第116話

 イーリアの屋敷に戻ってから、誰もすぐには口を開かなかった。

 目の当たりにしたことが大きすぎて、うまく呑み込めないといった感じだ。


「どう、すべきなの?」


 ようやくイーリアが口を開いたが、そこには様々な意味合いが含まれている。


 ジレーヌ領としてどうすべきか。


 そして今の時代を生きる者たちとして、どうすべきか。


「少なくともわかっていることがあります」

「わかっていること?」

「自分たちの手では、大魔法陣をすぐに復活させるのは難しいです」


 健吾が片目だけ細めてこちらを見る。


「自分たちの手以外なら、可能だって?」


 留保が気になったようだ。


「今のところ最有力は、教会じゃないかな。ほら、この世界の神話めいた話を信じるなら、何度も帝国が滅ぶ中で教会だけは連綿と続いているみたいだし、魔法を人間に授けてくれたのも、彼らの言う神だし」


 すくなくとも魔石に刻まれていた謎の文字は、まったくの無意味な模様ではなかった。

 ならば大規模魔法陣だって、誰かが面白半分に作ったインチキとは考えにくいというルアーノの推測は、悪くない考えのはず。


 となると、この世界で最も長く続いている教会が、最有力の容疑者となる。


「ううん……ただ、そうすると教会が今も古代の大魔法陣を掲げているのは、変じゃないか? なにか改変して起動しないようにしているとしても、解析の手掛かりになるだろ?」


 嫁の悪口は書くまい、というファルオーネの言葉は真実だ。


 教会が魔法陣の謎を解いていて、そのことを秘密にしているとすると、大規模魔法陣を掲げ続けるというのは、辻褄が合わない気がする。


 本当に隠したいのなら、どこにも掲げるべきではないのだから。


「じゃあ、魔法陣の秘密は教会も解いていないってことなの?」


 イーリアはそう言ってから、ふと不思議そうな顔をした。


「あれ……? けど、解かれていないだけで、本物という可能性はあるんだっけ? だとしたら、やっぱり掲げ続けるのは……うう……?」


 自分の尻尾を咥えようとして目を回す子犬のように、イーリアは頭を抱えていた。


 けれどイーリアの混乱はよくわかる。

 思考が堂々巡りしてしまうのは、必要な手掛かりが足りていないからだと思う。


「まあいずれにせよ」


 健吾は腕組みを解くと、クルルには評判の悪い髭を撫でながら言う。


「俺はファルオーネたちの前ではああ言ったが、この話にはあんまり深入りすべきじゃないと思っている」


 イーリアやクルルは驚いていたが、自分はなんとなくそんな気もしていた。

 健吾は見た目こそワイルドだが、案外慎重なのだ。


「大規模魔法とやらは、大精霊の残した時間が巻き戻ったりするような魔法だっていうんだからな。不老不死なんかを求めて国を傾けた話は、前の世界の歴史にもいっぱいある」


 今は魔法を研究するのは、ファルオーネたち四人だけ。

 しかしジレーヌ領が大きくなり、研究のための人員を増やしていき、やがては大掛かりな実験が必要になり、財政が傾くかもしれない。


 多分、それは、さほどあり得ない話ではないのだと思う。


 なぜなら、考えてみればいい。


 ロランの娼館で、クルルは女傑のやりて婆の機転のおかげで、イーリアを奪還するためのチャンスを手に入れられた。

 しかしそれは純粋なる幸運であって、クルルが二度と笑うことのできなくなるような未来は十分にあったはず。


 その時に自分は、すべてをなげうってでも、時間を巻き戻す魔法や、あるいは記憶を消すような魔法を、追いかけずにいられるだろうか?


 魔法の秘密を追いかけるな、という警告が、ものすごく重く、響いてくる。


 その一方で、同時に思う。

 白熊のことを考えるなと言われて、白熊のことを考えないでいることは難しい。


 それになにより、ゲラリオが納得するかがわからない。


 あの歴戦の戦士たちには、すでに大魔法を必要とする理由が、山ほどあるに違いない。


 自分はゆっくりと状況を俯瞰し、大きく息を吸いこんでから、言った。


「いや、追いかけよう」


 自分の言葉に、全員が視線を上げた。


「理由はふたつ。まず、ゲラリオさんたちにこの話を秘密にするのは、得策ではないと思う。なぜなら、ゲラリオさんたちにとっては、おそらく自分たち以上に、この話を追いかける切実な理由がたくさんあるはずだから。そう考えると、もしも自分たちがこの話を秘密にした後、万が一ゲラリオさんたちに漏洩するような事態になれば……」


 全員の顔を、ゆっくりと見まわした。


「あの人たちは、自分たちのことを信用できない裏切り者と見なすはずだ」


 ゲラリオは失うにはあまりに惜しい人材だし、同時に絶対に敵に回してはならない人物でもある。

 それに単純な問題として、ゲラリオは良い人なのだ。


 彼が自分たちのことを信用してくれていると思うから、彼の信用には応えなければならないと思う。


「それは……クルル、どう?」


 多分今のところゲラリオと最も親しいのは、魔法を習っている弟子のクルル。

 クルルはイーリアから話を振られ、疲れたようにため息をつく。


「あの下品な師匠は、猪みたいに単純ですからね。ヨリノブの言うことはすごく簡単に想像がつきます」


 師匠に対してひどい言いようだが、むしろクルルとしてはかなりゲラリオを慕っているのだろうなと感じられた。


「頼信、もうひとつは?」


 健吾の問いに、うなずいてから答える。


「どうしても大規模魔法が欲しくなるようなひどい事態に陥ってから、慌ててなりふり構わず追いかけるより、今から計画的に追いかけていたほうがいい」


 その言葉に、場が水を打ったように静まり返った。

 それは多分、みんな頭の中では薄々わかっていたからだろう。


 この世界は無慈悲で、容赦がなくて、予想がつかない。

 取り返しのつかないことは容易に起こりうるし、いつか、きっと、必ず起こる。


 その時になお、奇跡を起こしうる大規模魔法陣を追いかけないなんて選択肢は、取れるはずがないのだ。


「おためごかしはやめるべきだと思う。すごい魔法が存在するかもしれないのに、それを無視するなんてできないし、一度知ってしまったことを意識的に忘れることはできないんだ」


 自分が言うと、健吾はぽつりと「白熊か」と言っていた。

 自己啓発系の本でも有名なネタなので、健吾も知っていたようだ。

 そのことにちょっと笑うとともに、自分も無視できない白熊を直視すべきだった。


 ファルオーネたちが解読した暗号には、こうあった。


 異界の知識を得る方法。


 つまり大規模魔法陣には、前の世界に帰れる可能性があるのではないか。

 健吾はそのことについて、どう思っているのだろう?


「ですから理性的に、節度を守って、その日に備えておくべきだと思います」


 すでにサイコロは投げられている。

 その事実から目を逸らし、忘れた振りをするよりも、そのサイコロがどんな目を出したか確認しておくべきだし、可能ならば自分たちの欲しい目を出すため、手を伸ばすべきなのだ。


 けれども誰も口を開かないのは、この話は世界の命運を決めるのと同じくらい、自分たちの進む方向を決めるものでもあるからだ。

 しかもその先になにが待っているかは、まったくわからない。


 単純な魔法陣を刻んだ大きな合成魔石がなにをもたらすかは、ロランとの戦いで目の当たりにしている。

 ならば巨大な魔石に巨大な魔法陣を刻んだ時になにが起こるのか、愉快な想像ができるはずもない。


 どう考えたって、見渡す限りに花が咲くような、平和なものであるはずがないのだから。


 誰もが自分の言葉に否定も肯定もできないでいると、やがて聞こえてきた大きなため息は、意外にもイーリアのものだった。


「こういう判断って、私の仕事よね?」


 この場で一番背が低くて、体重も軽いだろうふわふわの女の子。

 けれど椅子に座るイーリアには、確かに領主としての重みがあった。


「頭を抱えて丸くなっててなにかが良くなったことなんて、結局一回もなかったわ。もしそんなことがあったのだとしたら、それは誰かが頭を上げて、戦ってくれたおかげだと思う」


 そう言ったイーリアが視線を向けたのは、隣にいるクルルだ。

 イーリアはクルルに向けて微笑んでから、言葉を続けた。


「まだこの領地がどうなるかもわからない。ロランを倒したことは間違いなく周囲にも伝わるだろうから、ろくでもないところから目をつけられて、ろくでもないことに巻き込まれることも十分にありうると思う。その時のために大魔法は必要だと思う。だから、私はヨリノブの案に賛成よ」


 イーリアがこちらをまっすぐに見てくれる。

 その微笑はクルルに向けるものとは少し種類が違うかもしれないが、いつもの甘噛みをしてくる時のものとも違っていた。


 親しみではなく、信頼。


 最近、宰相様、なんて冗談で呼ばれるようになったが、幾分本気なのかもしれない。


「俺は……まあ、強く反対する気もない。老婆心みたいなものだ。コンサルの現場で、やることなくなって変な宗教に嵌まったりして資産を食いつぶす経営者を、いくらでも見てきたんだよ」


 健吾のそれは途中から日本語で。

 自分が苦笑いしていると、健吾はこちらの言葉に切り替える。


「頼信の考えも一理あると思う」


 つまり健吾は、消極的な賛成だ。


「ただ、その場合、先に古い鉱山の奥に残されてるらしい言葉を探すべきかなとは思う」

「理由を聞いても?」

「単純に古い鉱山を調べる中で、まだ鉱脈の生きてる廃鉱山に出会うかもしれない。研究費の足しになるだろ?」

「あ、そうか」


 大規模魔法の話が大きすぎて、その可能性を忘れていた。


「こっちには魔法の力があるからな。採算が取れなくなった廃鉱山も、俺たちなら復活させられる可能性がある」


 その魔法を撃つのは私だがな、というような顔で、クルルが健吾を見ている。


「ジレーヌ領はいくらでも金が必要な状況だし、ここの鉱山もいつまで持つかわからない。新しい山は確保しておいて悪いことじゃない」


 健吾は鉱山監督官。

 誰よりも、この島が鉱山に依存していることを知っている。


「だからまあ、色々考えて、賛成ってこと」


 どこか茶化すように言うのは、深刻になり過ぎないようにだろう。


「私はイーリア様に従います」


 クルルはもちろんそう答えるとわかっていた。

 イーリアが微笑み返し、その手に自身の手を重ねていた。


「あなたは?」


 そしてイーリアが言葉を向けたのは、この場で最も存在感のなかった者。


 コールだ。


「え」


 コールもまさか意見を求められるとは思っていなかったのだろう。

 目をしばたかせて明らかに戸惑っていた。


 傲慢な貴族の影は、もうどこにもない。

 言い換えると、コールは自分たちの輪の中にいても、すっかり違和感がない。


 ただ、己に発言権などあろうはずもない、みたいな感じでうつむいているので、ノドン時代の話が風化するには、まだしばしの時間が必要になりそうだったが。


「おい、イーリア様が聞いてるだろ」


 そんなコールのことを、クルルは睨みつけ、きつい言葉を向ける。


 ただ、黙れとも、お前には聞いてないとも言わなかった。

 隣でイーリアが苦笑してるのは、クルルの素直じゃないところが丸見えだからだ。


 クルルはコールのことを、もうよそ者とは思っていない。


「島の外のことを一番知っているのはコールさんです。自分たちには、コールさんの意見も必要です」


 自分が言うと、コールはこちらを見て、それから気まずそうな作り笑いを見せる。


 その笑みは、褒美といって銀貨を握らせる立場から、気を使われる立場に入れ替わってしまうという、世の無常さを笑ったのか。

 あるいは、ロランでは一度たりとも誰かに意見を求められるようなことがなかったのを、笑ったのかもしれない。


「僕は……」


 コールは息を吸い直し、言った。


「僕は、追いかけるべきだと思う。ただ」


 と、付け加える。


「慎重に」


 それは一人称が僕のお坊ちゃんゆえにではなく、外の世界を知る者としての一言だろう。


「じゃあ、決まり?」


 イーリアの問いに、反対はでなかった。

 なにか文書に残すわけではないが、自分たちの向かう先が永久に決まったような、そんな気がした。


「大魔法かあ」


 イーリアはそう言ってから、ふと、自身の胸を見ていた。


「好きな姿に化けられる魔法みたいなのはないかしら」


 呆れたような笑いと共に、幾人かからはそんな魔法必要ないという意見が出たのだった。


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