第153話

 ノドンとのやり取りをゲラリオに伝えると、悪くないんじゃないかと言われた。


 どんな形であれ聖女に会えれば、ある程度の目的は達せられる。

 それにもしも魔導隊との戦いになれば、聖女が本物かどうかを確かめる絶好の機会と言える。


 ただし、聖女が瀕死の怪我人を見捨てないだけの人の心を持っている、としての場合だが。


 そんな感じで、意外な再開から突破口が開けようとしていたのだが、その代わりに口を引き結んでしまった者がいる。


 クルルだ。


「許せないとしても、自分はその気持ちを否定しませんよ」


 そう言ったのは、ノドンと再会した翌日のこと。


 万が一にでも聖女が現れるかも、と期待して聖堂に行こうとしてクルルを誘ったのだが、無視された。そこにゲラリオが師匠としての声で、ヨリノブの護衛に就けとクルルに命令した。

 おかげで昨晩から一言も言葉を交わしていないクルルと、二人の時間が取れた。


 ちなみに昨晩は、クルルは自分から最も遠い場所に陣取って、毛布にきつくくるまって眠っていた。


 ゲラリオは苦笑していたし、ツァツァルは孫娘を見守るようだったし、バダダムやカカムはノドンの横暴をよく知っているので、クルルが感情を持て余す様子に共感していた。

 ファルオーネは事情をよく知らないのもあるし、我関せずで、持ってきていた数学のメモ書きで勉強していた。


 あの雰囲気の中、とてもクルルに話しかけることなどできなかったので、ゲラリオの気遣いは助かった。


 部屋から出る際、わざとらしいウインクをされたのが嫌だったが。


 クルルは昨日、ノドンから受け取ったパンを汚れたものみたいに拒否していた。

 そうなるだけの過去があったとはわかるのだが、自分はその最もひどいところを知らないのだった。


 それになんだかんだ、ノドンは自分に仕事を教えてくれた上司でもあって、憎み切れない、というのが本当のところ。


 そのことが、クルルにとっては裏切りに見えるのだろう。


 その気持ちは、わからないでもない。

 それにもちろん自分は、イーリアやクルルの味方であると自負している。


 しかし、それは決してすべての感情を肯定する、という意味ではない。

 そして、するべきことでもないと思った。


 相手の好きなものは全部好きで、嫌いなものは全部嫌いだなどというのは、とても健全な関係とは言えないのだから。


 クルルもそんなことは頭ではわかっている……と思いたいのだが、昨晩からの様子だとちょっと怪しかった。

 こういうところはイーリアのほうが、割り切れる性格だろう。


 クルルも意外に子供っぽいのだ……と思い、はたと気がついた。


 いや、実際に、クルルはまだそんなに大人ではないのだと。


 世知辛い世の中を生き延びているせいで、ひどく大人びて見えるだけ。

 だから歩み寄るべきは、大人である自分のほう。


 もちろん自分も全然幼稚な部分ではあるのだが、社会人として多少は揉まれた経験がある。


 そもそもクルルが聞く耳を持ってくれるか不安なところはありつつ、その時はその時だと、言葉を選んで話しかけた。


「クルルさんは……その、自分が裏切ったと思っていますよね?」


 いつもは隣を歩くクルルが、数歩後ろを歩いている。

 返事はもちろんない。


「過去のことだから全部許せとか、どんな悪人にも必ずいいところがある、と言いたいわけではないです。でも、世の中を全部白か黒かで塗りつぶそうとすると、最後に塗りつぶされるのは自分、のような気がするんですよ」


 こちらを塗りつぶそうとする連中はもちろん塗りつぶし返すべきだが、相手がもう反撃できなくなったのなら、いくばくかの余地は残しておくべき。


 一度そういうことをしたら、後には引けなくなるのだから。


「もちろん、クルルさんがノドンを許す必要はないです」


 返事を期待せず、ただ自分は自分の考えを述べる。


「それに、ノドンを全面的に支持している誰かを、受け入れる必要もないです。でも」


 足を止め、クルルを見た。


「クルルさんが関わる全ての人に、クルルさんと同じような完璧な白を望もうとするのなら、それは違うと主張します」


 クルルはこちらを見ず、視線を上げもしない。

 その頑なな様子はいかにも思春期の女の子らしくて、苦手意識がぞわぞわと湧いてくる。


 やっぱりいつもはクルルに甘えてばかりのイーリアのほうが、ずいぶん大人だ。

 いや、あちらはちょっとスレすぎているかもしれないので、その点が逆に心配なのだが。


「それに、腹の立つ誰かが、もっと腹が立つことに、ものすごく有用な存在になることもあるのです。その点からも、塗りつぶすのは損だと思います。もちろんそれでもいい、全部灰にすればいい、という考えもあると思いますが……その先にあるのは、焼け野原です」


 特に今のクルルには、その力がある。

 あの場で魔石を抜かなかった自制心は、認めるべきだろう。


「ノドンはともかく、コールさんについてなら、この理屈が理解できるのでは?」


 自分がこの世界に来たばかりの頃、コールと共に肩を並べて魔法の訓練をして、なんだかんだ気心が通じるなんて言われても、クルルは絶対に信じなかっただろう。

 ましてや、コールがいなければジレーヌ領の再構築は不可能だなんて言われたら、頭がおかしいと言われたはず。


 でも、コールは、今や欠かせない人員だ。


「世の中、なにが起こるかわかりません。どこかに隙間を残し、保険をかけておくべきです」


 特にこの世界には、魔法という便利な暴力装置がある。

 やろうと思えば気に食わない誰かをすぐに灰にできるのだから、巨大な力を感情の赴くままに利用していたら、倫理の坂を転げ落ちるなんてのはあっという間のことだろう。


 正規の魔法使いたちが選民思想にまみれているのも、多分そういう話なのだ。


「それに、大抵のことは時間がどうにかしてくれます。今は飲み込み切れない感情でも、そのうちどういうわけか、喉をとおって、どこかに消えていくんです。だからその時のために、取り返しがつく範囲に、とどめておくべきなんです」


 自分が子供の頃に大人からそんなことを言われても、絶対に信じなかった。

 だからクルルが奥歯を噛みしめている気持ちもよくわかる。


 けれど自分とクルルとの関係は、たまたますれちがった子供と大人ではない。


 自分は、こう言った。


「クルルさんは、自分の馬鹿げた言葉を何度も疑ったと思います。でも、最後には信じてくれました。違いますか?」

「っ」


 クルルは背中をつつかれたように驚いて、それからすぐにうつむいた。


 でも、もうさっきまでの無表情ではない。


 同じ無表情でも、ずるい、という言葉が顔に書いてあった。


「適当な言葉で誤魔化すつもりはないです。それから、クルルさんの機嫌を取るためだけに、ノドンへの敵意に同調したくもないんです」


 ご機嫌取りという言い方には、クルルは耳をいきりたたせて睨みつけてきたが、見つめ返すと気弱に目を逸らしたのは、クルルのほうだ。


 そしてクルルは、なにか言おうと口を開きかけ、すぐに苦しそうに閉じてしまう。


「なにも言わなくていいですよ」


 クルルが顔を上げたのは、突き放された、と思ったのかもしれない。


 その怯えたようなクルルに向け、自分は手を差し出した。


「言葉は必要ないという意味です」


 ぽかんとしたクルルが、こちらの顔と、手を見比べた。


「我ら生まれた時は違えども……続きは、なんでしたっけ」


 こういうことは健吾が大好きだった。


 魔石の新しい活用法を見つけ、大儲けしようと三人で集まった。

 できるかどうかわからないし、三人はそれぞれに目的が違っていた。


 あの時の気持ちを言葉で表そうとしても、なにひとつうまくいかないだろう。


 けれど手を重ねるだけで、言葉ではないなにかが繋がった。


「……」


 クルルは不意に泣きそうに顔をゆがめ、牙を見せた。


「――アホ」


 ヨリノブ、という単語は、もごもごと口の中に消えた。


 そしてその頃には、クルルの手がこちらの手を掴んでいた。


「少しアホなくらいじゃないと、大宰相なんてやってられませんよ」


 そもそも大宰相という言葉自体が、人を小ばかにしている。

 イーリアは意地悪だし、四角四面ではあの領主様の相手はできない。


「ノドンはクソ野郎かもしれません」


 自分はクルルの手を握り返しながら、言った。


「だから直接手なんか触れたくないし、近寄りたくもないというのはわかります。でも、長い棒があれば、本物のクソでも突いたり持ち上げたりできるでしょう?」


 自分を介して、利益だけ手に入れればいい。


 そう思って言ったのだが、クルルの表情は今日一番、芳しくなかった。


「お前は……」


 呆れかえったようなクルルの言葉と、大きなため息。

 こちらの手を握っていた力も抜け、クルルの心が離れていく音まで聞こえるようだった。


 なにか表現を間違えただろうか。


 そんなふうに戸惑っていたところ。


「変な奴」


 クルルはそう言って笑うと、手に力を込めてきた。

 引いた波がまた寄せるみたいに、クルルは隣に立った。


「アホヨリノブ」


 今度は割りとはっきり言って、肩をぶつけてくる。


 なんだかよくわからなかったが、とにかくクルルの表情からは、陰惨な影のようなものが消えてくれた。

 少なくとも自分にとっては、それだけで十分だった。


 そしてどちらともなく歩きだし、聖堂に向かう。

 いや、どこに向かうかなんて、あまり関係なかったかもしれない。


 これからも同じ道を進めることを、確かめられればよかったのだから。


 ただ、言葉もなく二人で歩きながら、思ったことがある。

 イーリアがいなくて助かったと。


 クルルは嬉しそうに喉を鳴らしながら肩を寄せ、尻尾でちょっかいをだしてくる。

 多少の大蒜では、誤魔化せないだろう。


 青い空の向こうで意地悪そうに微笑むイーリアを想像し、お引き取り下さいと祈ったのだった。

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