれるはずだ。


「そう、それもそうなんだよね……。冷蔵庫がいかにありがたいかって話だよ。住宅地の近くまで豚や羊を連れてきて、捌かないとならない。道には動物の糞が散乱して、血や臓物を洗うための水が大量に必要になる。ここを怠ると……」

「コレラとかチフスだな」


 教科書の知識で、どうにか頼信の後ろ足を捕まえた。


「魔法でそういうのが浄化できるといいんだけど、今のところちょっと見当たらなくて」

「魔法で廃棄物を焼き払ったり、氷漬けにするとかはできるだろうが、いずれにせよ、その方向はお勧めできない」


 頼信が、じっと動きを止める。


「魔法使いを頼りにした制度を作ると、同じものをいくつもつくるというわけにはいかなくなる。それは、規模拡大スケールしない」


 健吾の言葉に、頼信は先に視線だけ向けてきて、それから遅れて微笑んだ。


 この頼信の無表情の瞬間が、健吾には怖い。


 必死の背伸びを見透かされているような気がするのだ。


「だから俺はまず、町の規模がどんなものになりそうなものか調べてみた。鉱山には、鉄鍛冶の工房とか、色んなところで働いてた経験のある獣人たちがいる。必要になりそうな設備とか、資材置き場とか、工場に必要になりそうな人数を策定して、家屋と、生活を支えるために必要な店や設備の類をまとめて、仮想の町を描いてみた」


 健吾はテーブルの一角を示す。


 そこには即席の町の設計図がある。


「鉄鋼生産を中心にすると、こんな感じになりそうだ」

「わっ、昨日の今日でここまで⁉」


 頼信が目を輝かせたことに、健吾はほっとする。


「この間の新街区拡張で、町の基礎設計みたいなものはロランの連中から教えてもらってたからな。その応用だよ」

「いや、にしてもすごいよ。うわ……各種の商店まで」


 こんなのは目標と条件を与えられたら誰でもできる。

 健吾がどれだけ頑張ってもできないのは、そもそもの目標を見つけること。


 それと、歴史の知識をまさに現在の問題として置き換えられる柔軟さだった。


 健吾は、頼信から産業発展の計画を聞かされた。

 寝耳に水ではあったが、ジレーヌ領を工業化していく際に必要なものに関しての考察は、なんとかついていくことができた。


 産業がもたらす公害問題についても、そうだった忘れていた、という思いはありつつ、まだ頼信についていけた。


 だが、頼信の視界は異様に広い。

 というか、頼信の中では、現実的な予測と空想の区別が曖昧だとしか思えない。


 昨晩、頼信の書いた計画書を精査しながら、健吾はある人物名を見つけたのだ。


 一人の思想家の名前が、当たり前のように計画書の中に書かれていた。


 その超有名な髭面の思想家は、前の世界で工業化が進む中、悲惨な環境に置かれた労働者たちのために立ち上がった歴史上の偉人であった。

 そして彼の経済理論に従って、いくつもの政権で革命が起き、やがて世界が二分された。


 悲劇だったのは、その理論が多くの人々の心をとらえたにもかかわらず、その理論を実現するには人間が愚か過ぎたことだろう。


 労働者たちのために平等な国を作るはずの理論は、圧政者ばかりを生み出した。


 そして、魔法陣から魔法が生まれてくるように、思想というのは環境から生まれてくる。


 そういう意味で、前の世界にいたあの思想家を、絶対にこの世界に呼び出してはならない。

 ここには魔法という便利な圧政の道具があって、全体主義とあまりにも相性がいいのだから。


 ただ、やはり健吾にとって恐るべきは、今も前の世界を彷徨している思想の亡霊ではない。

 あっさりとその存在を視界にとらえて、現実に起こりうる問題として把握してしまう頼信の想像力だ。


 世界と交信する周波数が、普通の人と異なっているとしか思えない。

 おまけに妙な知識をどっさり抱えて、完全武装。


 前の世界ではいまいち役に立たなかっただろうそれらが、この世界ではぴたりとうまくはまっている。


 健吾にできるのは、その頼信が転ばないようにと、後ろから支えることだと思っている。


 それは頼信がたくさんの人を助けるという点もあるが、もうひとつ。


 頼信は誰にでも敬語だが、健吾にだけは、ため口でいてくれるのだから。


「新しい町を作って産業を起こすことそのものは、多分可能だろう。けど、公害問題ひとつとっても、現状では足りないものが多すぎる」

「……だね。なんとなく想像はしてたけど、形にすると、こんなに土地と家が必要なのか、とか今更実感したよ。小手先で金貨を集めたくらいじゃ、どうにもならないよね……。ちなみに、費用の概算とかって、どう?」

「ロランの奴らに聞いたけど、まあ、この規模の町の整備なら、金貨で三百万とか五百万は覚悟しないとならないそうだ」


「五ひゃ……く?」

「ほとんど木材の代金らしいけどな。発注してる大型船舶があるだろ? それ一隻で、二十メートルくらいの成木が三千本とか必要なんだと。あの船が金貨百万枚とかで、その木材量を、家屋一軒当たりの木材量で割ると、まあ三百万枚あたりになるだろうって。そこに職人の日当やら、それだけ大量の木材となると近隣だけじゃ無理だから、遠方からの輸送費も合わせて、もう二百。悪くない費用見積もりだと思ったよ」


 説明に、表情が曖昧な笑みになっていく頼信を見て、健吾は少しだけ面目躍如といった感じだった。


 ただ、ここで終わりではない。


 厳しい現実を前に、打ちのめされたように未来の都市設計図を見る頼信を前に、健吾は息を吸った。


 前職の正式名称は、戦略コンサルタント。


 皮肉な名前だと思いながら、言った。


「カネも、土地の問題も全部一緒くたに解決できる方法があるとしたら、どうだ?」

「え?」


 健吾は、頼信にないものを持ち出した。

 世の中の、暗く冷たい側面だ。


「戦争を仕掛けて、土地も木もカネも、全部奪えばいい」

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