第173話

***クルル①***


 頼信の様子がおかしい。


 クルルは揺れる船の中、船倉の壁に背を預け、腕組みをしていた。

 微妙におかしいのはいつものことだが、今回のは少し違う。


 なにかに夢中というのではなく、思い詰めているようだった。


 大騒ぎのあったクウォンから出立したのは、もう五日ほど前になる。


 河口の町であの怪しげな古代帝国語研究家を拾った後、今は借り上げた船舶に乗り込んで、一路ジレーヌ領を目指している。


 その間、ずっとクルルは頼信に話しかけられなかった。


 クウォンでは望外と呼べる収穫があったのに、頼信は喜ぶどころか、いつにも増して殻の中に籠りがちなのだ。


 クウォンでは聖女の正体を暴き、悪魔のヘレナから古代帝国とやらの情報を聞き出せた。

 おまけに帝国において精鋭の呼び声高い魔導隊を、自分たちだけで壊滅させた。


 クルルはあの時のことを思い出すと、今でも興奮と緊張で尻尾の毛が逆立ちそうになる。


 魔導隊の魔法使いなど、まともに戦えば一瞬で殺されるような相手なのだ。

 傲岸不遜で、傍若無人で、クウォンにいた獣人たちを面白半分に傷つけているような連中だから、負ければどういう目に遭うかは馬鹿でもわかる。


 一度こちらが牙を剥いたら、完全に相手を倒しきるか、苦しみながら殺されるかのいずれかだった。

 それが、見習い魔法使いの自分と、訓練中の獣人の前衛一人とで、あっさり倒せてしまった。


 そのとんでもない奇跡を実現させたのが、合成魔石を使った新しい戦術である。


 なんとなれば、その戦術があれば今すぐにでも、自分たちだけで帝国を征服できるのではと、クルルなどは思う。


 だから、その戦術を編み出した張本人である頼信が、クウォンを出立してからずっと思いつめたように考え事をしていることについて、クルルには心当たりがひとつしかない。


 クウォンでヘレナから話を聞きだしたあと、頼信がまたとんでもない計画を口にした。


 クルルはそれに猛反対し、喧嘩みたいになってしまったのだ。


『猫姫、そんなに心配なら様子を見に行けばいいだろうに』


 呆れたようなバダダムの言葉に、クルルは片耳だけ上げ、無視をした。


 船倉に積み込まれた荷物の隙間で、バダダムとカカムは船用の太い綱を編んでいる。

 暇なので補修を手伝っているらしい。


『喧嘩が尾を引いているなら、貴女から和解を申し出るのも手では?』


 カカムからも言われ、クルルは苛立たしく大きな息を吐く。


「喧嘩などしていない。それに、馬鹿なことを言い出したのはあいつのほうだ」


 クルルの言葉に、獣人たちが声なく笑う。

 クルルはますます不機嫌そうに顔をしかめたが、そこに割って入る声があった。


『お嬢ちゃんがヨリノブ殿に怒ったのは、正しいことだったよ』


 クルルが視線を向けたのは、壁際に座り込み、ちびちびと酒を啜っているツァツァルだ。


『クウォンの町で、ヨリノブ殿が口にした提案……。あんな馬鹿げた提案に誰も怒らなかったら、健全な部隊とはとても言えん。発言力のある者に全員が盲従してしまえば、早晩、その部隊は勇敢と無謀をはき違えて全滅する』


 冒険者稼業の中、ひどい怪我で再起不能になったツァツァル。

 その怪我は勇気の証だろうが、ツァツァル自身には少し違う思いがあるのかもしれない。


『だが、今やあの不思議な小僧に正面から食って掛かれるのは、お嬢ちゃんくらいのものだ』

「そんな……こと、ないだろ。師匠や、それこそあんたから言ってくれたほうが、あいつはもっと聞く耳を持ったはずだ」


 クルルがそう言うと、ツァツァルは迫力のある苦笑をして見せた。


『猫姫よ、これだけは覚えておけ』

「?」

『あの小僧は、確かに周囲の言葉をよく聞いている。ワシらみたいな獣風情の言葉だろうが、町のごろつきだろうが、分け隔てなくな。それゆえに、ゲラリオの話となればなおのこと注意して聞くだろう』


 クルルは、それで? と続きを促すように顎を上げる。


『だから、つい、あの小僧のことを勘違いする。アレは誰に対しても公平で、寛大な心を持っているのだと』

「ち……がうのか? あいつは、お人好しだろう?」


 戦場を駆け抜け、そしてついにつまずいてしまった歴戦の戦士は、目を覆う包帯の向こうで笑っているように見えた。


『あの小僧の寛大さは、あくまでアレの戦術だ。意識しているかどうかはわからんがな。とにかく、降りかかる問題に対して、最適な答えを見つけようとしているだけだ。アレに心がないとか、感情が薄いとかいうのではない。あの感じは……そうさな』


 ツァツァルは見えないはずの目を、船倉の壁に切られた窓の外に向ける。

 その視線は、過去の戦場で見てきた勇者たちの姿を、見つめているのかもしれない。


『臆病なのだ』


 クルルはその言葉に、耳をぴんと立てた。


「臆病な奴が、あんな馬鹿げた提案をするのか? 怖いもの知らず以外のなにものでもないだろう?」


 クルルはそう言って、視線を船倉の中、船の前方方向に向ける。

 そこにはこの広い船倉を仕切って作られた、小部屋がある。


 船に乗る者たちが身分に応じて相応しい寝床を割り当てられるように、積み込む荷物もまた、相応しい場所をあてがわれる。

 尻尾の生えたクルルたちは、あけっぴろげの船倉に荷物と一緒に詰め込まれ、なんなら船の索具やらまで一緒くただ。


 クルルがこの船に乗ってからずっと気になっている小部屋の中には、もっと高価だったり、大切な客人の荷物が積み込まれている。


 たとえば、ジレーヌ領の大宰相様が、特別に注意を払うようにと船長に言い含めておいた、大きな木樽などが。


『臆病だとも。だからアレはやれることを全部やろうとする。手に入る武器は全部手に入れようとする。役に立ちそうな意見はないかと、誰の話にだって耳を傾ける』


 クルルはツァツァルを前に、不意に居心地が悪くなる。

 目に巻いたその包帯の向こうから、すべてを見透かされているような気がするのだ。


『だからアレは一見すると、誰に対しても友好的に見える。だが、本当のところは違う。臆病モノが戦場で生き延びようとしているだけのことだ。若い頃のゲラリオを思い出すよ。臆病ゆえに戦いで生き延びられるが、臆病ゆえに、本当の意味では滅多に心を開かない』


 クルルは今までのことを思い返し、少しずつ口の中が苦くなっていく。

 ツァツァルの言うことに心当たりが多かったし、なにを言いたいかもわかってきたから。


「あいつは人を使うのはうまいが、人に頼るのは下手だってことか」

『わかってるじゃないか』


 ツァツァルがにやりと笑う。


『だからこそ、お嬢ちゃんはアレに頼られて、ほだされて、結局アレの提案を認めたのだろう?』


 仕切りの向こうを指差すツァツァルだが、ほだされて、という言い方にはゲラリオそっくりのからかいが含まれていた。

 クルルがツァツァルを睨みつけると、目が見えないはずなのに、ツァツァルは楽しそうだった。


 他の獣人たちから師と呼ばれ、達観した聖者のようなのに、本質はあの下品な師匠と似たり寄ったりだとクルルは思う。


 その真意は、腹立たしいが、いつも大体正しい、だ。


『クルルよ』


 そのツァツァルが、不意にクルルの名を呼んだ。


『あの臆病な小僧がきちんと向き合うのは、オマエくらいだ。馬鹿なことを言い出したら頭をひっぱたけるのもオマエくらいだろうし、なにより』


 ツァツァルは難儀そうに姿勢を直し、見えないはずの目をクルルに向けた。


『動けなくなった時に手を引っ張れるのも、オマエくらいだ』


 クルルはほどなく、バダダムとカカムも自分のことを見ていることに気がついた。


 ジレーヌ領の命運を、そして獣人たちの未来を握っているであろうあの人物と対等に話せるのはお前だけだと、頼るような目。


 けれどその実、目の奥のほうにはからかいに似たなにかを含んでいる。

 どうして対等に話せるのかと、その理由を踏まえているから。


 クルルは尻尾をうねらせて、睨み返す。

 バダダムとカカムはおとなしく視線を逸らしたが、クルルの顔は晴れない。


 周囲が自分と頼信のことをどう見ているのか、もちろん知っている。


 クルル自身、ジレーヌ領で頼信と最も親しいのは誰かと問えば、自分だろうくらいの自負はある。

 けれどイーリアにはしょっちゅう嘘だと言われるのだが、頼信の気持ちは本当のところわからないし、自分自身のこともよくわからなかった。


 たとえばクウォンで魔導隊と戦った時のことだってそうだ。


 魔力が尽きかけて死神の口が閉じようとし、もう無理だと膝を屈しかけたところに、頼信が駆け寄ってきた。まだやれると励まして、強く抱きしめてくれた。

 そうしたら、驚くほど魔力が体の中から湧き出てきた。


 頼信はいつもそうやって、もうだめだという時に助けてくれる。


 そして皆がもうだめだと思う時にこそ、誰よりも凛々しい顔をしていることを、クルルは傍で見てきたからよく知っている。


 いつもああなら、クルルだってなにも迷わない。

 けれど、騒ぎが収まってしまうと、頼信はすぐに鼠みたいな小心者に戻ってしまうのだ。


 もっと一緒にいたいと思って近づいても、なんだかんだ理由をつけては、一線を引こうとする。目も逸らし気味だし、最初は嫌われているのかと、ずいぶん混乱した。


 特にクルルとしても、初対面の対応は悪かったと思っているので、それが尾を引いていると言われたら納得する。


 でも、それも、今更の話ではないかとクルルは思う。


 だから頼信の煮え切らなさに、苛々するのだ。


 熱く溶けるような気持ちが、たちまち冷え固まるのに十分なくらいに。


 おかげで、クルルのほうも自分の気持ちを測りかねていた。


 どんな危機でも助けてくれる凛々しい頼信は素敵だが、普段の頼信はクルルの最も嫌う軟弱者である。

 一体どっちの頼信が本物で、自分はどちらに基準を合わせればいいのかと、クルルはずっと迷っていた。おかげで強く踏み込めず、せいぜい、手を繋ぐくらい。


 師匠のゲラリオなどは、その曖昧さを見て、兄と妹みたいだと言ってくるのだろう。


 けれど、とクルルは思う。


 ツァツァルの言うとおり、あいつの本質が臆病者だとしたら、納得がいく。

 誰よりも臆病だから、生き延びようとする。


 生き延びようと誰よりも強く思っているから、戦いの場では絶対に諦めない。


 そして危険が去ってしまえば、その臆病さだけが目立ってしまう。


「……あいつは本当に、面倒くさい雄だ」


 クルルのうめき声に、ツァツァルはふすっと鼻を鳴らした。


『お似合いだと思うが?』


 クルルは手近にあった麻束を掴み、ツァツァルに投げつける。

 目が見えない片腕の戦士は、どういう仕組みなのかあっさり受け止めてしまう。


『くくっ。元気でなによりだ』


 どう見ても元気からは程遠いツァツァルに言われ、クルルは顔をしかめるしかない。


 そしてツァツァルは、言った。


『ヨリノブ殿がクウォン以来、妙な様子なのは感じている。あの仕切りの向こうはワレラが見張っているから、上に行ってくればいい。仕切りの向こうのアレが暴れ出しても、多少ならワレラで持ちこたえられるだろう』


 仕切りの向こうに積み込まれたもの。


 クルルが頼信のことを気にしつつ、ずっと船倉にいた理由が、そこにいるのだった。

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