第110話
使者の乗る船にはアズリア属州の旗が翻り、意外なことに、隣には教会の船もあった。
フロストたちの部屋に赴いて状況を伝えれば「なんのことはない」と説明してくれた。
「ロランだけでは、このジレーヌ領を抑えることは不可能だと判断したのだろう。復讐よりも、保身を選んだということだ。教会が仲介した和平を踏みにじれば、ここジレーヌ領は、神の敵となる。もちろん、我がロランが和平を踏みにじった時にも、同じ理屈が適用される。お互いにとって良いことだと思う」
格下相手に対する形だけの和平ではなく、ロランは真剣に対応を検討したようだ。
やはり合成魔石を思い切り使って心底震え上がらせたのは、良い作戦だったのだろう。
そう思っていると、木窓の外を見ていたフロストがふと言った。
「我々は子供の頃から、帝国とロランとの戦いを聞かされて育った。だから捕虜というものは、もっと悲惨で、みじめなものかと思ったが」
フロストは外からこちらに視線を戻し、肩をすくめる。
「拷問の代わりに、竜の肉を振る舞われ、しかも教えを請われるとは」
フロストのわざとらしい言葉に、こちらは苦笑いだ。
竜を倒した後、ここにまたお願いをしにきた。
そして自分はその後も、ちょくちょくこの部屋を訪れていた。
その理由は、この貴重な捕虜がいるうちに、ありったけの知識を得ようとしたからだ。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
「……そうやって頭を下げる人間が一番怖いのだと、私は学びを得たよ」
このフロスト本人は、元々ジレーヌにそこまで敵対的ではなかったようだが、格下として見くびり、取るに足りない存在だとみていたのは間違いない。
けれどこの部屋からは、町の賑やかさが嫌でもわかる。
ついこのあいだも、廃鉱山の情報を聞きつけるや、あっという間にそれを見つけだし、あまつさえ海竜まで討伐してしまった。
その自分たちの様子に、色々認識を新たにせざるを得なかったのだろう。
「この領地が発展すれば、それはロランのためにもなる。協力は惜しまない……いや、負けた身で偉そうな物言いだったな」
フロストは疲れたように笑ってみせた。
「貴殿から頼まれたこと、法律家や行政官の派遣についてだが、ロランに戻り次第、速やかに手配を行う」
「よろしくお願いします」
自分がフロストのもとを足しげく訪れていた理由は、これだった。
ジレーヌ領の発展のため、法律の制定や行政機構を急いで確立しなければならないが、自分たちにはあまりに荷が重かった。
経営シミュレーションゲームの内政パートと、実際の行政機構の確立はまったく違うのだから。
船の建造資金確保のため、ヨシュを交えて徴税機構の設立を検討してみて、たちまちそのことを思い知った。
仕事内容を決めて、人を雇うだけでは、必要なことの全体の一割にも満たないのだ。
たとえば彼らの給与を決めるとしよう。
町の人間からしてみたら、自分たちから税をむしり取る連中が高給取りだったら怒り心頭だろうし、かといって徴税人の給与が低すぎたら、汚職に手を染める者が出かねない。
もちろん、集めた税金より人件費が高かったら、なんの意味もない。
まずこのバランスをとる時点で、難問だった。
それから徴税においては様々な問題が起きるだろうから、責任者が必要となる。
となると組織図を整えなければならないし、会計役だって必要だろう。
徴税をするのに必要なのは、決して徴税官だけではないのだ。
おまけに税逃れやらは確実に出るので、そういう者には罰則を加える必要がある。そうしないと真面目に納税する者がいなくなるから、徴税においては司法の力も必要となる。
あるいは逆に、徴税官が不正を行うことだってあるだろう。そこに目を光らせる人物も必要となるだろうし、町の人たちからの苦情の受付先だって定めねばならない。
こうして、問題は倍々に増えていく。
徴税を機能させるには法律が必要で、法律を機能させるには法律を司る者たちが必要で、しかも法律というのは文章だけあれば存在できるものではない。それが意味を持つには、罪人を放り込む牢屋といった、現実的な罰のシステムが必要となってくる。
その実力を行使するためには公平で屈強な衛兵が必要だし、その衛兵たちの給与や服務規程に、その組織図に……と、底なし沼が待っている。
これだけでも頭が痛いのに、このジレーヌ領にはもっと根本的な問題がある。
そもそもジレーヌ領には、明文化された法律らしい法律がないのだ。
領主様がいて、なんとなくこれは悪いことだろう、みたいな不文律があって、争いの多くは領主様の気持ちひとつで決まってきた。その積み重ねによって、まあまあ回ってきたようだ。
よほどのこととなれば、きちんと司法機構が定まっているロランに訴えればいいという事情もあったのだろう。
しかしいずれにせよ、ゼロから法律を構築するなど、自分たちには到底不可能なことだった。
そこに今、このジレーヌには実際にロランを統治運営する立場のフロストたちがいる。
そこで自分はフロストたちの部屋に日参し、この世界でのよくある政治形態と統治機構の大まかな仕組みを学んでいたのだ。
それからロランとの間で和平が締結されたのち、ロランから行政と法律の専門家を寄こしてもらう約束を取り付けた。
要はロランにすでにある行政や司法の仕組みを基礎にして、領主であるイーリアの希望や、ジレーヌで長く暮らしてきた者たちの慣習などを聞き取り、すりあわせていく方法だ。
そうすればこのジレーヌも、どうにかこうにか領地としての体裁を整えられるはずだった。
「私は子供のころ、己の自由にできる都市があったらどういう都市にするか、とよく夢想したものだが、貴殿らはそれを今から実現するわけだ」
フロストは目を細め、心底羨ましそうに言った。
「ロランに帰らねばならないのが残念だが、ぜひ協力させて欲しい」
どこまで本気かはわからないが、フロストが協力してくれれば大いに助かる。
自分は深々と頭を下げておいた。
「お前ら、用意できたか?」
そこにクルルがやってきた。
イーリアの第一の従者という立場で和平締結の儀式に参加するので、町の服屋を呼んで作らせた、布地の多いドレスめいた服を着ている。
髪を綺麗に結い、唇には薄く紅も引いているのは、多分イーリアの命令だろう。
こちらの視線に気がつくと不機嫌そうに目を細めていたが、「似合ってますよ」と言えば、当たり前だろみたいな顔をされた。
ただ、耳と尻尾が嬉しそうにしていたのは、もちろん見逃さない。
「それではみなさん、忘れ物はありませんか?」
さっさと階下に降りて行ったクルルを見送り、自分はフロストたちに尋ねる。
すると身の回りの雑事はすべて使用人がやるのが当たり前の大貴族様には、実に新鮮な質問だったらしい。
ぽかんとしてから、フロストはずいぶんおかしそうに笑っていたのだった。
◇◇◇◆◆◆
小舟に乗った使者を介した迂遠なやり取りの後、ようやく海上で彼らと相まみえると、教会からは大司教以下、ロランの高位聖職者がずらりと乗っていた。
ただ、そこにあの強欲司祭の姿はなかった。
領主奪還の騒ぎに立ち会えず、その後の領地の危機にもいなかったのだから、ジレーヌの代表面はさすがにできないということだろう。
代わりに教会側からは、ジレーヌの代表として補司祭のクローデルが指名された。
多分、クローデルの優秀さはロランのほうでも知られていたのだろうし、強欲司祭に任せるには危険すぎる領地だと思われたのかもしれない。
これを機に、使えそうなクローデルを出世させようということなのだろう。
こうして大司教ら立ち合いの元、ロラン側の代表とイーリアが和平協定に署名した。
たっぷり自堕落な日々を過ごして英気を養っていたイーリアは、新進気鋭の領主の演技をきっちりこなし、教会やロランの面々に臆することなく立派に振る舞っていた。
お飾り領主として、町の催しに参加すれば皆から嘲られ、馬鹿にされていた苦労を知っているクルルは、調印に臨むイーリアの見違えるような勇姿に涙ぐんですらいた。
そして最後に捕虜の引き渡しとなったが、ジレーヌ側からロラン側へと進み出ようとしたフロストは、立ち止まるとイーリアを振り向いた。
「そなたは我らを消し炭に変えることもできた。捕虜としても望むべくもない待遇だった。領主イーリアの慈悲深さに敬意を表したい」
率先して膝をつくフロストを見て、次兄も慌てて膝をつく。
イーリアは軽く肩をすくめると、手を差し出し、フロストが手の甲に口づけをするのを許していた。
その際、フロストはこちらをちらりと見て、微笑んでみせた。
それは貴族というより、商人の顔。
遺恨を水に流して手を組めば、おそらく互いに大きな儲けを手にできるはず、ということだ。
こうしてフロストら捕虜が無事に返されると、ロランからは身代金のつもりなのか、宝剣と旗が差し出された。
最後に大司教の指揮の下、鐘が高らかに鳴らされて、すべてが終わった。
後から振り返れば、この日はジレーヌ領としての、世間に知られた領地としての、正式な再出発の日となった。
そして後世の帝国にとって、いやこの世界にとって、大きな転換点として歴史書に記される日となった。
けれど今はただ、イーリアをはじめとした面々は、肩から大きな荷が下りたと安堵するばかり。
調印を済ませ、軽い祝宴の後、港に降り立った直後。
イーリアはきつい腰帯を解くやそれを手にして振り回しながら、こう叫んでいた。
「今日は飲むわよ!」
もちろん誰も諫めないし、港でロランとの和平締結を見守っていた町の人々は、歓喜の声を上げた。
イーリアにはお上品な領主様より、海賊の頭領のほうが似合っているのかもしれない。
自分は小さく呆れ笑ってから、クルルを見た。
ロランを見事退けた領主として、町の人々から喝さいを受けているイーリアにまた涙ぐんでいたクルルは、こちらに気が付くと目尻を拭って、気丈に笑ってみせる。
「さあ、飯を作るぞ。お前も手伝えよ」
「もちろんです」
クルルはもう一度目尻を拭うと、いきなり抱きついてくる。
そしてこちらの胸を叩くようにして離れると、イーリアのほうに駆けて行った。
町の人たちにもみくちゃにされているのを、助けにいくのだろう。
ふと気づくと、そんなイーリアやクルルの様子を、健吾やマークス、それにドドルといった主だった面子が、遠巻きに見つめていた。
後方彼氏面といったらあれだろうが、守るべきものがなんなのかを、よくわかっているという顔だった。
それからやがて男たちは、だれからともなく視線を交わし、やれやれといった感じに笑っていた。
やるべきことはたくさんある。
特に自分はまず調理場の火をおこし、野菜を洗わねばならない。
なにせ我らのお姫様とその従者が、今日は宴会だと言うのだから。
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