第102話
「ジレーヌ領の領主より全権を委任されております。ヨリノブ・タカハシです」
船の上に立ち、挨拶を向ける。
船と船の間は、人間では助走をつけて飛んでもぎりぎり届かないであろう距離。
ただし、言葉は十分すぎるほどに届く。
だというのに相手の貴族は、返事を寄こさず、視線すら向けていない。
見ているのは、コールだ。
「よくも我が家名に泥を塗ってくれたものだ」
名乗りもしないで発したその一言。
あの白々しい書状の文面を、形でさえ取り繕う気がないらしい。
コールは自分の隣で膝をついたまま、うつむいている。
「互いの誤解を解きたいとのことでしたが?」
自分が改めて言うと、ようやく相手の視線がこちらに向く。
「ああ、誤解を解いてやる」
おそらくはコールの兄である人物は、剣を鞘ごと放り投げてきた。
弧を描いたそれを、バダダムが受け取る。
「コール、愚かなる弟よ。それでこの船を襲え」
「……?」
向こうの要求は色々シミュレートしてきたが、これは想定になかった。
「この様子を主だった貴族連中が見ている」
コールの兄が軽く振り向き、遠くに控える船団を顎で示す。
戦力差は明らかだ、と言いたげに。
「お前は愚かにも獣風情に欲情した。我々の懸命にして親愛に満ちた説得にも耳を貸さず、あまつさえ逆上して神聖なる宮殿を破壊し、逃亡を企てた。そして今この場の、再びの慈悲深い説得にも関わらず、剣を振りかぶった」
なるほど、と理解する。
「あなたたちが書状にしたためた〈誤解〉というのは、私たちジレーヌ領が反乱を起こした、という点ですか」
その言葉には、犬の飼い主のように、コールの兄が目を閉じてうなずく。
「いかにも。諸君らが我らに歯向かうなどあり得ないことだ。だから今回のことも、この愚か者に唆され、巻き込まれただけの哀れな羊という立場にすぎないのだと、我々は考えている」
ロランとしては、世間体のために、そういうことにしたいのだ。
属州の州都であり、帝国統治の先棒を担ぐ役目のロランとしては、反乱があっては統治能力を問われてしまう。
また、支配下の貴族たちに対しても、ジレーヌ程度に反乱を許していては軽く見られることになる。
だからジレーヌは反乱を起こしたのではなく、あくまでコールの暴走に巻き込まれた形にしたい、というところだろうか。
どこまでも、自分たちの体面を守ることしか考えていない。
「しかいずれにせよ、諸君らが我らに牙を向けたのは事実である。諸君らの忠誠心があれば、本来はこの馬鹿な弟の暴走を、命を懸けてでも止めるべきであった。愚かにも手を貸してしまったのであれば、その愚かさを差し引いても、無罪放免とはいくまい」
そもそも自分たちがイーリアをおびき出して毒を盛ったことなど、欠片も気にした風がない。
この自分勝手さには、ある種の矜持すら感じさせた。
「それにこの馬鹿を誘惑した獣が、属州の片隅とはいえこの島に居座ったままというのも、風聞が悪い。帝国中央の貴族の落胤らしいが、それも怪しいものだ。よって――」
コールの兄は、以前のコールそっくりに胸を逸らし気味に言った。
「ジレーヌの領主は交代し、島にあふれる獣人どもも、鉱山採掘に必要な連中以外は全員奴隷として出荷する。ただ、お前」
相手が、こちらを顎で示す。
「お前は商いに秀でているらしいな? 喜べ、お前は我らの商会に加えてやろう。せいぜい、宮殿の再建資金を命がけで稼ぐがいい」
交渉と呼べるはずもない、一方的な通告。
もっとも、ノドンの下で働いていた経験から、これでもなお、彼らにすればだいぶ寛大な処置なのだろうな、というのはなんとなくわかった。
自分が大きくため息をついたのは、どこまでも身勝手な権力者の考え方にうんざりするから。
それに、彼らにはコールを生かしておくつもりだって、微塵もないだろう。
コールの兄が乗る船にはあの魔法使いがいて、パンパンに膨らんだ外套の下に手を入れたままなのだ。
ジレーヌ領の領主交代とやらが平和裏なものでないことも、目に見えている。その従者のクルルがどんな目に遭うか、想像もしたくない。
彼らの背後には圧倒的な船団が控え、間違いなく魔法使いが複数乗っている。
さらに船団の中には、トンボの翅のように櫂が並ぶ高速船もいるから、速やかに島のどこかから上陸し、逆らう者たちを片っ端から粛清するつもりだろう。
あるいは、ロランに逆らったらどうなるかを民衆に思い知らせるべく、あの船団で島を取り囲んで兵糧攻めにでもするつもりだろうか。
いずれにせよ、普通の状況ならば、自分たちがここから生き延びようと思えば、選択肢はふたつしかない。
コールに剣を取らせ、相手の望みどおりに錯乱の証を示してみせるか。
あるいは、やぶれかぶれでコールに魔法を撃たせ、相手魔法使いを倒した後で、この傍若無人な兄を人質に取るかだ。
「馬鹿なことは考えていないと思うが、一応言っておこう」
コールの兄はそう言うと、奇妙な笑みを見せた。
怒りと憎しみと、それから自虐をたっぷり含んだ笑みだ。
「私を人質に取るのは無意味だ。お前たちの騒ぎのおかげで、宮殿の筆頭護衛騎士の任に就く私の評判は、見事なまでに地に落ちたからな。父は、できの悪い弟と、運の悪い間抜けの兄をまとめて海の藻屑にできるなら、喜んでそうするだろう」
筆頭護衛騎士というが、きっとバックス商会主人の血筋としてあてがわれていた、ロランの街の名誉職だろう。
権威付けのため、大過なく勤められるはずだったその役職も、起こるはずのない賊の侵入によって、突然責任を負わされる立場になった。
彼が名目上守っているはずの宮殿は、滅茶苦茶になってしまったのだから。
血筋の良いお貴族様の経歴に、消しきれない汚点がついた。
そんな不運な間抜けは、バックス商会に必要ないということだろう。
「コール! 剣を取れ!」
彼自らが魔法使いだったなら、とっくに魔法を撃っていたかもしれない。
それくらいの剣幕で怒鳴り、コールは明らかに体をすくませた。
この様子を見るだけで、兄たちにどれほどいびられていたか想像がつく。
しかもコールは魔法使いだというのに、これなのだから、よほどのことだ。
あるいはコールが魔法使いだからこそ、兄たちは弟に立場を奪われないよう、徹底的にいびっていたのかもしれないが。
そしてその結果として、コールが心を許せたのは、奴隷として側にいた獣人たちだったのだろうか。
そのコールは視線の定まらないまま、手を伸ばしてバダダムの手から剣を受け取ろうとする。
『……本気ですかい?』
バダダムは戸惑いがちに言ったが、剣をコールに渡してしまう。
そしてコールは立ち上がると、剣を抜き放って、鞘を捨てた。
「……兄上」
コールは足元を見つめたまま、呟くように言った。
「僕は――」
「死ね!」
それがコールの兄のものか、魔法使いのものだったかはわからない。
背後に控える船団の貴族たちへの見世物としては、コールが剣先をあげかけたところで体裁が整った、と判断したのだろう。
あるいは、一瞬でも早く抹殺したかったか。
爆炎がこちらに向かって放たれ、視界が塗りつぶされる。
そうくるだろうとはわかっていて、対策をとっていても、やはり怖い。
炎の濁流がゆっくり晴れると、その向こうに新たな魔石を手に取る魔法使いの姿が見える。
しかもそれが開戦の幕開けだと示し合っていたのか、船団からも鬨の声と太鼓の音が聞こえてくる。
ゆっくりと前進を始める巨大な船団の前にいるのは、自分たちが乗るちっぽけな船だけ。
それはロランという歴史ある都市を前にした、ジレーヌ領そのものでもある。
バダダムが息を飲み、どうするんだとこちらを見やる。
この圧倒的に不利な中、しかしコールは顔すら上げずに、こう言った。
「兄上……僕の存在など、ジレーヌでは取るに足りないものなのです」
うつむいたままのコールは、左手に魔石を握っている。
防御では鉄壁を誇る、あらゆる魔法を吸収する死神の口。
しかし相手の魔法使いは当然それを見越しているから、外套をパンパンに膨らませているのだ。
次から次に魔法を放ち、どんどんコールの手の中の魔石が小さくなっていく。
三度爆炎が通り抜けた後、コールはようやく顔を上げた。
「あなたに剣を向けるとしても、その資格を持つのは僕ではないのです」
コールが、剣をこちらに差し出してきた。
そこまでしなくていいのに、と言いたくなったが、コールは頑なだ。
このわざとらしいまでの臣下の礼は、ある意味で本気だったのかもしれない。
あのドドルでさえ、これから起こるであろうことを怖れていたのだから。
「なんだ? 寛大な処置で商会に迎えてやろうというのに、そこの馬鹿に唆され、片棒を担ぐのか? なんと愚かな! 我が商会で働けるなど、神に愛されし幸運だというのに!」
彼の背後からは、今まさに弱小領土であるジレーヌを蹂躙せんと、大船団が迫ってきている。
なんなら占領にかこつけて、島の者たち相手に残虐な欲望を満たそうという、ちょっとした催し物だと思っているかもしれない。
それでもこのロランに招かれたならば、誰であっても喜んで忠誠を誓うはずだと、心底から信じているようなその口ぶり。
貴族のメンタリティは、庶民には理解しがたい。
けれど、おかげで勘違いしようもなくなった。
彼らに、和解の意思などないのだ。
「あなたたちのお考えはよくわかりました。この時点、この瞬間を以って、ジレーヌ領は州都ロランに宣戦布告します」
コールから受け取った長剣はずしりと重いが、クルルを助けるために百日紅の館に突撃した時ほどには、緊張しなかった。
その重さを確かめるように手首をくるりと翻し、憤怒で顔を真っ赤にしているコールの兄に向けた。
そして、舐め腐って大軍で踏みつぶせばいいと安易に考え、のこのこやってきた大船団に向けて、剣の切っ先を掲げた。
この様子を見ている誰からでも、事態の推移がよくわかるように。
これから小魚が、大鯨に歯向かうのだと知らしめるように。
逆上した貴族様が、口を開く。
「死――」
「目を閉じたほうがいいですよ」
自分の警告は聞こえただろうか。
確かめられないのは、自分も目を閉じたから。
「なに?」
最初に聞こえたのは、かすかな高音域。
風とは違う独特の空気の揺らぎは、新幹線が通過する直前のよう。
そして目を閉じていてさえわかる、猛烈な光の圧迫感がやってきた。
たちまち耳をつんざいた轟音は、もはや質量を伴って皮膚を叩く衝撃であり、胃の腑が冷たくなるような感覚は、圧倒的なエネルギーに対する本能的な恐怖だ。
空間そのものを歪ませるようななにかが頭上を通過していくのがわかる。
息を止め、膝を踏ん張り、せめて無様を晒すまいと全身に力を籠めるので精いっぱい。
世界を塗りつぶさんとする光と轟音の下で、自らの存在のちっぽけさを思い知らされる。
その数舜後。
たまさかの静寂が訪れた。
恐る恐る目を開ければ、穏やかな波を湛えていた深い青色の海が、今まさに冗談みたいに盛り上がっている最中で――。
そしてこの世界の人々は、この日、この時、この場所で、魔法の真の力の片鱗を目の当たりにしたのだった。
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