第136話

「はあ……また愛想笑いの時間ね」


 陳情に焦る者たちが、夜討ち朝駆けをするのを防ぐため、イーリアへの陳情は朝の教会の鐘が鳴って、夕刻の鐘が鳴るまでと、コールが機転を利かせて定めていた。


 屋敷の外の広場はすでに謁見の順番待ちでいっぱいだろうし、屋敷の一階部分は、今日こそ酒宴に参加してイーリアと距離を縮めるのだと意気込む領主たちで溢れている。

 イーリアが背中を丸める気持ちもよくわかる。


 ただ、その丸まった背中を手で伸ばす従者がいた。


「頑張ってくださいイーリア様。夜になったら、またヨリノブから教えてもらった、まっさあじとやらをしてあげますから」


 イーリアはむくれたようにクルルを見てから、「最後にもう一回やって。もうずっと顔が痛いのよ」と言っていた。


 クルルはやれやれと呆れつつ、んっと目を閉じて顔を差し出すイーリアの頬を、両手で包むようにして表情筋をほぐしていった。


 会社でパワハラにあって病んでいた時、鏡に映った死人みたいな顔に驚いて、動画で表情筋のマッサージを調べたことがあった。

 愛想笑いのし過ぎで顔が痛いとイーリアが言うので、クルルにそのマッサージの仕方を教えておいたのだ。


 顔を揉まれて耳と尻尾をぱたぱたさせているイーリアは、完全に飼い主に甘える子犬状態だ。


 ふと気づくと、コールがちらちらとそちらを盗み見ては、顔を赤くしていた。

 彼の中で変な扉が開かれていやしないかと、ちょっと心配になる。


 自分たちのこんな舞台裏を知ったら、陳情にくる者たちの敬意も霧散するだろう。

 そんなことを思って苦笑していたら、二度目の教会の鐘が鳴った。


 舞台裏のしょうもなさでは他の追随を許さない教会だが、その鐘の音によって人々の生活は律される。

 それにあの強欲司祭の代わりに真面目なクローデルが司祭に昇格されたおかげで、聞くところでは、早朝の礼拝から教会は信徒で一杯らしい。


 しかもこのジレーヌ領には、神の特別な御加護があるのではないかと噂されているものだから、島に滞在している人たちも熱心に通い詰めているとのこと。


 ただ、イーリアの手元にはクローデルを通じて寄こされた陳情もたくさんあって、そこがちょっと心配だ。

 クローデルは謹厳実直だが、押しに弱い。イーリアに口利きをしてくれと領主たちに言われたら、断れなかったらしい。


 それに教会という存在はなんだかんだいって、各地に散らばる権力者たちにとっては身近な権力機構なのだ。

 前の世界のそれと同じく、こちらの世界の教会も全国津々浦々に宗教的情熱を宿した聖職者が赴き、拠点を構えているらしいので、領主たちから頼まれたらむげには断れない事情は分かる。


 領主たちにとっても、自分たちを属州などと呼んで蔑み、魔石を徴収していくだけの帝国よりも、教会のほうがよほど信頼できて、頼りになるのだろうし……。


 自分はそこまで考えて、はたと止まった。

 帝国よりも?


 それから。


 全国津々浦々?


「はい、イーリア様、おしまいです。お仕事頑張ってください」

「クルルの意地悪!」

「はいはい、意地悪でございますとも」


 二人のそんなやりとりを前に、自分はなにか大きな答えの前にいるのではないかと思った。


 その輪郭をなぞり、形を確かめ、言葉に落とし込んでいく。


 視線を落として唸っていたら、いきなり頭を叩かれた。


「おい、イーリア様の尻尾をそんな目で見てるんじゃない」


 怒っているような、悔しがるような、なんとも複雑な顔のクルルだ。


 そのクルルをぽかんと見返していた自分の頭の中は、ぽかんと叩かれたおかげで配線がつながった。


「教会」

「ん……ん?」

「教会です」


 自分がうわごとのように言うと、クルルが気圧されたように後ずさる。


 強く叩きすぎたか、みたいな不安そうな顔になっているクルルの手を、自分は強く握った。


「んにゃあ⁉」


 イーリアもびっくりするような声を上げたクルルは、誰よりも自身の声に驚いていた。


 顔を真っ赤にしてうろたえるクルルは、手を引っ込めようとするのだが、自分はその手を放さない。

 それは、頭の中に降って湧いた解決法を、逃がさないようにと必死につなぎとめようとしたせいだ。


「教会です。教会ですよ」

「う、ヨ、リノブ、お前――……ん?」

「全部、問題を解決できるじゃないですか」

「……」


 久しぶりに乙女なところを見せてうろたえていたクルルが、ゆっくりといつものクルルに戻っていく。


「なに?」

「クローデルさんのところに……ああ、いや、その前に、イーリアさん」

「私?」


 イーリアは名を呼ばれ、きょとんと自身の顔を指さしている。


「宴席も謁見も全部断ってください。それから、コールさん、ロランから来ている行政の専門家の中で、裁判権に詳しい人を連れてきてくれませんか。あと、そう、それから、ジレーヌ領と取引をしたがっている商人の皆さんも集めておいてください。なるべく広い地域にまたがった面子がいいです。多分、うちの商会なら主だったところを把握しているかと」


 裁判権と商人という組み合わせが、まったくぴんとこなかったのだろう。

 コールは困惑したように、うなずく。


「あ、ああ、それはいいが……一体?」


 戸惑う三人を見回し、自分は言い放った。


「教会が欲しがるものを、くれてやればいいんです。その代わり、こちらも欲しいものをもらえばいいんですから。この駆け出し領地は足りないものだらけです。差し引きで儲けられれば恩の字でしょう」


 イーリア、クルル、コールの三人は互いに顔を見合わせ、またなにか始まったみたいだぞ、みたいな顔をしていたのだった。

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