第175話
***頼信***
紙に影が落ち、顔を上げると怖い表情のクルルがいた。
身構えたのは、ヘレナのことをまだ怒っているのか、と思ったから。
けれどクルルはなにも言わず、どすんとこちらの隣に腰を下ろし、じっと手元の紙を見た後、こう言った。
「なんで鳥の絵なんか描いてるんだ」
「え、あ――えっと、船員の皆さんに話を聞くため、に……」
説明の語尾が消えがちなのは、クルルが明らかに不機嫌そうだから。
でも本当に怒っているなら隣に腰を下ろさないだろう。
それに今のクルルは、こちらの手元の紙を見ているようで、その実、目を逸らすための口実にしているような気もした。
「……えっと」
そう言うと、クルルがぴんと耳を立てる。
そして大きなため息をついて、ようやくこちらの目を見た。
「ヘレナのことじゃない。今でもおかしいとは思っているが、お前の理屈に反論できなかったからな」
その一件以来、なんとなくクルルとは距離ができてしまっていた。
クルルの懸念はわかるが、ヘレナはあらゆるリスクを背負ってでも手の届く範囲に置いておくべき貴重な存在だ。
悪魔は強力な戦力になるだけではない。
情報の失われた古代帝国の生き残りなのだ。
それに、クルルも結局は納得してくれた。
ファルオーネは元々大賛成だったし、ゲラリオやツァツァルもそんなに心配するほどじゃないだろうという感じだった。
バダダムやカカムたちはいささか呆れているようだったが、強く反対はしなかった。
それにクルルを説得できたのは、イーリアを引き合いに出したからだろうと思っている。
あの領主様なら、ヘレナみたいなのを連れ帰れば、きっと大笑いするだろうと。
ヘレナの飄々とした感じは実にイーリアと気が合いそうだったし、イーリアに新しい友達ができるかもと説明した。
少し意外な視点からの説得だったせいか、クルルは意表をつかれたように黙ると、こう言ったものだ。
――私ばかり心配しているみたいじゃないか。
申し訳なく思いつつ、だからこそ思いきったことを考えられると思っている。
本当にまずいことは、クルルが止めてくれるはずだからと。
今ここにクルルが来たのも、またぞろとんでもないことを考えていないかと、監視しに来たのだろう。
「あの、もう、そんなにまずいことはない……はずですよ」
だからそう言ったのだが、クルルは目を細め、疑うような目でこちらを見てきた。
まったく信じていないような、あるいは、どの口でそう言うんだ、というような。
首をすくめていたら、細く長い息を吐いたクルルが、こちらの手元から紙を奪っていった。
「じゃあ、なにをこんなに書いてるんだ?」
そこには、びっしりと文字が書かれている。
クウォンでヘレナから古代帝国の話を聞いて以来、思いつく限りのことを書き記していた。
なぜなら、この先のジレーヌ領には、ふたつの危機が待っている可能性が高いから。
ひとつは、そもそもクウォンにいた魔導隊たちは、ジレーヌ領のうわさを聞き付けた帝国中枢部が送り込んだ偵察部隊だったということ。これはつまり、遠からずジレーヌ領に帝国からの偵察がやってくることを意味している。
その時に彼らがどれだけ寛大かは、神のみぞ知ることだろう。
すると選択肢はふたつ。
徹底的に恭順の意を示すか、さもなくば、向こうが安易に手を出せないほどに戦力を増強するか。
しかしこの野蛮な世界では、安易な妥協が簡単に破滅につながってしまうことを考えると、実質的にとれる選択肢は決まっている。
それからもうひとつの危機も、魔導隊と似たようなものといえば似たようなもの。
それはヘレナの語った、帝国に関する仮説について。
あの仮説が正しければ、現帝国は精神魔法を操る寄生生物の魔物に支配されていることになる。
そして過去の帝国がそうだったように、繁殖し続ける悪魔を支えきれなくなった帝国は、遠からず崩壊してしまうかもしれない。
文明が滅びる時、どれだけ人々が悲惨な目に遭うかは、ヘレナの話が示している。
唯々諾々と、そんな運命を受け入れるべきではない。
もう世の理不尽に甘んじる必要はないのだと、そんな大言を吐いて、クルルやイーリアたちの力を借りてきたのだ。
自分には、物語を始めてしまった責任がある。
ジレーヌに迫るふたつの危機を、どうにか跳ね返さなければならない。
「ジレーヌ領の、戦力を増強しなければなりません」
クルルの片眉が吊り上がり、ちらりと牙も見えた。
「戦力……死神の口があれば、誰にだって勝てるだろう?」
「比較的少数の、初見の相手ならば」
合成魔石によって巨大な死神の口を作り出し、すべての魔法を無効化する。
そこに獣人を投入し、無力な人間魔法使いを血祭りにあげていく。
魔法使い見習いのクルルと、前衛見習いのバダダムの、事実上たった二人で魔導隊を丸ごと撃退した戦術とは、それだ。
けれどすでに手の内の片鱗を魔導隊に見せてしまったし、彼らの多くは生きて帝国に帰ることになった。彼らの情報を頼りに、優秀な誰かが気がつき、同じ戦法を取ってくる可能性は無視すべきではない。
それでなくとも、死神の口を閉じさせる単純な方法がある。
死神の口に、大量の魔法を押し込めばいい。
そうなると、勝敗を分けるのは戦術の巧拙ではない。
単純な物量。
戦争は火力であり、火力とは人口と生産力にほかならない。
大量の合成魔石と、それを操れるだけの魔法使いが必要だ。
そして一瞬で勝負をつけられるだけの、優秀な獣人たちの群れ。
魔法使いは、ゲラリオが古い知り合いの伝手を辿って集めてくれることになっている。
獣人も、イーリアの治める土地ならば、世界のどこよりも住みやすいはずだから、問題なく集まるだろう。
けれど、ここにものすごく大きな問題があるのだ。
彼らは、ゲーム上のユニットではない。
急に人や獣人を集めても、現状のジレーヌ領では支えきれなくなる。彼らは食事をし、住むところを必要とし、あらゆる資源を消費する。
鉱山から掘り出した魔石を売って、装備や食料を賄うのもいいだろうが、それはどこまでも一時しのぎにすぎない。鉱山が枯れたら、そこでおしまいだ。
だから鉱山から魔石が出ているうちに、それを売った資金でジレーヌ領に新しい産業を根付かせ、経済を拡大し、魔石鉱山なしでも帝国に立ち向かえるようにしなければならない。
しかしこうして考えていくと、この世界の技術水準でそれが可能なのか怪しくなってくる。
少なくとも現状を見るに、いわゆるマルサスの罠を脱し切れていないからだ。
マルサスの罠とは、人口を一人増やしてもその人物は自身の食い扶持を生み出すだけで精一杯だから、社会として一向に人々が豊かにならないという概念のこと。
これを脱するには、一人当たりの生産力を増やすしかない。
あらゆる物資を大量に生産し、余剰生産物を生み出し、人口を増やさなければならない。
そうするには、前の世界の魔法を借りるしかあるまい。
クルルに取り上げられてしまった紙には、ある単語が大きく大書してあった。
「産業革命」
自分の呟きに、クルルはまた訝しげに、目を細めたのだった。
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