第137話
電話もファックスも、それどころかまともな郵便制度さえないこの世界。
けれどジレーヌ領がロランを打ち破った話は、またたくまに広まった。
その結果がこの騒ぎなのだから、その「話が広まる過程」を、逆に利用することもできるはず。特に、自分たちが抱える巨大な問題の解決に。
もちろんそこに前の世界の知識で味付けをして、健吾と一緒に案を確認した。
最後にこの世界の広い知識を備えているコールに確認してもらってから、イーリアの裁可を待つ。
計画の設計図を見せられたイーリアは、ぽつりとつぶやいた。
「ケンゴの授業で見た気がするわね。でも、いいんじゃない? こっちを利用しようとするやつらを、逆に利用しつくす感じが、私は好き」
理解が早く、ちょっと意地悪な領主様のゴーサインをもらってから、クローデルのいる教会へと相談を持ち込んだ。
◆◆◇◇
「我々に、裁判権を?」
なんだか久しぶりに会う気のするクローデルは、頼りない少年から、落ち着いた青年になりつつあった。
司祭という立場がそうさせたのかもしれないが、元々優秀だったのも大きいだろう。
教会に押し寄せる信徒を前に気圧されるのではなく、見事成長の糧とできているようだ。
「ええ、この島に持ち込まれる政治的な争いの仲裁を、こちらの教会で引き受けてもらえないかと」
「……」
クローデルは埴輪みたいな顔でこちらを見てから、突然周囲を見回し、背中を丸めて声を潜めた。
「ヨリノブ様。ロランの大聖堂から来ている教会法学者を、私はあまり信頼しておりません。彼らは信仰よりも、この領地からどれだけ利益を上げられるかにばかり心を砕いています」
不正とあらば身内もきちんと攻めるクローデルの清らかさに、心が洗われる。
ここの教会に人々が押し寄せるのは、ジレーヌ領の発展に神の御加護があったから、なんていう噂のせいではないだろう。
因果は逆で、クローデルみたいな素晴らしい司祭がいるのならば、噂どおりに神に微笑まれていてもおかしくない、と皆が思ったのではないか。
「ええ、もちろん承知しております。しかし、正義を為すには私たちにはあまりに人手と資源が足りないのです。そこで、教会が……いえ、ロランの大聖堂が儲ける分だけ、皆さんに働いてもらいたいのです」
クローデルが、不思議そうに眉をひそめる。
「働く、ですか?」
「教会の底力を利用させてもらいたい、と言い換えても構いません。裁判権にまつわる利益は、その対価ですね」
きっとロランの大聖堂からは、ジレーヌ領の勢いに乗っかって利益をかすめ取れと、あれこれ言われているはず。
クローデルの様子を見るに、そのロランからの命令には抵抗し、正義を貫こうとしているようだ。
明らかに補司祭の時よりも肝が据わった感のあるクローデルは、ひとつ咳ばらいをした。
「お聞かせください」
「教会はアズリア属州のみならず、広く帝国の隅々にまで行きわたっているでしょう? そのつながりを利用させてもらいたいのです。前の世界に、郵便制度というのがあったのですが」
自分はそう切り出して、説明した。
遠方の地から持ち込まれる権力者同士の争いについて、どちらの言い分が正しいかを調べるなんてこと、とても自分たちではやっていられない。
だからここで、教会を利用する。
街にいる聖職者にはろくでもないのが多いが、そうでない者たちもたくさんいる。
たとえばどんな辺鄙な場所にでも赴き、自力で小屋を建て、信仰を説き続け、地域で一定の権威を得る敬虔な聖職者たちだ。
帝国の官吏が嫌がって行かないような場所にも根を張っているからこそ、教会は帝国とは別個の権力を確立できているのだ。
しかも聖職者の多くは文字の読み書きができ、互いに頻繁に連絡を取り合っている。
事実上、郵便局があっちこっちにあるようなものだった。
「裁判権をお渡しする代わりに、訴えの調査についてもすべて教会に行ってもらいたいのです。ただ、最終的な裁判結果は、イーリア様の名前で出して欲しいです。代わりに裁判にまつわる収入は、教会が六、イーリア様が四で分配する。これらをお願いしたいのです」
クローデルはどうにか話についてこようと、事前に書いてきた概念図に目を落としている。
イーリアに一度説明したあとなので、この世界の人でも理解しやすい形になっているはずだ。
「これが実現すれば、各地の権力者が困った際、真っ先に頼られるのは教会になるはずです」
それはイーリアの下に押し寄せる相談事からの防波堤となる一方、教会という組織にとっては権威が高まることになる。
おまけに貢ぎ物や寄付金も期待できるから、ロランにいる高位聖職者たちにとっても悪い話ではない。
「な、なんとなくお話は分かりました。ですが……」
クローデルの顔は晴れない。
「ですがこの話は、ヨリノブ様たちにとって、あまり得にならないように見えます。特に、困った領主様たちが教会に頼るようになるというのは、イーリア様のためにならないのではないでしょうか? それでは、誰がジレーヌ領の権力者であるか、わからなくなってしまいませんか?」
健吾が言ったように、裁判権とは、その土地で誰の言うことを聞くべきかを示すもの。
領主たちの揉め事を教会に任せ、イーリアは裁判にまつわる収入の四割だけをとる、みたいな話では、ジレーヌ領の真の権力者は教会であると思われかねない。
クローデルは、わずかな金のために大切な権威を譲り渡しても構わないのか、と尋ねているのだ。
だが、それは仕組みの話であり、仕組みを動かすのは人間である。
そして目の前にいるのは、信用のおける未来の大聖職者だ。
「大丈夫だと思います。クローデルさんが正義を忘れ、イーリア様への敬意を欠かすような方になるとは思えませんから」
「っ……」
口を半開きにしたクローデルは、それから、みるみる頬を赤くしていった。
「私はクローデルさんがここにいるからこそ、この計画がうまくいくと思うのです」
これは本音半分、殺し文句半分だった。
自分たちは正直言って、無慈悲な政治の世界とは関わりたくない。
イーリアを筆頭に領土的野心を持つ者などいないし、望むのはこの領地が安定し、手の届く範囲の人たちの生活を守ること。
自分は落ち着いた環境でゲームを制作したいし、イーリアはのんびり昼寝をしたいし、ゲラリオたちは荒っぽい生活から引退して余生を過ごしたい。
でもこの無慈悲な世界では、そんな些細な願いを叶えるためだけでも大変で、しかたなく奮闘しているに過ぎない。
だから長い目で見て自分たちの得になればそれで構わない。
だが、ここまでの話だけだと、クローデルの良心に大きく賭けすぎな面も否めない。
自分などよりよほど現実的で、人を信用しないタイプのイーリアがこの計画に賛成したのは、もうひとつとても現実的な利益が見込めるからであった。
むしろ儲けの主眼はこちらにある。
それは、裁判権からあがる収益の四割、などという金額ではない。
「加えて、もうひとつお願いしたいことがありまして。私たちの本命と言いますか、計画の肝はこちらになります」
クローデルはやや驚きつつ、どこかほっとしたような顔になった。
信仰の強さを信用されて嬉しい半面、いきなりジレーヌ領の命運を託されて戸惑っていたのだろう。
「私たちのすべては、魔石鉱山にかかっています」
「それは、はい」
「そこで私たちは、島の外の魔石鉱山の開発にも乗り出したいのですが、魔石鉱山というのは辺鄙なところに偏って存在しているようです。しょっちゅう行き来するのは難しく、島から管理するには遠すぎます。おまけに現地の人たちは信用できるかどうかわかりません」
ロランの大聖堂がこのクローデルを司祭に任命したのは、あの強欲司祭の不品行が目に余ったから、というだけではないだろう。
ずる賢い大聖堂の連中が認めるくらい、クローデルは賢いのだ。
即座にこちらの話を理解した。
「あ、そうか……そうなのですね。つまり、この裁判権を支える仕組みを、皆さんの魔石鉱山開発にも利用したいと、そういうことですね?」
「はい。遠方の地とのやり取りのために、津々浦々に存在する教会の協力を得たいのです」
どこの領地にも教会があり、その教会は一定の権威を確保している。
教会で寝泊まりすれば安全は確保され、鉱山調査のために地元権力者から便宜を図ってもらう交渉もしやすくなる。
そして最も重要なのは、たとえば廃鉱山が復活できるとなった時のことだ。
おいそれと行き来できないはるか遠方の土地で、魔石鉱山を開発しなければならない。
困難に満ちた採掘や、掘り出した魔石の管理と運搬など、この島からではとても采配などできないし、現地にそれだけの人員を割くなんてことは到底おぼつかない。
ましてや強欲な現地権力と渡り合って、新規の鉱山を運営し続けるなど……。
けれど教会の協力があれば、それも不可能ではない。
なにせ彼らは日常的に密輸をしていて、物流の手腕は証明済み。
おまけに教会の関わる鉱山となれば、現地の勢力もおいそれと手を出せなくなる。
こんな密輸網を自力で構築しようと思ったら、どれだけの手間と費用が掛かるかわからない。
裁判権の譲歩は、要はその貴重な密輸網に入るための入場料に過ぎない。
ちなみに裁判権の収入を、ロランの行政官たちに試算してもらったが、大きくはあるが鉱山開発に比べたら微々たるものだった。鉱山開発の権益を教会と分け合っても、明らかにこちらのほうが巨大な収入になる。
しかもクローデルは信用できる人柄だし、究極的な武力は自分たちが確保しているのだから、教会にジレーヌ領を乗っ取られるというようなことは考えにくい。
完璧な取引だった。
それにクローデルにはさすがに言えなかったが、健吾とコールとの話し合いの中では、その先に続く案があった。
つまり教会のネットワークに相乗りさせてもらう間に、自分たちでそのネットワークをコピーすればいいと。
そのために、この案を練る際、裁判権についての意見をロランの専門家たちに聞く一方、商人たちも集めていた。
彼らにジレーヌ領の代理として、現地の教会とやり取りをしてもらう。そうしてあちこちの商人同士がお互いに信頼を構築し、流通を彼らだけで行えるようになれば、やがて教会に依存しなくて済むようになる。
ジレーヌ領は輸出入に頼らざるを得ない島国だ。
辺境中に商いの網を張り巡らせられるこのチャンスは、いくら金貨を積み上げても足りないくらいの価値がある。
裁判権?
そんなもの、いくらでもくれてやれ! というわけだ。
「私たちがこの件での裁判権を教会に譲る代わりに、教会は遠方の鉱山開発の際には協力すること。これが条件です」
魔石取引はこの世界の人間ならば誰もが関わりたがる、鉄板の取引でもある。
それは教会とて例外ではないから、クローデルにも上司たちの反応が予想しやすかったようだ。
「それは……それなら……おそらくは……」
クローデルは上司を説得するところを想像して、唸るように呟いていた。
自分はそんなクローデルを見ながら、少し深呼吸をする。
このクローデルは、今回の計画の肝でもある。
いや、長い目で見れば、ジレーヌ領がうまく安定できるかは、教会という大きな権力機構とのバランスにも大きく左右される。
この取引には、これからの未来がかかっていると言ってもいい。
だから自分は、これから自分が口にすることの意味をはっきり理解したうえで、こう言ったのだ。
「クローデルさん。この計画はジレーヌ領が大きくなるためのものであり、同時にクローデルさんの治めるここの教会の立場が強くなることでもあります。つまりそれだけ、私たちが助けられる人々の数が増えるということです」
このジレーヌ領がどういうところで、イーリアの統治がどんな領地を目指しているかは、ノドン時代からここで働くクローデルに疑いはないはず。
そしてクローデルほど正直な人物ならば、何度も夢見たはずだ。
この無慈悲な世界で、困窮する人々に安寧を届けるという、その様子を。
「クローデルさん、そのお力をお貸しください」
誰かを騙すようなことをしている、という疑念がないわけではない。
けれどクローデルは信用できると思っているし、自分たちの領地運営はどこよりも正義に適っていると信じている。
だからクローデルから目を逸らさなかった。
そして、若き司祭は言った。
「……わかり、ました」
クローデルがこの仕組みに、どこまでこちらの野望を見出したかはわからない。
けれどなにか大きなものの片鱗である、ということは理解してくれたようだ。
目を細めるのは、この世知辛い世界で、滅多に現れない眩しいなにかの片鱗を見たからに違いない。
それは前の世界では、未来とか、希望とか呼ばれていたものだ。
「お任せください、ヨリノブ様。ロランの大聖堂の皆様を、私が説得いたします」
背丈が伸びたわけでもないのに、その時のクローデルは立派な青年に見えた。
自分が右手を伸ばすと、クローデルは両手で握り締めてきた。
ありがちな物語ならば、ここで「これが後の教皇クローデルとジレーヌ領の、固い協力関係の始まりなのであった……」と記されることだろう。
そこまでは望まずとも、クローデルがこの功績を足掛かりに教会内部で力を持ってくれれば、ジレーヌ領は安全になるはず。
この協力関係は、百の領主たちとの同盟よりも、価値があるはずだった。
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