第166話
クルルとバダダムが走り、ヘレナが地面に潜って消えた。
自分は安全な場所にいろとも言われたが、なにかあった時には死なば諸共だし、かさばる魔石の運搬役くらいはできる。
鍛えている二人から引き離されつつも、バダダムが聖堂の通用口に取りつく頃には、自分も敷地内に入れていた。
クルルが攻撃用の魔石を構えているのは、聖堂大広間の通用口の鉄扉を吹き飛ばすため。
荒くなる息をどうにか抑えながら聖堂の壁に背中をつけ、クルルとバダダムを見やる。
二人はヘレナの陽動を待っている。
そこに、バダダムが牙を噛みしめながら言った。
『……師匠がやられている。冒険者だとばれたようだ。息は……あるが、息遣いから、ねじ伏せられているようだ』
クルルの耳と尻尾の毛が逆立つ。
きっと獣人を傷つけられ、我慢できず攻撃をし、異端審問官ではないことがばれたのだろう。
獣人のために怒る教会人など、この世界には滅多にいないのだから。
しかし、自分の腹は固まった。
手加減など、必要ない。
「クルルさん」
呟いたその名に、クルルがこちらを見る。
「任せろ」
直後、聖堂の中で動きがあった。
突如として絶叫あがり、爆発音。そして怒号。
ヘレナだ。
「やれ! バダダム!」
『おいさ!』
バダダムが腕に力を籠めると、鉄の門扉にかけられていた閂がひしゃげ、ねじ切られる。
そして丸太のような足で蹴りつけると、門扉が大きくゆがんで、わずかに中が見えた。
『猫姫!』
「風よ!」
それは風と呼ぶにはあまりにも強力で、ほとんど爆発だった。
魔石の威力を一瞬で解放したのだろう。
三級程度の魔石が一瞬で煙に代わり、折れ曲がった鉄扉が聖堂の中に向かって吹き飛んだ。
すぐにクルルは背負っていたバケツプリンに持ち替えて、躊躇うことなく中に飛び込んだ。
「顕現せよ、死神!」
魔法を起動するクルルを飛び越え、バダダムが巨大な掌の爪を立てて猛獣のごとく乱入した。
ヘレナの一手で混乱していた聖堂大広間。
しかし、すぐに凛とした声が響く。
「奇襲! 敵は二人! 魔石を構えろ!」
兵は考えるより先に動く。
だから頭脳はひとつ。
ようやくひしゃげた門扉を跨いで中に入った自分に見えたのは、仁王立ちのクルルの背中と、その背中を飛び越えて襲い掛かるバダダムの後ろ姿。
そして、方陣を組んで魔石を構える魔導隊の姿だった。
彼らはヘレナの奇襲にも浮足立たずに、鍛えられた兵として即応した。
どう見てもどチンピラなのに、それぞれ優秀な兵なのだ。
ああ、高潔な体に、高潔な魂が宿れかし!
彼らの傍若無人さは、訓練に裏打ちされた自信、あるいはエリートであるという鉄の自負であり、決して慢心しているわけではない。
紛うことなき、食物連鎖の頂点。
彼ら捕食者が見据えているのは、そんな世界の仕組みに噛みつかんとするバダダムとクルルだ。
愚か者の二人に目掛け、訓練された魔法使いたちの最大出力の魔法が、今、無慈悲に放たれようとしている。
「魔法――撃て!」
指揮官の指示。
そして。
「なっ⁉」
不発。
違う。
クルルの身体が爆発したかのように、その腕の中から紫色の煙が噴出した。
魔導隊の放った魔法をすべて吸収した死神の口が、盛大なげっぷをしたのだ。
「くそ、死神の――構わん、撃て! 吸収には限度が――」
そう。
吸収には限度がある。
だが、クルルが抱えているのはバケツプリンほどもある合成魔石だ。
これに匹敵する天然魔石は、おそらく今の世には存在しない。
この質量と釣り合うだけの量を買い集めようとしてさえ、途方もない金額になる。
そして魔法使いが物理法則から逃れられないように、帝国清栄の魔導隊も、経済原理からは逃れられないはず。
この合成魔石すべてを消費しきれるほどの魔石を彼らが持っている可能性は、かなり低い。
クルルの呼び出した死神は、彼らのすべてを食らいつくすだろう。
「た、隊長!」
その声は喉を絞り切った悲鳴だった。
「あ――」「ひっ――」
クルルの向こうで、血しぶきが上がる。
宙を舞っているのは、丸太ではない。
人そのもの。
ほどなく、文字どおりに血の雨が降る。
『グルオオオオオ!!』
バダダムが吠え、その腕を振りぬき、恐るべき牙を突き立てる。
肩を噛みつかれた魔導隊の男は、絶叫しながらバダダムの身体を押し離そうとするが、バダダムは顔を殴られようが腹を蹴られようが、全く意に介さない。
強靭な上半身を振るい、噛みついた男の体ごと、周囲の魔導隊の男たちをなぎ倒す。
それは圧倒的な筋力で、人間にはとても及びもつかない純粋な暴力だ。
そして、人類が魔法で克服したはずの、原始の力であった。
魔法が支配する世界のエリートである彼らは、目の前で起きていることが信じられず、それでも懸命に魔法を起動させようとするが、まったく反応しない。
いや、しているのだが、出てくるのは紫色の煙だけ。
クルルの抱えている魔石が、巨大な死神の口となって、あらゆる魔法を飲み込んでいる。
「ひい、た、助け――ぎゃあっ!」
「くそ、こんな、獣風情に――」
バダダムが腕を振りぬくたびに、男がなぎ倒され、赤いものが空を飛ぶ。
ほんの数瞬で、魔導隊で立っているのはたった数人。
あと一息。
だが、クルルの足が揺らいだ。
「……っ!」
慌てて駆け寄り、その肩を支えたら、冷たい汗でびっしょりだった。
噛みしめた唇からは血が流れ、顔色は紙のように白い。目の焦点も不安定。
魔力欠乏の症状だ。
魔導隊たちの魔法をたった一人で相殺し続けるには、巨大な合成魔石を起動し続けなければならない。
クルルは決して、優秀な魔法使いではないのだ。
それでもクルルは背中を丸め、肺の中のすべての息を吐こうとするかのように、体中の魔力を振り絞っている。
バダダムが全員を血祭りにあげるまで、すべての魔法を封じなければ逆転される。
自分は無我夢中で、クルルの細い体を両手で力いっぱいに抱きしめた。
使いかけの歯磨き粉を、全部絞り出すかのように。
「あと少しです!」
クルルは震える瞳でこちらを見て、歯を食いしばったまま、小さく笑う。
が、膝が崩れる。
このままでは死神の口が閉じる。
バダダムの向こうにいる敵の指揮官が、即座に好機に気がつき、地獄に仏を見たような顔をした。
魔法の制限が解かれれば、彼らは魔法の専門家。
帝国最強兵力の、魔導隊の牙が再び現れる。
「クルルさん――」
「ヨリ、ノ――」
この世界を支配するルールが、復活しようとしている。
急激に死神の口から上がる煙の色が薄くなる。
敵指揮官が魔石を構える。
バダダムの爪は、やや、遠く――。
「よし、よくやった」
そこに、人が現れた。
顔半分を大きく腫れ上がらせた、ずたぼろのゲラリオだ。
「師、匠……」
「へ、とんでもないこと考えやがるな」
クルルの腕からゲラリオが合成魔石をもぎ取ると、紫色の煙が一気に噴き出した。
魔導隊の生き残りが絶望的な顔になる。
今まさに放とうとしていた魔法が、彼らの希望が、すべて紫色の煙となって消えた。
「おい、バダダム!」
『これで最後ですよ! 師匠!』
バダダムが飛び掛かったのは、最後まで気丈に魔石を握っていた指揮官の男。
信じられない、という顔をし、それでも腰の短剣に手を伸ばしたが――。
「そんな剣で敵うわけねえだろ」
獣人の分厚い毛皮は剣の抜き打ちを簡単に弾き、バダダムは大きな掌で相手の頭を叩き落とす。いや、そう見えただけで、ちゃんと首はつながっていた。
地面に一瞬で突っ伏した指揮官は、尻を高くした間抜けな格好のまま、ピクリともしなかった。
おそらく時間にしたら、一分経つか経たないか。
自分は、ようやく息をするのを忘れていたことに気がついた。
「ぶはっ……はあ、はあ……」
たちまち鼻を衝く、ものすごい血の匂い。
クルルが床に手をついてえづいているのも、その匂いのせいか、あるいは急激に魔力を使ったせいか。
「ヨリノブ、魔石をありったけ寄こせ」
ゲラリオに言われ、その怪我を心配するより前に、懐の予備の魔石を渡す。
「表の連中を片付けてくる。お前はクルルと一緒にいろ。バダダム!」
『はい、師匠』
血まみれのバダダムは、爪に引っかかった真っ赤な服の切れ端を外しながら、ゲラリオと共に聖堂から出ていった。
自分は腰が抜けて、クルルの隣にへたり込む。
ぎりぎりで、うまくいった。
自分の策とは、これ。
合成魔石を用いてすべての魔法を封じたうえで、獣人が攻撃に出るというものだった。
特に難しい話ではなく、単純なカードの強弱の組み合わせだ。
普通の人間は、絶対に獣人の筋肉に勝つことはできない。それを倒せるのは魔法使いだけだが、獣人の魔法使いは存在しない。
よって、魔法を完全に封じることができるのなら、獣人に勝てる者はいない。
理論上、接近戦でこの戦法に勝てる魔法使いは、この世に存在しないのだ。
もちろんこの戦術も万能ではない。
敵も同様に獣人を配備すれば、こんな簡単にはいかなくなる。
だが、今のこの世の常識では、そんな可能性は誰も考えない。
せいぜい冒険者たちがそうするだけ。
特に魔法に絶対の自信がある魔導隊は、絶対にそんなことをしない。
だからうまくいく自信はあったが、その結果に、口元が引きつるのを止められなかった。
州都ロランから大規模に攻められた時も、大規模魔法による威嚇だけで済んだ。
凄惨な血を見るのは、初めてかもしれない。
『しばらく夢でも見てる?』
にゅっと地面から顔を出したのは、ヘレナだ。
「いえ……結構です」
ヘレナは少し目を細め、池に潜る河童のように消えた。
悪魔の自分が人目についてはまずい、とわかっているようだ。
「本当の戦いとは、こういうことのはずですから」
姿の見えないヘレナに向けて、あるいは自分自身に向けて、そう言った。
倒れている男たちは、ある者はうめき声を上げ、ある者は悲鳴混じりのすすり泣きをしていた。
医療が発達していないここでは、骨折でも十分な命取りになる。ましてや今まで傍若無人な蛮行を繰り返していた者たちが、松葉づえ生活を送るとなると、どれだけ身の危険を感じることになるだろうか。
それに、バダダムは致命傷を与えないように手加減していたようだが、爪が掠るだけで人間の皮膚はたやすく裂ける。ひどい裂傷を負って虫の息の者が何人も見えたし、聖堂の広間は血の海になっている。
抗生物質が無ければ、傷を塞いでも予後がどうなるかは、予断を許すまい。
ジレーヌ領はおままごと。
そのとおりだと思う。
「聖職者の皆さん!」
自分が声を張り上げると、聖堂の隅で鼠のように震えていた聖職者たちが、こちらに聞こえるくらい息を飲んだ。
「怪我人の手当てを! 助かる人たちがいるはずです!」
自分も助けられる人は助けようと立ち上がろうとして、バランスを崩して尻もちをついた。
腰が抜けているのかと思ったら、クルルがしがみついているせいだった。
「……っ」
クルルはなにか言ったようだが、聞き取れなかった。
ただ、その感情は耳と尻尾からわかった。
「大丈夫です。大丈夫ですから」
細い体を抱きしめると、小刻みに震えていた。
いつも強気だが、それは仮面でもある。
対人戦のショックもあるだろうが、クルルは自身の魔法使いとしての力量を知っているから、死神の口を起動させられ続けるかどうか、本当は自信がなかったのかもしれない。
その賭けに勝てたことで、押し込めていた不安がどっと溢れてきてしまったのだろう。
「ヘレナさん」
『はいはい』
クルルが驚いたように顔を上げた時には、ヘレナが地面の下から人差し指を振って、すぐにいなくなった。
その頃にはクルルの身体から力が抜けて、ぐったりとしていた。
「ありがとうございます」
少し顔を出したヘレナは目を細めていた。
眠らされたクルルを聖堂の隅に横たえる頃には、男たちのうめき声も聞こえなくなっていた。
どうやらヘレナが全員を眠らせて回ったらしい。
血の海の中で虎視眈々と反撃の機会をうかがっている者もいたろうから、ありがたい。
それについでに彼らの持っている魔石も、おいしくいただいているようだ。
ただ、聖職者たちは目の前のことにまったく理解が追いつかないのか、いつまでもぽかんと立ち尽くしていたのだった。
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