第十章

第111話

 ロランとの争いがひと段落し、海中に没していた廃鉱山も再稼働して順風満帆。


 あとは昼寝をして魔石の売り上げで左団扇……と、イーリアは思っていたのかもしれない。


「吐きそう……」


 そう言って、イーリアは机に突っ伏した。

 尻尾の毛はぼさぼさで、力なく垂れている。


 そんなイーリアの前にいるのは、健吾と自分という鉱山帰り組みだ。


「イーリアさん、もう少し頑張ってください」

「そうだぞイーリアちゃん、これくらいなんてことないだろ」


 イーリアは突っ伏したまま、耳まで伏せてしまう。

 ただ、こういう時にイーリアを励ますはずの、クルルもまた静かだった。


 そちらを見ると、クルルも遠い目をして呆然としていた。


「だめそうだね」

「受験の時は毎日二十時間とか勉強できたけどなあ」


 それはそれで超人だろうと思うのだが、イーリアやクルルたちにとって、椅子に座って授業を受ける、みたいなことは慣れてなさすぎるのかもしれない。


「けど、さっさとしないとロランから法律とかの専門家がくるんだろ? イーリアちゃんがなんもわからん状態だと困るだろ」

「う~……ケンゴたちがやってくれたらいいのよお~……私たちより詳しいんだから……」


 イーリアはそう言って、両腕で顔を隠すように背中を丸めてしまった。


 ロランとの和平協定が結ばれてから、自分と健吾でイーリアとクルルの先生役をやっているのだが、三日目にしてこれだった。


 フロストから聞き出したこの世界の政治機構や常識みたいなものは、イーリアもクルルももちろんある程度知っている。

 けれどそれを俯瞰するというか、ある程度体系的に理解し、なにがよくてなにが悪いか、どんな問題が出やすいかなどを検討できるレベルかというと、かなり怪しかった。


 それはイーリアたちの能力不足というより、前提知識がなさすぎるせいだ。


 たとえば自分がフロストから話を聞いて、すぐにこの世界の仕組みを理解できたのは、前の世界史をある程度知っていて、それらと比較するだけでいいから。


 そもそも人間の社会形態というのはかなり限られる。古代ギリシャ時代のプラトンが書いた『国家』を、中学生の時に背伸びして読んだら、まるで現代の政治を論じているように感じて驚いた。

 あるいは、プラトンも転生者なのかもしれないが……。


 とにかくこの世界の王国や教会の歴史や仕組みを下敷きに、大急ぎでイーリアたちに中学レベルの社会の授業をすることとなったのだった。


 こういう時、一流国立大学の法学部出身である健吾が実に頼りになる。

 健吾なら古代から現代までの世界史の講義に、法律の発展に対する歴史的な講義までできる。


 どちらかというと自分も生徒の側で、そういえば中学でやったなあ、みたいな単語がたくさん出てきて、勉強になった。


 そうはいっても、予備知識がないイーリアとクルルには、やっぱり飲み込むのが大変なようで、真夏の暑さでぐったりしている猫と犬みたいになっていた。


 そんなふたりの後ろで、小さなため息をつく少年も一人いたのだが、コールだった。


「君たちは、なぜこんなことを知っているんだ?」


 コールは良いところの生まれなので、きちんと教育を受けた経験があるらしく、座って学ぶということにも慣れていたし、講義にもついてきていた。

 しかしそれでもずいぶん疲れた顔をしているのは、新奇な概念が多かっただけ、というわけではないらしい。


 鉱山帰りの知識の深さに、やや不気味なものを感じているようだった。


「前の世界では多くの人が、六歳から十二年、あるいは十六年くらい、ほぼ毎日学校に通うんですよ」

「……」


 コールはぎょっとして、それから頭を振っていた。


「恐るべき世界だ」


 確かにこの世界に慣れてくると、前の世界は前の世界で変なんだろうなとちょっと思う。


「まあ、とりあえずちょっと休憩しましょうか」


 自分がそう言うと、イーリアがぱっと顔を上げ、クルルの目に意識が戻ったのだった。



◆◆◆◇◇◇



 領主様とその従者に即席の講義で知識を詰め込む一方、こちらは将来の役人候補の人たちの面接も忙しかった。


 広場に立てた高札に、案外応募が多かったのだ。


 富裕な商人たちが子息に教育を授けようとするのはどこの世界も同じようで、島の外で何年か学んできた者というのが思いのほか存在した。

 ここは病や怪我がすぐ死に直結する世界なので、長男になにかあった時のための予備として、実家でくすぶっている次男三男がたくさんいたのだ。


 今やジレーヌは州都ロランと対等に渡り合う領地であり、魔石鉱山はますます産出を増やしている。まさに上り調子ということもあって、長男の予備品として実家に縛りつけられている彼らが、島内で活躍の場を見つけるには、もうここしかないという感じだった。


 自分に人を見る目はあまりないが、どういう人材が欲しいかはすでに決まっている。


 なので面接する場には自分とコール、それから成長著しい我が商会の若き支配人ヨシュと、最後に加えたのがドドルだ。


『コレは、飲み屋でワレらと酒を酌み交わしたことがある。コレは、ワレらと揉めたことがある。コレは、ワレらの仲間を助けたことがある、コレは……』


 狭い島のこと。

 ドドルはノドン時代に人間を敵視していたから、どの人間が獣人に好意的で、誰が敵対的かの話にやたら通じている。


 ジレーヌ領は獣耳の領主様が治め、経済の土台である魔石鉱山は獣人たちによって採掘される土地だ。獣人と揉めるような者は、宮廷からは排除しなければならない。


 それにこの世界は、なにかと身分だの名誉だのと妙なことにこだわっては、自滅していく者たちが多いので、そういうことを気にしない気質の者たちを集めるべき。


 そのための面接の布陣だった。


「厳しめの基準のつもりでしたけど、思ったより残りましたね」


 面接にきたのが次男や三男など、家で冷遇されている者たちだったというのも、やる気に満ちた人が集まってくれた原因かもしれない。彼らが一旗揚げるには、実家と縁を切る勢いで島から出るか、この新しい宮廷に雇われるしかない。


 自分が手元のリストを眺めていると、ドドルが割り込んでくる。


『だが、ヨリノブよ』

「はい?」

『オマエは……本気、なのか?』


 疑っているというより、ドドルは戸惑っているようですらあった。


「本気です」


 手元のリストの下のほうには、他の人たちの名前と明らかに異なる文字列が並んでいる。


「ゴーゴンさんや、ゼゼルさんみたいな方たちもいるとわかりましたからね。ゼゼルさんの文字の綺麗さと文章の明瞭さは、この候補者の中でも上のほうですよ」

『……』


 ドドルは口をつぐみ、なにか調子が狂うとばかりに頭を掻いていた。


 役人には獣人も入れる。


 今までは目をつけられるのを恐れ、文字の読み書きができることを隠している者や、これまでの放浪生活で仲間と自分の身を守るため、帝国の法律に通じていた者などがちょくちょくいるようなのだ。それを利用しない手はない。


 それに宮廷に獣人がいて、法や行政に関わっていれば、町の人たちの彼らに対する認識も変わるだろうし、なにより彼ら自身の働き先の幅が広がると思われた。

 ゼゼルみたいに物静かで知的な者もいるのだから、彼らだって全員が鉱山で力仕事をしたいわけではないはずだ。


 もちろん面接にきた人間の候補者にも、そのことを伝えてある。


 リストに残っているのは、獣人が同僚になったり、もしかしたら上司になっても構わない、という者たちだ。


「ヨシュさんのほうはどうですか?」

「あ、はい。トルンとマークスさんを通じて、学びを得たいという人たちの選定は終わってます。おおよそ三十人くらいになりそうです」


 孤児院の子供たちや、食うや食わずの下働きをしている小僧たちの中で、適性のありそうな者を探してもらっていた。

 面接を通った人間と獣人らを合わせると、全部で六十人くらいになりそうだが、全員残るとは限らないので、この領地では妥当な数だろうと思った。


 総人口に対する役人の割合は、時代と国によって多く異なるが、あまり割合が高くなるとろくなことにならないのは、歴史が証明している。

 ちなみにたとえば江戸時代だと、武士階級は全体の一割に届くかどうかだったはず。


 この島の正確な人口はわからないが、五百人ということはないから、候補者全員を採用しても多すぎるということはあるまい。


 なんとかめどがつきそうだなとほっとしていたら、ヨシュが言った。


「あ、それと、ヨリノブ様。クローデル様が、教育用冊子について写本ができあがっているので、確認をして欲しいと」


 忘れていた。

 前の世界でも超人並みに働いていたらしい健吾は、鉱山の監督をしながらイーリアたちに授業をする一方、この際だからと役人候補たちのため、教科書の執筆までしていた。


 活版印刷がまだないので、手書きによる複写をクローデルに依頼し、クローデルはその仕事を例の女子修道院の面々に頼んでいた。

 こんなに早く仕事を終えられたのは、彼女たちが元々教育を受けた娘たちということもあろうが、きっとかなり無理をしてくれたのだろうと思った。


 というのも、クローデルを通じ、修道女たちの伝言を何度か受け取っていたから。

 ノドンによって狂わされた運命を取り戻してくれたことを感謝したいから、ぜひ修道院に寄って欲しいと。


 それが実現できないままでいるのは、忙しい、ということもあったのだが、あそこに行くとクルルからひどく疑いの目で見られるからだ。


 彼女たちの多くは辛い目にあってもなお明るく、気丈で、そのうえ話し上手という粒ぞろい。

 自分みたいなのがふらふら行けば、軽くひとひねりなのは目に見えていた。


 とはいえあれこれ仕事を依頼した手前、一度くらいは顔を出しておくべきだろうと、頭の中にメモっておく。


「わかりました。後で受け取りにいきます」

「ヨリノブ、僕のほうもお屋敷の倉庫を調べて、昔この領地で行われた裁判資料なんかがまとめ終わっている。確認してくれ」


 コールが言う。


「う……あー、はい」

『そうだ、ヨリノブ。ワレらの仲間たちが島にきたがっているのだ。船の手配をできないか? 船賃は仲間が集めているが、数が多いせいか、ニンゲンの船長から乗船を拒否されているのだ』

「えっと、はい、あの、カッツェさんとかと相談してみます」

「ヨリノブ様、あと前に言ってた話なんですが――」


 次から次に用件を話され、イーリアではないが、早く宮廷が立ち上がって、誰かが仕事を引き受けてくれと切に祈る。


 しかしこんな忙しさなど、まだまだ序の口だった。


 これからほどなくのこと。


 ロランから、専門家集団を乗せた船が到着したのだから。

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