第187話
***健吾①***
健吾が頼信を見ると、頼信は顎に手を当て、じっとテーブルを見つめている。
その様子にはまるで緊張感がなく、なんならボードゲームで熟考するプレイヤーみたいに見える。
しかし健吾も、もうさすがに頼信のことを見誤らない。
いつも自信がなさそうな頼信は、その実、恐怖を感じるセンサーが壊れているとしか思えない行動をとることが度々あった。
唐突に妙なことを言い出しては、誰も立ち入らないような暗い藪の中に、ずんずん入って行ってしまうのだから。
案の定つまずいて、木の枝で怪我をして、道に迷いかけるが、いつのまにかそこには道ができている。
しかもその暗い藪の中では、途方に暮れていた人たちがたくさんいる。
そういう者たちが頼信の作った道を頼りに、集まってくる。
しかし、先頭をいく頼信にどうにか追いついても、どこに向かうつもりなのか、なにをしているのか、説明を聞いてもよくかわらない。
ただ頼信本人だけが、誰も見通しの利かない暗い森の中に、なにかを見つけている。
実のところ健吾は、頼信の目指している未来像に、深く共感してはいなかった。
リスクとリターンが見合っているとはとても思えないのだ。
確かにこの世界は不安定で、理不尽で、イーリアやクルルたちも虐げられていた。
でも、世の中とはそういうものなのではないかと、健吾は思っていた。
世の中には努力ではどうにもならない壁があり、その壁は定義から言って、努力ではどうにもならない壁なのだと。
頼信が起業するとか言い出したのに手を貸したのも、暇つぶしに近いというか、見捨てて野垂れ死なれても寝覚めが悪いと思ったから、そうしたに過ぎない側面がある。
でも、いつの間にかこんなところにまで来ていた。
頼信より先にこの世界に来ていた健吾は、既存の権力が甘い蜜を吸い続けるのを、距離を開けて冷ややかに見つめていた。
自分の食い扶持を確保し、手の届く範囲の獣人たちを助けることで、自尊心を満たしていた。
そして絶対に変わらないだろうと思っていた醜悪な体制を崩したのが、頼信だった。
その頼信は、いかつい獣人はもちろん、イーリアやクルルみたいな女の子に対してさえ、目も合わせられない小心者。
最初のうちは、単に気弱で自信のない典型的な陰キャなのだろうと健吾は思っていたが、やがてそうではないのだと気がつき始めた。
頼信の振る舞いは、人間関係をある意味で切り捨てているせいだとわかってきた。
商会の小僧にまで敬語を使うのは、腰が低いとか心が広いとかではない。なんなら頼信は、野良犬にも敬語を使う。
敬語というのは、相手と距離を保つための方法なのだ。
前の世界ではうだつの上がらない会社員だったと、頼信から聞いた。
それはそうだろうと思う。
相手が誰だろうとおしなべて敬語を使うのは、相手との距離感を掴めない、あるいは掴むのが面倒くさくてそうしているのだろうから。
でも、それはおそらく、頼信が無能だとか性格が悪いからとかではない。
見ている世界が違いすぎるせいなのだ。
今もテーブルに並べた紙を見つめている頼信は、きっと健吾には想像もつかないことを考えているはずだ。
そもそも頼信の頭に詰まっている知識は、前の世界ではなんの役にも立たない無駄としか言いようのない代物で、どういうモチベーションでそんなことをしていたのか、健吾にはまったく理解不能だった。
ゲームを作るため、と頼信は健吾に説明したが、なんとなく違うような気もしていた。
頼信は人間関係というか、前の世界のことそのものが、よくわからなかったのではないか。
それで馬鹿正直に、古いことから順に学んでいこうとしたのではあるまいか。
頼信はいつも自信なさげだが、決して陰気ではない。
常に前を見ていて、頼信なりに世界を理解しようとしてもいる。
それはきっと、前の世界でも同じだったろう。
けれど人生観というか、世界観みたいなものが普通の人と違っているせいで、前の世界ではうまくやれなかったのではないか。
そして頼信にとって幸運だったのは、この異世界が、どうやら頼信の世界観にうまくフィットしているらしいことだ。
だから頼信は、預言者のごとく振る舞えている。
適材適所の、水を得た魚として。
そのすべてを見通すような横顔は、健吾にとって怖くすら感じられる。
あまりにも遠く、高いところにいるように見えるから。
頼信がなにか大きなことを成し遂げるたび、その後始末と補強のために健吾が死ぬ気で働いているのは、頼信のいるところに少しでも近づくためだった。
今、テーブルに並べられている紙類だってそうだ。
頼信がクウォンから戻ってきて、まったく新しい魔法の戦術で帝国の精鋭を壊滅させただとか、古代帝国の生き残りである悪魔が残した謎を解いた挙句、その本人を連れて帰ってきただとか、とんでもない土産話とともに極めつけの話をもたらした。
帝国は精神を操る悪魔に乗っ取られているかもしれないから、対抗するためにジレーヌ領を発展させなければならないと。
産業革命だ、なんて、手渡された紙には雄々しく書かれていた。
正気とは思えない。
頼信の実年齢は、三十になろうかどうかというはずなのだ。
なのに、無理とか無茶という言葉が、頼信の中にはそもそも存在しないようにしか見えなかった。
あるのかもしれないが、その基準が普通の人間とはかけ離れているとしか思えない。
それだけの度胸があるのなら、さっさとクルルに手を出せよと、イーリアが酒を片手に据わった目で愚痴を言うのも、健吾には実によくわかる。
頼信は、価値基準が変なのだ。
本人はこの異世界で能力を発揮し、時に危険に向かって突き進むことを、ゲーム感覚だからかもとか照れくさそうに言うのだが、ここはセーブもリプレイもない現実である。
なのにためらいもなく突き進み、ただひたすらに、手当たり次第に、頼信だけが知る攻略本を片手に先を目指している。
だから健吾は頼信を手伝いつつも、頼信の根っこのところを理解できているとはとても思えなかった。
健吾は学生時代、努力+効率=結果、みたいな標語を部屋の壁に掲げて受験勉強をするタイプだった。大学では勉学とサークルと恋愛を巧みに乗りこなし、誰もがうらやむ外資コンサルに入った。
そしてそこで、想像もつかない超人たちの仕事ぶりに打ちのめされた。
今の頼信のような人たちに。
健吾にとっての筋肉とは、身を守る鎧であり、心を支える柱でもあったが、前回の人生では結局あまり役に立たなかった。
だから健吾は、頼信を手伝っている。
前回は、前に向かって突き進む人たちの背中を追いかけることを諦めてしまった。
ならば同じ轍を踏んではならないと。
ここでは、もう一度、やり直せるのだから。
それと単純に、頼信が次になにを見せてくれるのか、怖いけれど楽しみにもなっていた。
攻略本の断片をちら見させて欲しかった。
そのためには、寝食など惜しくない。
健吾は悟られないよう、静かに、大きく息を吸って、言った。
「頼信の計画を実現しようと思ったら、金貨が足りないのはもちろんなんだが、土地が全く足りていない。産業の発展には環境の汚染がつきもので、それをどうにかするには、この世界の技術力では広い土地に分散するしかないからだ」
じっと机の上の紙を見つめている頼信に、健吾は考察の結果を説明していったのだった。
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