第106話
フロストは捕虜として島に残り、書記官たちがフロストのしたためた文書を携え、海上の船団に戻っていった。
それから沖合に足止めされている船団から二隻だけ、ロランに向けての出発を許された。
怪我人を運ぶのと、事の次第をロランに伝え、正式な協定を締結するためだ。
フロストを含むコールの兄二人は、イーリアの屋敷の一室に軟禁してある。
その扉の前を守るのはコールの仲間の獣人二人だから、彼らと気脈を通じて万が一にも逃亡を許すことはないだろう。
どちらかというと、彼らが二人に危害を加えないかのほうが心配だ。
ついでに今は、コールがその部屋にいて、兄弟間の話し合いをしている。
一応コールから武器は取り上げてあるが、前歯数本くらいなら折ってもいいと思うわよ、とイーリアは真顔で言っていた。
「金貨百万枚だって」
人のはけた広間で、長テーブルに突っ伏すように体を投げ出していたイーリアが言った。
他の皆はそれぞれの仕事に戻っていて、廊下からはクルルが作っている軽食の匂いが漂ってくる。
体育会系なところのあるクルルは、ちょっとした休憩には飯、という感じなのだ。
「魔石の輸出が増えているといっても……ヨリノブの商会の何年分の稼ぎなの?」
「売り上げだけなら、二年分か三年分、くらいでしょうか」
「え、そんなもの?」
イーリアが意外そうな顔をしているが、もちろんそんなに甘くはない。
「あくまで売り上げですよ。現状だと本来税金で賄うべき色々な費用を、商会のほうでたくさん肩代わりしてますから、赤字ぎりぎりです。もちろん金庫に金貨百万枚なんてありませんから、どうにかしないといけません。ロラン側もいきなり全額払えとは言わないでしょうけれど、それなりの金額は必要でしょう。税金として集めるほかないでしょうね」
「うっ……そっか……税金……税金、よね……」
領地運営には税を取らないとならないが、イーリアの感覚は貴族より庶民に近いせいか、あまり積極的ではなかった。港での関税など、いくらか取り戻しつつあるが、職人などの各種組合からの税や、市場での取引にかかる間接税の類は手が進んでいない。
徴税を任せられるような、信用できる人手がないというのが最も大きなところなのだが、積極的に話を進めていないのは、イーリアの気持ちによるところも大きかった。
クルルが言ったように、今のイーリアがその気になれば、この領地でできないことはほとんどないのだ。
いついつまでに各々が耳を揃えて税金を持ってこいと命令すれば、多分しばらくはそれで機能する。
それをしないのは、心情的な理由からだ。
「やっぱり、罪悪感が?」
尋ねると、イーリアが犬耳を互い違いに前後させていた。
「そりゃあ……大嫌いだった貴族と同じことをしろって話だもの」
確かに税を浪費すれば悪だとしても、インフラ構築に使えば、それは巡り巡って人々のためになる……と説明されたところで、しみついた感覚がすぐに変わるものでもないのだろう。
庶民の感覚を忘れない領主様、というのは一見するといいことかもしれないが、統治する者とされる者は、やはりある程度は違う存在であるべきなのかもしれない。
それからこの話でひとつ忘れてはならないのは、税を搾り取ることで恨みを向けられるのは、ほかならぬイーリアということもある。
「はあ~……もう! ヨリノブの閃きでぱぱっと大儲けしてよ!」
そしてふわふわ巻き毛の領主様は、尻尾を不機嫌そうに揺らしながらそんなことを言ったのだった。
「ええ……?」
なんとも理不尽な要求なのだが、今後のことを考えるなら、確かに商会の売り上げ倍増計画というのは、真面目に考えるべきことでもあった。
なにせここは輸入に頼らざるを得ない島の領地であって、金貨が無ければ命は繋げない。
ロランとの和平協定に関税の一時停止やらを盛り込んだものの、稼ぎは全然足りていないのだ。
島内で畜産を拡大したり、ため池を作って魚の養殖を考えたり、まずは食料の輸入から減らそうという努力は、開始したばかり。
あと、絶対に忘れてはならないのは、ここの経済が魔石鉱山一本槍だということ。
資源はいつか枯れる。
埋蔵資源に頼りすぎていい加減な運営をした挙句、破産した国家は少なくない。
オランダ病は有名だし、ナウル共和国というすごい例も忘れてはならない。
イーリアのそれは確かに無茶ぶりなのだが、金貨百万枚の支払いというのは、次に進むためのいいプレッシャーに変えることもできるはず。
それに自分としても、実はいくつかプランがないわけではなかった。
そんなことをあれこれ考えこんでいたところ、また大きなため息が聞こえてきた。
「もう、冗談だってば!」
「え?」
イーリアはむくれて突っ伏している。
耳も尻尾も、しゅんと垂れていた。
「ヨリノブまで、そうならないでよ……」
「ん、え? な、なんですか?」
慌てていると、テーブルに突っ伏したままのイーリアが言う。
「さっきも、イーリア様ご随意に、なんていきなり言いだすし……」
イーリアは少し顔を上げてこちらを睨むや、ぷいっと顔を背けてしまう。
「……」
不機嫌丸出しの様子に呆気にとられたが、徐々に理解が追い付いてきた。
イーリアが領主然として振る舞っているのは、それがイーリアにしかできない仕事だからだ。
なのに空気の読めない間抜けは、フロストとの交渉で、イーリアを“本物の領主様”みたいに扱っていた。
あの時のイーリアは、外交の場で主役として活躍したいなんて思っていなかったのだ。
むしろ初めてのことばかりで不安でいっぱいで、もっと周りに頼りたかったのだろう。
それで交渉手順を確認しようとこちらに目配せしたら、ご随意に、なんて突き放される。
おまけにぱぱっと大儲けしろと冗談を言ったら、真に受けられてしまう。
イーリアは、こうして周囲から領主として祀り上げられるうちに、知らず知らず大嫌いな貴族になっていくのではないかと、怖くなったようだ。
権力の威力に戸惑っていた、クルルのように。
むくれるイーリアを見やり、しばし考えてからこう言った。
「では、もうちょっと無礼に接したほうがいいですか?」
フランクに、という言葉をこちらの言葉でどう言えばいいかわからなかったので、無礼に、と表現した。イーリアはこちらを見て、値踏みするような顔で言う。
「できるの? そもそもヨリノブって、いつまで経っても堅苦しい言葉使いじゃない」
クルルは怒るが、ゲラリオや健吾にイーリアちゃんと呼ばれて、イーリア自身は悪い気はしていない感じだ。
「敬語については、イーリアさんにだけじゃないですけど……」
自分がため口を向けるのは、せいぜい健吾くらい。
なんなら前の世界では、他人の飼い犬をわんちゃんと呼ぶこともできず、わんさんと呼んで笑われたことがある。
「じゃあ試しに、呼び捨てにしてみてよ」
そうくるかとたじろぐ。
というか女の子を呼び捨てにしたことなど、多分人生で一度もない。
けれどここで言えないと答えたら、自分の発言に責任を持てないことになる。
それにイーリアには、意外にこういうことではクルルより気にしそうな感じがある。
仕方ないと思い、言った。
「……い、イーリア?」
するとイーリアは片方の耳だけぴっぴっと動かし、少し視線をそらしてから、またこちらを見やる。
「なんか違うんだけど」
「えぇ……?」
「そうね。もっと命令口調で言ってみて。たとえば、そう、仕事しろとか」
げんなりしたが、言われるままに従った。
「い、イーリア、仕事をしろ」
イーリアの獣の耳が左右両方、機敏に動く。
「もっと低い声で」
「……」
なにをさせられているんだと呆れつつ、咳払いして、声を低くする。
「イーリア、仕事をしろ」
するとイーリアは、不意に耳を触られたみたいに目を閉じ、首をすくめていた。
そしてゆっくり目を開けると、こう言った。
「そのままお髭も生やしてくれない?」
剃ったばかりでそんなすぐ生えるかと思ったし、思い出したのはクルルの話。
イーリア様は案外ゲラリオの奴が好きなんじゃないか、とか云々。
自分は理解した。
「イーリアさん、それ、イーリアさんの好みの話ですよね?」
いたずら好きの領主様は、ついにくすくす笑い出す。
「ゲラリオさんにやってもらってくださいよ」
「え~? いやよ。あっちには不器用さがないもの。ヨリノブみたいな生真面目な感じで言われるからいいんじゃない」
「……」
ぎりぎり誉め言葉でないことくらいはわかる。
まったくもうと呆れつつ、機嫌が直ってくれたみたいなのでそれでよしとする。
イーリアは楽しそうに尻尾を振った後、手招きしてくる。
顔を寄せれば、こう耳打ちしてきた。
「クルルも案外好きだと思うわよ」
「……」
嫌そうな目を向けると、にっこり笑顔を向けられた。
こんなにじゃれついてくるのは、ほとんど初めてのまともな外交で、見た目以上に緊張していたからだろう。
これくらいの憂さ晴らしでいいのなら、付き合うのは安いものだ。
「ただ、さっきの理不尽な要求、売り上げを倍増しろって話ですけど」
「ん?」
「あれを真剣に考えたのは、別に領主たるイーリアさんのお言葉だから、というだけじゃありませんよ。まだまだ足りてないものが領地には多すぎますし、それを税で賄うのも、しばらくはほぼ無理でしょうからね」
イーリアはこちらを見上げ、少し真面目な顔になる。
「頼みの綱の鉱山も、竜が出るくらい肥沃な鉱脈が見つかったとはいえ、いつまで掘り続けられるかわかりません。そのことを思えば、余力があるうちに新しい商売を確立して、足元を固めておくべきです」
そう言われたイーリアは、納得するようなしないような顔をしてから、犬耳をぺたんと伏せて、上目遣いに聞いてくる。
「でも、そんなこと、いきなりできるの?」
普段から我がままばかり言う割りには、いざこちらが本気になると弱気になるのが、イーリアの可愛いところだと思う。
クルルがイーリアを好きな理由が、だんだんわかってくる。
「できます……というか、試したいことがあるんですよね」
「試したいこと?」
「廃鉱山の採掘です」
ぽかんとしたイーリアは、小首を傾げている。
「自分たちは合成魔石の秘密を握ってますから、魔法を事実上タダで使えます。その本当の威力の片鱗も、先ほど確認したばかりです」
海に白いキノコが生え、大船団が一瞬で使い物にならなくなった。
「あれだけの魔法を自由に、無料で使えるのなら、普通の採掘方法では採算が取れなくなったり、鉱脈が枯渇したと思われて放置されている廃鉱山でも、自分たちなら復活させられるかもしれません。たとえばこう、魔法で鉱脈を塞いでる部分を根こそぎ吹き飛ばしてしまうみたいなこととかで」
魔法を撃つ真似をして手を伸ばすと、きょとんとしていたイーリアは、なぜかその小さな手をこちらの手に合わせてくる。
「そうすれば、この島の鉱山を掘らなくても済むようにさえなるかもしれません」
「なるほど。でも、どうやって鉱山なんて探すの?」
通信インフラは旅人の口伝か、せいぜいが手紙だけ。
しかも詳細な世界地図など望めないここでは、遠く離れた土地の鉱山の情報など、そう簡単には手に入るまい。
「ヨリノブたちが……旅に出て探すってこと?」
やや寂しそうな顔をしてくれた、というのはおこがましいだろうか。
けれど探索の旅に出る必要はない。
頭上を指させば、イーリアも釣られてそちらを見た。
「この地域の商いに詳しい人たちが、ちょうどいるじゃないですか」
屋敷の部屋にはバックス商会の三兄弟がそろい踏み。
コールが恨みのあまり、彼らを殺していなければ、だが。
自分は冗談めかしてこう付け加える。
「しかも今、相手は捕虜の身ですよ」
天井から視線をこちらに戻したイーリアは、獣の耳をぱたぱたさせていた。
「確かに……そうね、そうよね。捕虜への尋問は、戦の際に認められた権利だものね」
イーリアはそう言って、悪そうに笑いだす。
偉ぶるのは好きではなくても、人を脅かすのは好きなのだ。
「じゃあ、さっさと腹ごしらえしましょうか」
そこにちょうどクルルが料理を運んできたので、配膳を手伝った。
そして飲み物をとりにいくというので、自分も炊事場についていこうとしたら、食堂を出たところでクルルにこう言われた。
「イーリア様を呼び捨てにするな」
全部聞かれていたらしい。
それからクルルは、ちょっと怒ったように言った。
「あと、お前は髭がないほうがいいって言ってるだろ」
「……」
やや驚いてから、ちょっと笑ってしまう。
「伸ばしませんよ」
クルルはしばし疑わしそうにこちらを見やるが、その目は浮気を疑う目のようにも見えた。
結局クルルは疲れたようにため息をついて、歩き出す。
「ふん。ほら、飲み物をとりに行くぞ」
「はい、はい」
クルルにおとなしくついていくと、クルルはようやく眉間のしわを消してくれた。
ただ、そんなクルルの斜め後ろを歩きながら、自分はつい想像してしまう。
髭を生やしたワイルドな自分に、呼び捨てにされながら詰め寄られ、顔を赤くするクルルという姿に。
明らかに非現実的なのだが、なにか自分の中で新しい扉を開けてしまいそうで、慌ててその妄想に蓋をしたのだった。
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