第115話
「けど」
と、口を開いたのは健吾だ。
「今のところ、大規模魔法については、なんにもわからないってことが、わかったって感じか?」
ファルオーネはちょっとむっとし、ルアーノは笑っていた。
「そのとおりだ。暗号が解けたあとの、旦那のがっかりした顔を見せてやりたかったぜ」
「ルアーノ!」
ファルオーネの抗議に、ルアーノは酒を啜るだけ。
きっとファルオーネは、誰よりもワクワクして魔石に刻まれた文字列を解読したはずだ。
その落胆を思うと、ちょっとかわいそうな気もする。
「とはいえ、この大規模魔法陣は最近でっち上げられたもの、という可能性は低くなったと思うぜ。それに、まだ解かれていない謎だということもな。こんな幸運、そうそうあるもんじゃない」
徹夜の作業だったのか、ルアーノはひどくくたびれた様子なのに、酒を啜るその目だけはぎらついている。
「歴史に名を遺せるかもって話だ」
その不敵な呟きに、からかわれて怒っていたファルオーネさえ、おとなしくなる。
彼らは難問であればあるほど、燃えるたちなのだから。
「とはいえ、じゃあどうするかって話になって、お手上げだったんだが」
「あの大規模魔法陣に刻まれていた警告については、どうせ聞く耳を持たないよな?」
健吾の問いに、ルアーノとファルオーネはあからさまに目を逸らす。
それは部屋の隅でおとなしくしている、アランとゼゼルもそうだ。
「まあ、そこは想定内だ。頼信とも散々した話だから」
「自分?」
「すでに誰かがこの謎を解いていて、今にも世界に向けてぶっ放そうとしているかもしれないって話だよ。それに対抗するには、俺たちも謎を解くしかない」
考えすぎ、ということはないはずだ。
自分たちが最も進んだ文明からきた鉱山帰り、と仮定するのは危険すぎるのだから。
「それに、解読された文章の中で、俺はどうしても気になることがある」
その言葉には、ファルオーネたちのみならず、現実から逃げようとクルルの胸に顔を埋めてていたイー
リアまでが、顔を上げた。
「大精霊ってやつだよ。こいつはなんなんだ?」
「なにかって? そりゃあ、もちろん……」
いまさらそんなことを問われるとは思わなかった、というような顔のルアーノだが、答えは出てこなかった。
すごい夢を見て飛び起きたものの、いざその夢を誰かに話そうとしたらどんな夢だったかまったく思い出せない人がいたら、こんな顔をするだろう。
健吾が言葉を続けた。
「教会に残る伝説では、人に魔法を授けたのは神だった気がする。でも、なんだかそれとは別の存在っぽくないか? 教会の話では、唯一無二の神が魔法を授け、その後どこかに行ってしまったみたいな雰囲気だ。でも、この文章から受ける印象は、はるか昔に存在した誰か、あるいは、なんらかの種族みたいな感じじゃないか?」
「エルフみたいな?」
自分の言葉に、健吾は少し考えて「それなら女神とか呼ばれそうだけどな」と言っていた。
確かにエルフは美人なイメージだ。
「えるふ?」
クルルが不機嫌そうに尋ねてくる。
森に住み、ものすごい長寿で……みたいな説明をすると、この世界にはエルフそのままの存在はいなかったらしい。
ずいぶん怪訝そうな顔をされたし、イーリアはエルフの耳が尖っていると聞いて、自身の耳や、クルルの耳を触っていた。
「ヨリノブたちの言うエルフは、伝説の木人族みたいなものか?」
「あれって、迷った森の中で道を教えてくれるだけの連中でしょう?」
「鳥の歌を聞き分けたり、澄んだ泉の場所も教えてくれますよ」
木人族というのは、多分この世界の有名なおとぎ話に出てくるものなのだろう。
意外にそういう話が好きなのは、ふわふわのイーリアではなくて、クルルのほうだ。
「エルフってのはわからんが」
そこにルアーノが言う。
「教会の祈りの文句に、神よ精霊よってのがでてくるよな。俺はそれじゃないのかって、普通に思ってたんだが。けど、俺は真面目な教会の信徒じゃないから、それがなんなのかっていわれたら、よくわからん。ファルオーネの旦那はどうだい」
占星術師を自称しているので、ファルオーネはなんとなくオカルトにも詳しそうだ。
この世界ではオカルトも科学も似たようなものなのだろうが。
「うーむ……教会の教えに出てくる精霊と同じ存在だとしたら、諸説ある、としか言えん」
「諸説?」
「んむ。解釈が定まっておらんのだな。神に従う大天使のことだとか、いやいや神の奇跡という力そのものだとかね。過去にはその解釈を巡って教会内部でも対立し、異端騒ぎが起きたそうだが……」
神話やその類は、大体相互に矛盾し、一貫性などない。
特に不思議なことでもあるまいと思っていたら、ファルオーネはこう続けた。
「なんとなくだが、教会は精霊の話になると、いつも持て余しているように感じるのだな」
意外な一言だった。
それは自分だけでなく、イーリアやクルル、それにこの場ではおそらくもっとも正当な教育を受けている、コールもまた同じだったらしい。
「持て余している? 単に神秘的な、こう、もったいぶった話ではなくて?」
優秀な学生のようなコールの問いに、ファルオーネは大仰にうなずく。
「うむ。聖職者は腐ってるのも多いが、優秀で真面目な者たちも多い。真摯に信仰に向き合い、神の教えを正しく掴もうとする者たちがたくさんいるのだ。だが、彼らの著作を読んでも、まったくわからん」
「それは、誰かのいい加減な作り話だったからじゃないの?」
この場で一位か二位を争うくらいに現実的で、神などという都合のいい存在を信じていないだろうイーリアが、そう言った。
「ふふ。領主殿とは気が合いそうですな。もちろんその可能性もあるでしょうが、私はあえて別の可能性を提案したい」
ローブをひるがえし、芝居がかった言い回しに、イーリアの犬の耳が大きく前後した。
「つまり、精霊は本当に存在したのではないか、と」
イーリアはぽかんとしたし、自分もよくわからなかった。
「あの、本当に存在したのなら、教会内部でも教えを巡って争わないのでは?」
なぜなら、存在したのなら、どんな存在なのかは明らかなはずなのだから。
「諸君、世の中に信仰体系はひとつではないのだよ」
イーリアやクルル、コール、それにルアーノやアラン、ゼゼルまでもが不思議そうな顔をする。
「あっ」
「ああ」
けれど自分と健吾は、なるほどと合点がいった。
「大精霊は、教会の信仰体系とは異なる信仰に属する、別の土地の神様かなんかってことですか」
ファルオーネは、にんまり笑ってこちらを指さす。
「さすが鉱山帰りだ」
そんなファルオーネに、イーリアが慌てたように言う。
「ちょっ……っと、待って、待って。異なる信仰ってなに? じゃあ、教会は全部嘘っぱちってこと?」
たとえろくすっぽ神を信じていなくても、教会のことを根底から疑っているかというと、そういうわけでもないのだろう。
教会というのは、この世界の人にとって、それくらいに当たり前で、身近な存在なのだ。
しかし、唯一無二の神を称えるはずの教会のほかに別の信仰があって、そっちの神様が実際に存在するのだとしたら、理屈としては、教会の教えは真っ赤な嘘ということになる。
イーリアは、そんなこと考えもしなかったと、呆気に取られていた。
常識を疑ってみるというのは、とても難しいことだ。
その点で自分と健吾が有利なのは、世界で最も信心深く、同時に世界で最も無神論者を自称する者が多い不思議の国からやってきたからだ。
「別に神様は何人いたっていいんですよ。自分たちの生まれた国には、神様が八百万人くらいいるような感じでしたから」
健吾は苦笑い。
イーリアとクルルは目を真ん丸にして、ファルオーネは胸を逸らして笑っていた。
「んふっふっふ。こんな話を平然とできるのは、異端者だけである! そして鉱山帰りほど異端に相応しい者はいない。にしても、神が八百万もいるとは!」
「食器とか家具とかも、百年使うと神様になるんですよ」
付喪神の話をクルルにすると、キュウリを見せられた猫みたいにぎょっとしていた。
「我らにはまったく思いもよらぬ世界の話であるな! ただ、それはなにもヨリノブ殿やケンゴ殿のような、異世界の話だけではない。この世界でも帝国の周縁部では珍しい話ではない。ましてや帝国の領域外ならなおのことだ。帝国と教会は、そう認めんがね」
このあたりの見識の広さは、さすがさすらいの占星術師、という感じだ。
「それに、私はケンゴ殿の着眼点にいささかの悔しさを覚える」
「ん?」
「私もまた、魔法陣の謎の手掛かりがあるとすれば、その方面だろうと思っていたからな」
「方面……って、精霊云々ってことか?」
「んむ。精霊本人の残した言葉があれば、役に立つと思わんかね」
「それは……まあ、そうだろう、が?」
そんなものがあるのなら、誰も困っていないのでは。
自分たちが顔を見合わせていたところ、声を上げたのはゼゼルだった。
『ま、まさか、ファルオーネ殿……』
「そう! そのまさかだ!」
ファルオーネは手を叩いてから、ゼゼルの聞かせてくれた、獣人たちに伝わる鉱山の話をした。
曰く、鉱山の中で瘴気に当てられて魔物と化していく獣人が、理性を失う前に鉱山の奥深くで助けを求めようとするが、もはや体は魔物と化しているため、魔物の話す言語しか使えなくなり、その言語というのが……。
「魔石に刻まれたのと、同じ?」
ケンゴの問いに、ゼゼルは大きな体を縮めて、申し訳なさそうに耳を伏せていた。
「魔物も精霊も、まあ似たようなものであろう」
ファルオーネがそんなことを言って、話を引き取る。
「ことは大規模魔法陣についての話である。しかも前帝国の連中も解けなかった謎なのだ。どんな可能性も排除すべきではない」
教会の言う歴史がすべてではないし、この世界に残る伝説が唯一の伝説でもない。
この魔石に残された伝言の向こうに、まだ誰も知らない世界の秘密があるかもしれない。
『ですが、ファルオーネ殿、これはさすがに……』
「お~、ゼゼルよ。知識の奴隷になろうとも、常識の奴隷になってはならない! 私は偉大なる占星術師にして天文学者だ。馬鹿げたことを追いかけるのは慣れている!」
「自分で言うかね」
苦笑するルアーノに、ファルオーネはむしろ誇らしげだ。
「まあ、私も本当に精霊だのだと思っているわけではない」
そしてそういうや否や、くるりと身を翻した。
向いたのはイーリアのほう。
小柄な領主様が、びくりと身構える。
「そこで領主殿に、頼みがあるのです」
話を振られたイーリアは、警戒してクルルの腕を掴んでいた。
ファルオーネみたいなのは、イーリアが最も苦手とするタイプかもしれない。
今この場では、おそらく長らく歴史に埋もれていたとてつもない秘密の片鱗が、明るみに引きずり出されようとしている。
しかしそういうことにわくわくできる者というのは、限られているのだ。
「古い鉱山を探し、そこに人を寄こしてはもらえませぬか。その恐ろしく古い鉱床の奥の奥で、魔物になってしまった獣人……いや、その振りをしていた誰かが、最後の理性の力で壁に刻んだかもしれないという言葉が、残っているやもしれません」
ゼゼルの語ったそれは、荒唐無稽な話だった。
しかし、暗号が解読できた今なら、その伝説はちょっと怖い作り話から、なにか別の物語が形を変えて語り継がれてきたものとなりうるのだ。
いつの間にか口調の改まっていたファルオーネが、腰を折るように身をかがめて言った。
「領主殿。魔石にこの暗号を残した者たちは、魔法の秘密を探り、挫折し、あまつさえ、帝国そのものが崩壊する中、後世にこの時代の知識を残そうとしたのです」
壁に貼られた大規模魔法陣の横に、こう書かれている。
魔法の謎を追いかけるな。
けれどその周りに書かれているのは、実に人間臭い言葉ばかりだ。
「知識というものは、常に表に出せるものばかりとは限らないのです。ここに記されているものは、中でも穏当なものだけ、という可能性が高い」
壁に貼られた、無数の言葉。
これらは自分たちの推測が正しければ、何百年の時を越え、後世に受け継がれたものだが、人目につく魔石というものに刻まれてきた。
本当に伝えたい恐ろしいなにかがあったとしたら、そこにはとても刻めまい。
むしろ洞窟の奥に刻まれるのこそふさわしい。
「もしも古く打ち捨てられた魔石鉱山の奥にこの暗号が残っているとしたら、それは魔物になりかけの獣人が書き記したと考えるより、もっと相応しい仮説があるでしょう。それは、容易に知られてはならぬ情報を抱え、滅びる帝国を後にした誰かが、最後に命と引き換えに記したものだと考えるほうが、はるかに理に適っているはずなのだ」
語るファルオーネの口調が、熱を帯びるように少しずつ変わっていく。
「雲を掴むような話だとは承知しているとも。だが、知識は受け継がれねばならないのだ、領主殿。たとえそれが危険で、不穏で、馬鹿げているものだとしても。なぜならば、時にこの身を焦がし、永遠に尽きるとも思えぬこの好奇心というものを神が我らにお与えになったのは、必ず理由があってのことなのだろうから!」
神など欠片も信じていなさそうなファルオーネ。
だからこそその言葉には、変な重みがあった。
「我らは、先人の残した知識を、必ず受け継がねばならない。そして、次の世代に残さねばならない。それは、連綿と続く歴史を生きる、我らという存在全体の義務なのだ」
壁に掲げられた伝言を見やるファルオーネは、修道士のような顔つきだった。
その荘厳な横顔に、ファルオーネの人生が垣間見える気がした。
この初老の男は、その半生で何度も、自身の抑えきれぬ好奇心というものに振り回され、苦しんできたのではないか。
いわば病とも、宿痾ともいえるそれに。
だからこそ、大昔に苦悩し、魔法の謎を追いかけていた誰かが刻んだ魔石の暗号に、強い共感を抱いているのだろう。
そこにあるのは、無味乾燥な魔法陣ではない。
今にも苦しむ顔が見えそうな、多くの人々の生きた証なのだ。
だとすれば、鉱山の奥にあるという言語を刻む者の顔もまた、目に浮かぶような気がする。
危険な情報を持ち出し、岩に刻み込んで鉱山の奥で息絶えたかもしれない、誰かの姿だ。
ファルオーネはこの場の誰よりも、彼らと自分自身を重ねてしまうのだろう。
ゼゼルの語った獣人にのみ伝わる不思議な伝説は、魔石に残された暗号という手がかりがなければ、単なる荒唐無稽な話に過ぎない。
でも、今はそうではない。
もしかしたら、そもそも人目につく魔石に暗号が刻まれていたのは、この暗号を解読できるだけの力を持った誰かに、真のメッセージに気が付いてもらうための、布石だったのかもしれないのだから。
「徒労に終わる可能性は高い。しかしなにとぞ、探索の許可と、ご支援を。領主殿」
膝をついて頭を垂れるファルオーネに、イーリアは最後まで言葉を返せなかったのだった。
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