第134話

 クルルが焼いてきてくれたパイの匂いで、屍のように倒れていたルアーノやアランが起き上がる。

 彼らはクルルを見ると目をしばたかせていたが、なぜかこちらを見てから訳知り顔にうなずき、切り分けられたパイをもそもそと食べていた。


 そうしていたところ、姿の見えなかったファルオーネとゼゼルが屋敷に戻ってきた。

 どうやらゼゼルは漁に出て、ファルオーネは港に行って、商人に手紙を託してきたらしい。


 二人もクルルを見ると驚き、遅れてこちらを見ていた。


 なお、ファルオーネの手紙の送り先は、古代帝国語の音を復活させようという研究に挑んでいた人物で、彼に協力を仰ぐものだそうだ。

 さすが行動が早い。


「あの変人も研究資金には困っていたはずだからな。ここには予算と安全があると手紙にしたためたが、構わんだろう?」

「もちろんです。黒狐と話すには、その人の協力がないとどうにもなりませんし、今後絶対に必要になる知識ですから」


 悪魔と呼んでいれば誰に聞きつけられるかわからないので、黒狐と呼ぶことになった。

 すばしっこく獰猛な感じが、ちょっと悪そうな狐にぴったりだ。


「あとはせっかくこれだけ島に人が集まっているのだからな。鉱山の場所をありったけ聞き集めて、土地に伝わる魔法陣みたいなものも集められるだけ集めておこう。その人手についてなのだが――」

「おっさん、話す前にとりあえず食えよ。旅から戻ってきて、なんかずいぶんやつれてるぞ」

「ん、んむ? うん……」


 呆れたようなルアーノに勧められ、ファルオーネはクルルのお手製肉入りパイを頬張っていく。朝から重量級の食事だが、白髪の目立つファルオーネの胃袋はびくともしないらしい。


「ほう、うまいではないか。これはクルル嬢の手製と?」

「どうせろくなものを食ってないと思ったからな」


 明らかに、食べ物を持ってきたのはこの屋敷を訪ねる口実に過ぎないのだが、そこは空気を読まなそうなファルオーネでさえ、指摘しなかった。

 それにファルオーネは料理が好きということもあって、ここの四人の食生活はクルルの予想に反し、結構健康的だ。


 ファルオーネがパイを味わいながら、使われている香辛料やらに言及すると、クルルはやや驚いてからたちまち料理談義を始めていた。

 外の世界を旅してきたファルオーネの知識はかなりのもののようで、クルルは慌てて蝋をひいた板と木のペンを借りて、熱心にメモを取っていた。


 そんな様子を眺めながら、自分は久しぶりに落ち着いた朝食をとっていた。


 男所帯に女の子がいると、それだけでどこか空気が和らぐ。クルルも不機嫌そうな顔をしていなければ、普通にかわいい子なのだから。


 ファルオーネとクルルの様子をよそに、パイを食べ終えたルアーノは手を払うと、こちらを見て言った。


「魔法陣の謎もあれだが……俺は昨晩の、数学? とやらの話をもっと聞きたい」

「わ、私も同じくです」


 アランも前のめりに同意した。

 彼らは独自に数にまつわる真理を追いかけていても、体系的ではないし、まったく新奇な分野を独自に切り開くのは容易なことではない。


 そこに魚の下処理を終え、クルル用に包んだものを持ってきたゼゼルも加わる。


『ワタシは、カンスウ、という概念をもっと知りたいです。未知の数字を、網のように捕まえられるのが素晴らしい。この方法ならば、欠けている魔法陣も、周辺から追い込めるかもしれない』


 ゼロの概念や筆算みたいな原始的な計算道具でさえ、この世界では知る人ぞ知る奥義みたいなもの。

 彼らがあまりに驚き、感心してくれるので、昨晩は調子に乗ってしまい、まるで自分が全部教えてやるみたいな感じで話してしまった。


 しかし、どう考えても健吾の力を借りるべき。


 ゲームプログラミングのために数学はちょくちょく学び直していても、受験勉強で鍛えぬかれた健吾の知識には到底敵わないだろう。

 ただ、その健吾でさえ、大学数学となるとお手上げのはずだ。


「本物の専門家がいたらよかったんですけどね」

「そうか? あんたの話だけでも十分凄いだろ」

「自分が知ってる知識だと……せいぜい、自分が生きていた時代の三百年くらい前の知識止まりです。最新の知識は、それこそ魔法使いみたいにとんでもない人たちじゃないとついていけませんでした」

「たとえば?」


 ルアーノに聞かれ、とっておきの知識を引っ張り出す。


「たとえばですね、1足す2足す3足す……みたいに、自然数をすべて足していった和です。いくらになると思いますか?」


 ルアーノとアランはもちろん、クルルに魚を預けた後、海の潮と魚臭さを洗い流しに水浴びに行こうとしたゼゼルも足を止めた。


「無茶苦茶大きい数……いや、数えられないだろ」


 自分は、自分自身でもこの答えを信用していないという意味で、肩をすくめながら言った。


「マイナス12分の1です」


 マイナスの概念は彼らも違和感なく受け入れている。

 分数は概ね割り算として認識しているようだが、とにかくこの結論が奇妙なことだけは伝わったらしい。


 全員が鼻の頭にしわを寄せていた。


「おかしいですよね。でも、そういう答えになる計算が存在するんです。解析接続したゼータ関数に特定の値を入れると、自然数のすべてを足し上げる数式と、このマイナス12分の1という数字が、イコールで結ばれるらしいんです」


 このかっこいい文章だけ覚えているが、中身は全く分からない。

 ネットをうろうろしていれば、この手の無駄知識はちょくちょく増えていくものだ。


 たとえばほかにも、概念上の球体をある方法で分解して特殊な方法で選び出して組み直したら、なぜかふたつの球になるとかいうバナッハ=タルスキの定理とか、その手のやつ。


 ここまで現代数学の領域にいかずとも、オイラーの公式の時点で、普通の人間にはわけがわからないはずだ。

 2.71828……と永遠に続くネイピア数eを、複素数のiと円周率πで累乗したらマイナス1になるって、一体なんなんだ?


 自分の能力ではこのわけのわからなさの神髄を伝えられないのが、とても残念だった。


 けれどそこに、あっけらかんとしたファルオーネの声が割り込む。


「なあに、どんな不思議なことでも起こり得よう。なにせヨリノブの世界の魔法を使えば、世界中の書物を収められるというのに大きさは小指に乗る程度、という謎の石板を作れるらしいのだからな!」


 ファルオーネに、ルアーノは首を横に振っていた。


「……お前たちのいた世界は、どんなところだったんだ? 想像もできんな」

「こっちの世界は奇妙だとばかり思ってましたけど、自分もだんだん前の世界のほうがおかしいんじゃないかと思い始めてます」


 フラッシュメモリみたいなのは事実上魔法だし、先端半導体を作り出す機械の仕組みは、掛け値なく魔法の世界だ。


 ウエハーに回路を焼き付けるため、特殊な波長の紫外線を作り出す必要があるのだが、その方法というのが液化させた錫を空中に時速三百キロで噴射し、その粒に正確に毎秒二千回レーザー光を当てて反射させるとか、魔法以外のなんなのだろう?


 自分はこの世界の魔法の謎を解こうとしているが、前の世界にも同じくらい、いやそれ以上にとてつもない魔法があったんだなと、妙な感慨に耽ってしまう。

 今ならもっとまじめに勉強に取り組めるかもなんて、そんな詮無いことまで思ったりもした。


「だが、私がヨリノブたちの世界をすごいと思うのは、その魔法を誰でも使えるということだ」


 ファルオーネが力強い笑みを見せた。


「ヨリノブとあのケンゴだったか。二人の知識を借りれば、私たちもその魔法を使えるのだからな!」


 そう。

 この世界の魔法は選ばれし者しか使えないが、前の世界の魔法は努力次第で誰にでも使えるのだ。理論上は。


「そ、そちらの世界で有名な魔法使いも、私と同じ煉瓦職人の家系だったというのは……すごくうれしい話でした」


 アランはそう言って、猫を撫でるみたいに、手元の煉瓦を撫でていた。

 数学者フリードリヒ・ガウスの話。

 彼は煉瓦職人の父の元に生まれ、異常な才能を発揮した。

 世の真理にたどり着くのに、血筋は関係ない。


 科学のすごさとは、その普遍性にあるのだ。


「まあ島がこんな具合で、大宰相様にはほかにもやることが山ほどあるだろうが、こっちにもぜひ時間を割いてくれよ」


 ルアーノは楽しそうに大宰相と言ってから、慈しむように、紙に書かれた二次方程式の一般解を示す公式を見つめていた。

 ちなみに昨晩は、虚数の説明のところでギブアップした。


「俺は早くこの異世界のことを知りたい」

「私もです」

「当然私もな!」


 三人が言ったところで、魚の匂いを落とすため、中庭でさっと水浴びをしてきたゼゼルが、体を拭きながら部屋に入ってくる。


『ワタシも……』


 四人の視線を受け、自分はやや気圧され気味に答える。


「ぜ、善処します」


 高次方程式、三角関数、ベクトル、数列……。

 受験の時はいやいや覚えるものでしかなかったそれらは、基礎魔法陣のようなもの。


 それらを組み合わせた科学の魔法は、この世界でも威力を発揮するだろう。


 ただ、この四人から知識を頼られるのも、多分一瞬のことだと思う。

 ひととおり教えたら、自分など置き去りにして、すごいところにまで行ってしまうのが目に見えていた。


 その代わりというのもおこがましいが、自分にはもっと活躍できる場所がある。


「じゃあ、クルルさん。こちらの作業に早く取り掛かれるよう、イーリアさんのところに行って雑務を片付けましょうか」


 声をかけたのは、数学やらの話にはまったく興味が持てず、仲間外れにされた猫のように、尻尾を椅子の足に絡ませていたクルル。


 不服そうな顔でファルオーネから聞いた料理の話をまとめ終えると、クルルは椅子から立ち上がって、ふんと鼻を鳴らしたのだった。

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