第177話

***頼信②***


 船の上で、これから為すべきことを片っ端からクルルに対して説明したが、実のところそれらは計画というより、願望に近かった。


 知識というのは、そのまますぐ現実に適用できることなど滅多にないからだ。


 たとえば単純な仕組みの機械仕掛けであっても、自分の手で作れるものなどほとんどない。

 これが「ハーバー・ボッシュ法によって窒素固定を実現すれば、食糧問題を解決できる」という知識となると、一体それをどうやって実現すればいいのだろう?


 この世界の天才たちの手を借りようとしても、まずやるべきは装置の開発ではない。

 窒素固定が植物の生育に必要だ、というところからだろう。


 窒素とはなにで、いやそもそも元素というものがあって、と説明して納得してもらわなければ、彼らとしてもどこを目指せばいいか決してわからないだろうから。


 そこをどうにか乗り越えたとしても、ハーバー・ボッシュ法には高温高圧が必要で、それを実現する工学的アドバイスなど、自分には到底できそうにない。


 さらに言うと、ハーバー・ボッシュ法でできるのはアンモニアだけで、そこから硫酸と反応させてようやく肥料となるのだが、反応を爆速で進めるための触媒も必要で、自分はそれが何だったかがどうしても思い出せない。


 だから、この世界の研究者に総当たりで試してもらう必要があって、そのためには膨大な種類の金属を鉱石から精錬する必要があって……と、絶望的に長い道のりが待っている。


 教科書的知識と実践の間には、こんなふうにあまりにも深い狭間が存在する。


 ただ、それでもなお、きちんと見極めれば使える知識というのが存在する。

 それに微妙に使えない知識チートでも、灯台の役目は果たすことができるのだ。


 道はこっちだと指し示せるだけで、ファルオーネのような天才たちが道に迷い、彼らの貴重な知的リソースを浪費しないで済むかもしれない。


 そんな思いを抱きながら、ようやくジレーヌ領にたどり着いた。

 船旅の疲れもなんのその、一直線にイーリアの屋敷に詰め掛けた。


 早速領主様を見つけ、船の上で書き溜めた紙束を手にイーリアに説明しかけたら、ふわふわ巻き毛の領主様は顔をしかめて、こう言った。


「まず、落ち着いて旅の垢を落とされたらどうかしら」


 直後、クルルに首根っこを掴まれ引きはがされ、中庭に桶とたらいと一緒に放り出された。


 竜の石鹸を手渡され、中庭の井戸の冷たい水に震えながら体を洗っていたら、先ほどの紙束をぱたぱたさせたイーリアがやってきた。


「詳しく聞いてないけど、その様子だとまた大冒険だったみたいね」

「ええっと、話をすると長く――あっ!」


 慌てて前を隠したら、イーリアは子犬を愛でるような笑顔だった。


「せっかく旅に出たのに、クルルと体の洗いっこをする仲には、またなれなかったみたいだけど?」


 クルルは先ほど桶と石鹸をこちらに投げつけるように渡してから、姿を見せていない。

 自分がクルルを目で探していると、イーリアはくすくす笑っていた。


「あなたの汚れっぷりで、自分のことにも気がついたんでしょ。炊事場で湯浴みしてるわよ」


 水浴び、と言わなかったので、きちんとお湯を使っているらしい。

 野郎どもは井戸の水で十分なのだ。


 一度流した程度では旅の垢は落ち切らず、二度目の石鹸を泡立てていたら、中庭の隅に置きっぱなしの椅子を持ってきたイーリアが、よっこらせと腰を下ろして言った。


「それで、渡されたこれだけど、あなたの国の言葉が多すぎてわけわかんないわよ」

「あ、す、すみません。健吾と相談して、書きなおします」

「そうしてくれると助かるんだけど、この、獣人を大量に雇うというのはなんなの?」


 イーリアの頭の上では獣の耳がぱたぱたし、腰からはふさふさの尻尾が生えている。

 なので心情的には常に獣人の味方のはずだが、それにしてもイーリアの顔は冴えない。


 獣人を大量に集める計画を立てるなど、なにか相当に特殊な理由があるはずで、しかも楽しいもののはずがないと確信しているようだ。


「魔法使いと戦うためです。これからの戦いでは、獣人の皆さんが鍵となるはずですから」


 自分が頭を洗いながらそう言うと、イーリアは明らかに虚を突かれていた。


「え?」

「クウォンで新しい戦術を思いついたんですよ。それを使って、ほとんどクルルさんとバダダムさんだけで、帝国の精鋭だという魔導隊を丸ごと壊滅させたんですけど」

「え……え?」


 こちらと手元の紙とを何往復もさせるイーリアをよそに、冷たさに慣れてきた水を頭からかぶって、ようやくすっきりする。


「魔導隊って……え? クルルが?」

「ふう。クルルさんだけじゃ駄目でしたし、バダダムさんだけでも駄目でした。今までの戦い方では到底勝てなかったでしょう。でも、まったく新しい逆転の発想によって、怖くなるくらいの完勝でした」


 なんならバダダムは相手を殺さないようにと気遣ったせいで手間取った。

 最初から皆殺しにするつもりなら、もっと楽に勝てたはず。


 死神の口を用いた新戦術は、それほどに今の魔法使いたちには、初見殺しのチート技だ。


「その戦術を運用するには、魔法使いよりも獣人の皆さんのほうが大事なくらいなんですよ」


 魔法使いが多ければ、死神の口によって魔法を封じた空間も広くなる。

 しかしその空間が広くても、獣人が少なければ意味がない。


 勝敗を分けるのは、獣人の数と密度。


 もっというと、人間が魔法を自ら封じてしまった空間で、なおも人間と協力して戦ってくれる、信頼できる獣人たちの数。


 鞭と棍棒で言うことを聞かせていた獣人たちが、魔法の発動しない空間でも果たして味方でいてくれるだろうか、という話になる。


「そのために獣人の皆さんを雇えるだけ雇いたいのですが、問題があります」


 クルルは粗野に見えて実はとても気の利く娘なので、あれだけ乱暴にこちらを中庭に放り出しておいても、きちんと体を拭くための布を用意してくれている。


 ちょっとクルルの残り香が感じられるそれで体を拭きながら、自分は話を続けた。


「単純なところでは、食糧問題です」

「……」


 イーリアは手元の紙束をめくり、ようやくいつもの皮肉っぽさを取り戻し、肩を小さくすくめてみせた。


 船の上でクルルに事前に説明していたおかげで、そのあたりのことは、こちらの言葉でも比較的わかりやすくまとめ直されているはずだ。


「たくさん食べるものね」

「そこに書いてあるのは、ほとんどが、どうやって獣人の皆さんを養っていくかの方法です。けどその計画を実現していく過程で、自然とジレーヌ領そのものを大きく発展させられるはずなんです」

「うー……ん?」

「マルサスの罠を抜け出すために、生産性を向上させる必要があります。要は産業革命を目指すという表現が一番近いのですが」

「ヨリノブ」

 イーリアは冷たく言う。

「あなたの国の言葉が多すぎ」


 途中から日本語になっていたらしい。


 イーリアはやれやれとため息をつく。


「でも、鳥? と、どこかの島の地図? それに塔みたいなのもあるけど、これはなんなの?」

「鳥と島の絵は、船員の皆さんに説明した時のやつですね。食糧増産にどうしても必要で」

「鳥が……?」


 子犬っぽい領主様は、鳥など食いでがないだろうに、みたいな顔をしている。


「塔は製錬用の高炉です。生産性を上げるには鉄の道具が大量に必要になりますから。最終目標は転炉なんですが、最低でも反射炉くらいまではたどり着きたくて、そのためには石炭も見つけ――」


 イーリアの無感情な顔を見て、また日本語だらけの早口になっていたと気がついた。


 産業革命あたりのことは、文明発展系シミュレーションゲームでも特に好きなパートなのだ。


 クルルにも説明したが、工業化の神髄とはすなわち鉄鋼生産である、というのはどれだけ強調してもし足りない。

 大量生産には労働力の効率化が必須であり、一人の労働力でどれだけ物を作れるかが勝負となってくる。そのためには、機械と機械を作るための道具と、そのすべてを作る鉄が必要となる。


 しばらくは鋳鉄、つまり鋳型に流し込む用の鉄でも問題ないだろうが、しなやかさがないのですぐに割れたり、叩いて鍛えることもできないため、用途が限られてしまう。


 やはり目標は、鋼鉄だ。


 鋼鉄はしなやかさと堅さを併せ持ち、叩いて鍛えることだってできる。


 この世界でも鋼鉄はあるのだが、あまり狙って作るものではないようで、溶かした鉄の中の一番良い部分だったり、なにか重要なものを作る際に特別に精錬してつくるもの、という扱いのようだ。


 しかし自分たちは、その鋼鉄を、大量に作り出す必要がある。

 そのロードマップなら、ある程度わかっている。


 鉄鉱石からいきなり鋼鉄を作りだすことは難しく、大量に作るにはいくつかの工程を経なければならない。


 まずは銑鉄と呼ばれる、固い代わりにしなやかさのない鉄を大量に作る。

 炭と鉄鉱石を放り込んで火をつければできる、昔ながらの鉄だ。


 高炉とはこの銑鉄を大量に作るためのもので、前の世界でも中世頃には実現されていて、必要なのは耐火煉瓦と、とにかく高い塔だ。


 そしてこの銑鉄を、ほどよく固くてほどよくしなやかな鋼鉄へと、効率よく変える必要がある。


 そのための反射炉、あるいは転炉だった。


 特に反射炉については、伊豆の韮山に現物を見に行ったことがあるのが大きかった。

 単なる知識ではなく、現実のものとして、構造をはっきり覚えているのだ。


 ついでに観光客向けガイドの人から、構造の問題点まで聞いていた。


 だから珍しく自信に満ちた顔をイーリアに向けたのだが、領主様は言葉を覚えたての子供みたいに「ハンシャロ」と呟いてから、理解を放棄したようだった。


「あー……えっと、その、鳥と島は、わかりやすいですよ。食糧増産のために必要な肥料です。グアノを見つけたいんですよ」


 しかしこちらの笑顔に対し、イーリアは理解することをすっかり諦めた顔で、ぐあーぐあーとアヒルみたいな鳴きまねをしていた。


「あ、ヨリノブにひとつ聞きたいんだけど」

「な、なんですか?」


 体を拭いた布と桶とたらいを、日の当たる場所に置きながら聞き返す。

 日本と違って湿度がさほど高くないので、天日干しでもそうそう臭くならないのがこの島のいいところだ。


「バダダムさんたちが地下室に運び込んでた大量の樽ってなんなのかしら。クルルに聞いても、ヨリノブに聞いてくださいって、すごい嫌な顔されたんだけど」


 一瞬、目を逸らしてしまう。


 クウォンでは、懸念するクルルに対して「イーリアなら大笑いしてくれるはず」なんて言って説得した。自分自身、本当の本気で、問題ないと思っていた。


 けれどいざジレーヌ領に戻ってきたら、急に不安になったのだ。


 そう感じたのは、たくさんの人が行き交うジレーヌの町中で、あの木樽を運んでいく最中のことだった。


 船から降りると、町の人たちが自分たちの帰島を祝ってくれた。


 大宰相様が旅から戻られた! とか、またなにか戦利品を手に入れられたようだぞ! なんて囃し立てる人々が大勢いて、子供たちはまさにキラキラと目を輝かせ、まるで勇者の帰還の有様だ。


 荷物を運ぶバダダムたちに対しても、他の獣人たちが実に誇らしげだった。


 まさかその樽の中に悪魔が潜んでいるなどと、誰も思いもしなかったろう。


 その悪魔が魔法を使えば、人々はたちまち精神を操られ、おかしな夢を見せられてしまう。

 彼らに抵抗する術など、なにひとつない。


 クルルの猛反対を押し切ってヘレナをジレーヌに連れ帰ろうと提案したのだが、そのことの現実的な意味が、島に帰ってきた途端に襲い掛かってきたのだ。


 しかし、領主様に隠していいようなことではないし、隠しきれるものでもない。


「えっと……あれはですね……」


 ヘレナのことをかいつまんで話すと、イーリアは驚いた狸みたいになって、椅子からぱたりと転げ落ちたのだった。

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