第176話
***クルル③***
クルルは頼信の言葉に目を細めた。
すると頼信は、それを見て自身の説明が足りなかったと思ったらしい。
「ちょっと……あの、その紙をいいですか?」
そう言ってクルルの手から紙を受け取ると、熱心に説明し始めた。
「自分の世界で、そういうことがあったんです。歴史がそこで断絶しているくらいに、大きく社会が変わったんです。それまではたびたび飢饉で人が死に、着る物だって最低限だったのに、突如として社会に物が溢れるようになったんです」
クルルが黙っているのを、奇妙な異世界人は続きを待っているのだと思ったらしく、唇を舐めると紙をめくって話を続けた。
「前の世界では蒸気の力を借りていたのですが、これを利用するにはちょっと技術力が足りないと思います。なので、当面は獣人の皆さんの力を最大限活用する方向でいきたくて、そのためにまずは、鉄の大量生産を目指します」
なにが「なので」なのかクルルにはわからないし、「そのために」と「鉄」がどうつながるのかもまったくわからない。
話についていけていないし、ついていくつもりもないのだが、クルルはとりあえず頼信に話したいだけ話をさせることにした。
代わりに、じっと頼信の表情を観察する。
「この世界は獣人の皆さんの腕力に頼りきりで、道具を使うという発想がすごく希薄なんです。鉱山でさえ、ツルハシは一部の獣人しか使っていません。少なくない獣人の皆さんが、腕力と爪で掘っています。畑なんかはそれが特に顕著で、誰も鉄の農機具を使わず、爪で耕しているという話です。ここを改善するだけで、死ぬほど生産性が上がるはずです」
セイサンセイ、という単語にはクルルも聞き覚えがある。
半獣人とか呼ばれているもう一人の異世界人、健吾が島に現れた時、鉱山の監督を任せたらそんな単語を繰り返していたからだ。
「おまけに戦争では魔法が主流ですから、鎧兜や刀剣、馬の蹄鉄などの鉄需要が少ないんです。おかげでこの世界では、製鉄の技術がものすごく遅れています。でも」
と、頼信は勢いよく紙をめくる。
「逆に言うと、鉄の大量生産をして、すべての獣人の皆さんに鉄の道具が行きわたった時、ジレーヌ領は大きく生まれ変われるはずです。耕せる畑は何倍にもなり、鉱山の生産量も激増するでしょう。生産が増えれば、多くの品物の価格が下がります。なにより、自分のいた前の世界の魔法も使いやすくなります。ジレーヌ領は、巨大な帝国と渡り合えるようになるはずなんです」
そして顔を上げた時の頼信の表情が、時折見せる馬鹿みたいに前向きなキラキラしたものだったら、クルルはなにも言わないつもりだった。
でも、そうではなかった。
頼信の顔には黒い陰が見え隠れし、目はどこか虚ろさを感じさせる。
ツァツァルは目が見えないくせに、いや、見えないからこそ、頼信の内側の本質を見抜いたのだろう、とクルルは思う。
臆病者。
だが、目の前にいるヨリノブの様子は、合点がいかない。
今までもとんでもない問題に突き当たっては解決してきたというのに、いまさらなにを恐れるのだ?
じっとヨリノブの目を見つめ返してから、クルルはふんと鼻を鳴らした。
考えるより動くのが性分だ。
正面からこう言ってやった。
「お前、なにをそんなに焦ってるんだ?」
びく、と頼信が体をすくませた。
クルルはさほど強い口調で言ったわけではないので、その反応から、うまく急所に刺さったらしいとわかる。
頼信が紙に書いた文字を、クルルがろくに読めないのは、そこに異世界の単語が多いからだけではない。
文字がつぶれるほど小さく、筆圧が高く、歪んでいるせいだ。
クルルは、たびたび夢中になって考え事をする頼信を何度も見てきた。
でも、こんな様子は見たことがない。
クルルはそう思って、いや、と思い直す。
一度だけあった。
ある意味で自分たちが最も危機に陥った時。
なんならクルル自身、頼信は死んでしまったのだと思った時。
ロランの娼館で、イーリアを助けるために、それから頼信の仇を打つために、必死に食べ物を腹に詰め込んでいたあの時だ。
頼信はろくに剣も持てないくせに、死に物狂いの顔で娼館に飛び込んできた。
今の頼信の顔には、あの時の面影がある。
クウォンでの出来事と、手元の紙。
そしてこの表情。
クルルはそれを繋げる糸を探すように、頼信の顔に手を伸ばす。
蛇に睨まれた蛙みたいに動かない頼信の頬をつまみ、少し意地悪に揺らす。
されるがままにこちらを見る頼信には、どこか贖罪を求めるような色がある。
それから、必死に書き記された無数の文字。
クルルは、ようやく理解した。
「お前、今起きていることの責任が、すべて自分にあると思っているのか?」
頼信が泣きそうになったので、うじうじした奴が大嫌いなクルルは、反射的にしかめっ面になってしまう。
それに、そのアホさ加減に呆れていた。
アホだアホだと思っていたが、まさかこれほどまでとは。
「お前は……」
クルルは感情を言葉にしようとして、失敗してしまう。
脱力して、膝から崩れ落ちた感覚に近い。
いつも自信なさげにしているくせに、妙なところで責任感を発揮する。
小心者のくせに、巨大なものと戦う覚悟をたった一人でしてしまう。
どっちが頼信の本質なのか、クルルには未だによくわからない。
けれど体に流れる猫の血が、目まぐるしく変わるその様子に、目を釘付けにさせるのだ。
「お前は、底抜けのアホだ」
つまんだ頬をぐいぐいと揺らし、頼信をいじめてから、クルルは手を離す。
「ジレーヌ領が帝国から目をつけられているってのは聞いた。それに、あの悪魔のヘレナの話が本当なら、帝国は悪魔に操られていて、どこかの時点で私たちに牙を剥くかもしれないというのもな」
クルルは頼信の顔から、手元の紙に視線を向ける。
救いの神を呼び出す魔法陣があるとしたら、多分こんな感じに書かれるのだろう。
「そしてこのすべては、まあ、お前がノドンを倒そうとか言いだして私たちを唆し、合成魔石なんていうとんでもないものを見つけたのが始まりだ」
頼信の顔がどんどん強張っていくが、クルルは逆に笑えてきてしまう。
頼信はまあまあ自身の感情を隠せていると思っているらしいのだが、頼信より感情を隠すのが下手な奴がいるとしたら、町の子犬くらいのものだろう。
もちろんクルルだって、自分で思っている自分と、他人から見た自分が違うらしいのは十分承知している。
イーリアにもそれでしょっちゅうからかわれる。
けれど、ここまでではないし、ここまでアホでもないと思う。
クルルは頼信の胸ぐらに手を伸ばし、引き寄せた。
ぎゅっと目をつぶった頼信の額に、自身の額をこつんと当てる。
「うぬぼれるな。これはお前だけの物語じゃない。」
「……?」
町でごろつきに絡まれた不運な少年みたいな顔をしている頼信に、クルルは言った。
「私たちはお前の話に乗ったが、全部を全部任せたわけじゃない。そもそも」
クルルは掴んでいた頼信の胸から手を離し、体も離す。
「お前は自分一人でここまで来たつもりなのか?」
とんでもない奇策を持ち出して、確かに危機を打開してきた。
でも、竜が出た時はゲラリオがいなければ一巻の終わりだったように、頼信一人だけではどうにもならないことのほうが圧倒的に多かったはずだ。
なんならこのアホの思い付きを実現するために、自分やイーリアがどれだけ駆けずり回っているかを、この間抜けに思い知らせてやりたいくらいの気持ちがクルルにはある。
なのに、このアホときたら、ジレーヌ領に迫りくる危機をすべて自分の責任だと思い込み、たった一人で戦おうとしていたらしい。
その頭にある妙な知識と、一本のペンで。
胸ぐらを掴まれただけで、雨の日に放り出された子犬みたいな顔をしている、優男が。
「アホヨリノブ」
クルルはそう言って、握りこぶしを作る。
たちまち頼信は、意地悪ばかりされ続けた野良犬みたいに身をすくめる。
そしてその肩を、クルルはぽすんと叩く。
「で?」
「……え?」
「それで、なにをするつもりなんだ?」
頼信が取り落としてしまった紙を拾い、目を走らせるが、やっぱりなにが書かれているのかまったく分からない。
単語の多くが異世界語だし、こちらの言葉で書かれているところでさえ、よくわからない。
石の炭、鳥の糞でできた島に、燃えない煉瓦。
おとぎ話に出てくる不思議な宝物みたいな単語ばかり。
クルルはじろりと頼信を睨む。
「お前に任せていたら、またあのヘレナみたいなとんでもないことを、勝手に実行するかもしれないからな」
束ねた紙の端を揃え、頼信に差し出した。
落とした財布をごろつきが拾い、そのまま返してもらえたら、こんな顔をするだろうという感じだった。
「ジレーヌ領につくまで、じっくり説明してもらうぞ」
クルルは今日一番頼信を力強く睨みつけたつもりだったが、もう頼信は怯えていなかった。
泣きそうな雰囲気は相変わらずでも、頼信に尻尾が生えていたらちぎれそうなくらい振っていただろうと、クルルは呆れ笑う。
おかしな奴だ、と改めて思った。
「サンギョウカクメイ、とか言ってたな」
たちまち頼信の目に光が戻り、紙を歪むほどに強く握りしめる。
「はっ……はいっ。あの、あらゆる道具の基礎となる鉄には種類があって、この世界だとせいぜい銑鉄、型に流し込んで形を整えるための鉄がせいぜいなんですけど――」
早口で説明し始め、クルルは一瞬でついていけなくなる。
けれど、それでもかまわなかった。
頼信がものすごい速度で先走り、クルルたちが必死に着いていくのはノドンとの対決の時からそうだった。
せいぜい後ろからついていって、この間抜けがつまずいて転んだときに、その手を取って立ち上がらせるようにするしかない。
なにせこいつは――。
「えっと……な、なにか顔についてます?」
「いいや。ほら、続きを話せ」
「あ、はい……」
さっきまで鉄の話をしていたのに、今度は空気の話をしている。
どうやら空気には種類があって、植物はそれを餌にしているが、いくつかの空気は容易に土に混じらないらしい。
なんの戯言かと思うし、それを解決したのが、はあばあぼっしゅほおとやらで、得意満面語っているが、クルルにはまったく意味が分からない。
さらに紙をめくると、今度はうじゃうじゃ鳥のいる孤島の絵が出てきた。
はあばあなんたらは実現不可能なので、代わりに渡り鳥の住まう島を見つけるのだとか、まったく意味不明のことを言っている。
早口で語り続ける頼信の言葉は、クルルの中でどんどん意味をなくし、やがて周囲の波の音と変わらなくなってくる。
クルルはそんな音を聞きながら、頼信の横顔をじっと見て、たまに申し訳程度に、頼信が指し示す紙に視線を向ける。
変な奴。
クルルは改めて思い、口元の自嘲の笑みを噛み潰す。
話に夢中なのをいいことに、クルルは尻を動かして頼信と肩を重ねた。
そして長い尻尾を、その腰に回す。
こいつは食われる瞬間までなにひとつ気付かない、間抜けな鼠と変わらない。
でもその目が見ているのは、小さな餌の欠片ではない。
この世の誰もが尻込みするような、巨大な未来を見上げているのだ。
「これらの技術を支える理屈の詳細は、健吾の力も借りて明らかにしないとなりません。それにですね、ええっと、ああ、そうそうこれを見てください」
「ふん?」
クルルは頼信の肩に顎を乗せるようにして紙を見て、尻尾の先でべしべしその背中を叩く。
いつもはちょっと近付くだけで明らかに緊張するのに、まったく気がついていない。
頼信が手にしている紙がもっと分厚ければいいのにと、クルルはそんなことを思ったのだった。
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