第114話
前日の強風で波が高くなり、廃鉱山の氷上プラットフォームが水浸しになったらしい。
修復のためにゲラリオとバランは海上鉱山へと出かけていたので、クルルとイーリア、それに健吾と、仲間外れにするのもよくないと思ってコールも呼んだ。
夜も更け、ロランからの代表団たちも寝静まった頃、魔法陣研究所へと皆が集まった。
全員が揃って戸惑いがちだったのは、魔法陣に記されていた謎の文字が解読できたみたいです、なんて報告をいきなり受けたからだろう。
おまけに解読されて出てきたものが、これまた衝撃的だった。
ようやく目の前の事実に追いついたらしいイーリアは、壊れかけのロボットみたいにぎこちなく、こちらを振り向いた。
「ヨリノブ、これ……」
どうにか言葉を絞り出したものの、その先は続かない。
そのイーリアを支えるように抱くクルルもまた、まばたきを忘れ、呼吸すらしていないようだった。
「予想以上でしたね」
ファルオーネたちは暗号の統計的な特徴を洗い出し、手に入る書物に出てくる文字にも同様の処理を施し、魔石に刻まれている文字列がいつの時代のどの言語に適合するのかを、力業で見つけ出したようだ。
そうして、暗号は解かれることになった。
ただ、その結果を目の当たりにした者たちの気持ちを代弁すれば、解かれてしまった、というべきかもしれない。
「ファルオーネさん、解説をお願いできますか」
健吾でさえ呻いているので、自分が代表してそう言った。
「んむ。まず、魔石に刻まれていたのは、今より数百年前に存在したと言われる、フォッグ帝国時代の文字を暗号化したものだった」
そのフォッグ帝国はなんらかの理由で崩壊し、群雄割拠の時代を経て二百年近く権力の空白時代があった、というのが、自分も教えてもらったこの世界の歴史観だ。
「ただ、これを解読できたのは、我々の運がよいというより、ある程度必然だったようだな」
「必然、ですか?」
「この時代の文章は多く残っている。特に、帝国末期のものだ。この時代の文章はやけに多く、私の占星術の蔵書にも、いくつか当時の写本があった。だから真っ先に試した言語がこれだ。さもなければこれほど早く解読はできなかっただろう」
髭をくりくりさせながら、ファルオーネは得意げに胸を張る。
「もっとも、暗号の解読は、さらなる問題の序章に過ぎなかったわけだがね」
にんまり笑うファルオーネだが、笑っているのは彼だけだ。
ゼゼルとアランは部屋の隅で不安そうに体を縮めているし、ルアーノは酒の入った甕を手にしている。
ファルオーネが誇らしげに示しているのは、壁に貼られた暗号文と、解読された平文の対応表だった。
イーリアやクルル、それにコールや健吾までもが息を飲んでいるのも、そこにひときわ大きく書かれた翻訳文のせいだ。
「教会の祭壇上に掲げられている、我々が手に入れられる中で最も大きな大規模魔法陣。そこに刻まれている、謎の文字列を解読したものが、これだ」
長年にわたり教会の信徒を威圧し、誰もが目にしたことはあるが、誰も意味の分からなかった文字列。
長い歴史の中で忘れ去られていた文字列は、決して神を称える言葉などではなかった。
――この文章を読むことのできる者たちよ。その知恵を用いて、魔法陣の謎に挑むなかれ。
そこにあるのは、明らかな警告だったのだから。
「んっふっふ。まるで我らに向けられた言葉のようではないか」
禁忌に挑み続けてきた異端の占星術師は、むしろ嬉しそうだった。
「もっとも、この文章こそおどろおどろしいが、そのわりには、あっちこっちに残された文章は魔法陣解析の痕跡なのだ」
ファルオーネは、テーブルの上に散らばる紙束から、目当てのものを探し出す。
「例えばだが、ごく普通に流通している魔法陣に刻まれた文字列はこうだ。「ここは魔法全体の威力を増幅する」「この魔法陣は出力を安定させる」などの解説ばかりだった。今でも職人たちには広く知られている知識だろう。備忘録として使われていたようだ」
プログラミングのコメントみたいなものであれば、なるほどそれがなくとも魔法は起動するわけだ。
「ただ、中規模以上の魔法陣になると、途端に文章の人間味が増すのだな」
「人間味?」
「んむ。「ここの連続は無意味ではないか」「これは単独では意味をなさない」「つじつまがあわない」「なぜだ?」「なぜだ?」「なぜだ?」とね」
最後の「なぜ」は、ファルオーネたちも無意味ではないかと頭を抱えていた基礎魔法陣部分に書かれたものだった。やたらと繰り返して現れる短い文字列は、苦悶の単語だったようだ。
「これが教会の礎石に残されているような大型の魔法陣ともなると、さらに趣が変わる。先ほどの警告にも似た、宛先のない手紙みたいになるのだよ。さもなくば、魔法を研究していた者たちの、独白だな」
ファルオーネの目配せを受け、ゼゼルが壁に新しい紙を張っていく。
「片っ端から解読していったものの中で、興味深いものを並べてある」
――魔法陣には我らの知らぬ秘密が隠されている。
――王家の宝物庫には大精霊が使用した魔法の記録が残されている。
――どれひとつとっても機能しないのはなぜなのだ。
「機能、しない?」
その問いのような呟きは、イーリアのもの。
「いかにも、領主殿。我らも驚きましたとも。どうやら、フォッグ帝国は大規模魔法陣の謎を解読できていなかったようなのですから」
ファルオーネは至極残念そうに、紙に書かれた言葉を見つめている。
その先には、こう書かれていた。
――大精霊は、かつて人智を越える魔法を駆使したというのに。
――死者を復活させる魔法があるというのに。
――時間を巻き戻す魔法があるというのに。
――永遠の命を得る魔法があるというのに。
そして。
――異界の知識を得る魔法があるというのに。
「夢見がちな魔法使いの恨み言一覧のようではないかね。だが、私としてはこちらの文章のほうが気になった」
ファルオーネは紙に書かれた文章の、下のほうを示す。
「人知を超えた魔法を駆使したはずの、古のアスラーダ帝国はなぜ滅びたのか?」
その文章に、コールが反応した。
「アスラーダ帝国だって……? それは、伝説の存在では?」
「私も同じ感想だったよ。今の世には、ただ名前が残っているだけの、古の、さらにはるか古の大国だ。しかしこれらの文章を見るに、どうやらこれらの大規模魔法陣は、アスラーダ帝国時代から受け継がれてきたもののようだ。一体何年前のことなのかと思うと、胸がぞわぞわせんかね」
肩をそびやかして含み笑うファルオーネに、コールは明らかに気圧されていた。
自分も歴史的ロマンには共感しつつ、この話にはなんだか奇妙な感じもした。
「でも、だとすると……謎を追いかけるなという大規模魔法陣の警告は、どういう意味になるんでしょう」
「んむ?」
「この警告を魔石に刻んだ時代の人々も、どうやら魔法陣の秘密にはたどり着けていなかったようです。だとしたら、なんの危険を警告しているのでしょうか」
自分たちは、古代帝国は魔法の巨大化のし過ぎ、あるいは大規模魔法陣の使用によって、自滅したのだと思っていた。
でも彼らもまた大規模魔法陣を起動できなかったとなれば、なにを恐れていたのかわからなくなる。
「簡単だよ。私を見たまえ!」
ファルオーネが両手を広げ、つぎはぎだらけのローブをばさりと払う。
「好奇心は身を亡ぼす。まあ、富の蕩尽だろう。おおかた、永遠の命を得る魔法でも追いかけたのが原因で、財政が傾き、内乱に陥ったのではないかね。そもそもフォッグ帝国末期の文書類が多く残されているのも、崩壊しつつある帝国をせめて文書の形で残そうとしたから、というのが定説だ。帝国の明日を憂う陰鬱な文書がやたら多いのだよ」
独裁者が老いゆえに暴走し、大精霊の残したという大魔法に魅入られ、それが原因で帝国が滅ぶ。いかにもありそうな話だ。
「では、魔石に刻まれたこれらも?」
「自らの研究を後世に残せないなど、悲しいではないか。その点、言葉を残すのに魔石ほど相応しいものはない。多くの者が複製し、利用するからね」
情報を残すのに必要なのは、複製だ。
その点で、魔石に刻まれる魔法陣以上のものはない。
「暗号化したのは、実は魔法に無関係な文章だと気づかれたら、削られると思ったからであろう。さもなくば、魔法を研究する者たちは、権力に監視されていたのやもしれぬ。家族に手紙も出せず、子供にも語って聞かせられない。だから自分たちの言葉を残すには、手元にある魔石しかなかった……と。特にこの最も巨大な魔法陣に刻まれた警告など、いかにも権力者が嫌がりそうではないか」
――魔法陣の謎に挑むなかれ。
「じゃあ」
と、声のしたほうを見たら、少しずつ話に追いつき始めた様子の、イーリアだった。
「魔法陣をとにかく集めて、残された文章を解読したら、当時のことがわかるってこと?」
理屈としてはそうだが、自分はテーブルに置かれた魔石のサンプルを見て、思う。
過去の言葉を残すには最適だったろうが、逆にそういうものだからこそ、本当に大事なメッセージを残すのには問題がある。
ファルオーネもすぐに首を横に振った。
「おそらく、それはないと思われますな」
「でも……」
「魔石に刻まれた魔法陣や暗号は、複製されることで生き延びます。ですがそれは、人目に触れすぎることも意味します。ですよね?」
自分の言葉に、生涯をかけて怪しげな知識を追いかけ続けてきた占星術師が、大仰にうなずく。
「いかにも。どれだけ暗号に自信があろうと、書いた本人は解き方を知っていますからな。ならばよく目につく場所に、嫁の悪口は書きませんでしょう?」
その妙なたとえ方に、イーリアは強張ったような笑みを見せる。
「けれどとても重要なことがいくつも判明しました。我らが古代の帝国と呼んでいるフォッグ帝国でさえ、魔法の謎は解いていなかったこと。しかも今に残されている大規模魔法陣は、今やその名前しか残っていない伝説のアスラーダ帝国時代より受け継がれているらしいということ」
「しかもその魔法の効果とやらは、とんでもない代物?」
健吾の言葉に、ファルオーネは大きくうなずく。
「少なくとも当時の研究者たちは、そう信じていたようだ。あるいは王家に残されていたという記録が、それほど信用に足るものだったのか」
その言葉に、イーリアは耳と尻尾の毛を逆立てていた。
そして引きつった表情のまま、壁に貼られた大規模魔法陣の写しを指さした。
「じゃあ、これは……この大規模魔法陣は、決して後世の作り物ではなくて、大昔から受け継がれてきた本物、ということなの?」
これらの魔法陣が、今たまたま起動しないだけで、その真の力を沈黙のうちに秘めているのだとしたら。
自分たちは、時間を巻き戻せるようなとてつもない世界の神秘の、その鍵穴を見つめていることになる。
「わくわくしますな、領主殿?」
そこで笑えるのは、ファルオーネただ一人。
日々に望むのは昼寝と穏やかな時間だけ、というイーリアは、尻尾が膨らむくらい大きく息を吸ってから、心底嫌そうにため息をついたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます