第103話

『おおおおお⁉』


 凄まじい爆風に、バダダムが必死に踏ん張り、船がひっくり返らないよう櫂で海面を叩いている。

 自分は船底に体を押し付けるように身をかがめ、無我夢中で縁を掴む。


 そうして吹き飛ばされそうなほどの爆風をやり過ごしたかと思ったら、今度は巨大な荒波が小舟を翻弄し、胃の中身が全部出そうになった。


 どうにか転覆は免れたようだとわかる頃、目を開けた視線の先。


 そこには、この世のものとは思えぬ光景が広がっていた。


「……すっご」


 ひどく暗く感じるのは、太陽が遮られているから。

 首が痛くなるくらい空を見上げても、はるか上空まで真っ白い水蒸気のようなものが吹きあがっている。


 水しぶきの柱はあまりに巨大で、その動きがひどく緩慢に見えた。


 脳裏にあったのは、かつて冷戦の時代、ビキニ環礁で行われた水爆実験の映像だった。


 それくらいの光景が広がっているし、ようやくロランの船団のことを思い出して沖合に目をやれば、こちらもひどい有様だった。


 爆発そのものからはかなり距離があったが、爆風と猛烈な荒波によって何隻も横倒しになって、転覆こそ免れてはいたが、船同士が折り重なるような大混乱に見舞われていた。


 もはやまともな戦いなど無理だろう。


「バダダムさん」


 呆気に取られていたバダダムに声をかけると、彼ははっと我に返っていた。

 そしてバダダムは、この世のものとは思えぬ者を見るような目で、こちらを見やる。


 確かに自分はこの世の者ではないし、地獄のような目の前の光景は、明らかに自分の剣先の動きによってもたらされた。

 とはいえ自分は魔法使いではなく、直接的な意味では、これは自分の力ではない。


 しかし自分の剣先には、魔法使いを動かせるという、権力が宿っている。


「相手の船に近づけますか?」


 バダダムはその言葉で、少し離れた海を漂う小舟のほうを見て、こくこくとうなずく。

 彼が櫂を漕いで相手の船に近づくと、相手の漕ぎ手の獣人が我に返る。


 コールの兄と魔法使いは、突如眼前に現れた世界の崩壊を思わせる光景に、未だに呆然自失のままだ。


「風よ」


 そこに小さく聞こえたのは、コールの声。

 放ったのは小さな風魔法。


 ぽかんとたちつくす案山子たちを倒すには、それで十分だった。


 魔法使いとコールの兄は、あっと声を上げる間もなく、揃って海に落ちた。

 魔石は比重が結構重いので、外套の下に山ほど魔石を詰めていた魔法使いは、冗談みたいな速度で沈んでいく。コールの兄は剣を外していたこともあって、いくらか水面でバタバタする余裕があった。


 相手の船に乗る獣人が、ため息をつくのが見えた。


 それからすぐに海に飛び込み、猛烈な勢いで沈んでいった魔法使いを追いかけていた。

 無事に捕まえたようで、しばらくすると浮上してきた。

 水面に上がってきた魔法使いは上半身裸だったので、水中で服を切り裂かれたのだろう。


 ぐったりした魔法使いを左肩に乗せる獣人は、パニックになっているコールの兄を右腕で抱え、海面からこちらを静かに見ている。


「あなたたちは捕虜になってもらいます」


 漕ぎ手の獣人は、このまま魔法で沈められる、という可能性も考えていたのだろう。

 ややほっとしたようにうなずいていた。


 自分がバダダムに目配せすると、彼は船を近づけ、まずコールの兄を受け取った。


 それからぐったりした魔法使いをひきあげ、きつく後ろ手に縛りあげる。コールは彼の下の服もはぎ取り、縛った手の上にさらにその布をきつく巻き付けていた。

 魔石を隠し持っていたら一発逆転が可能なのが魔法使いなので、この世界では定型の対応なのだろう。


 漕ぎ手の獣人は主人たちの様子を見届けると、自身の小船に向かって泳ぎ、器用に体を引き上げていた。


 船の上で呆然としていたコールの兄は、ここは死後の世界かという顔をしていたが、ほどなく我を取り戻していた。


 貴族の矜持か、それとも意地か。顔が真っ青なのに、気丈にこちらを睨む。


「い、言ったはず……だ……げほっ……わ、私は人質足りえ……ないと」


 それは確かに聞いた。

 だが、彼はこちらの言葉を勘違いしている。


 首を横に振って、言い直す。


「あなたたちというのは、あそこにいる船も全部です」

「……な、に?」


 ずぶ濡れのコールの兄は、船団を見てから、こちらを見た。


「今の魔法はわざと外しましたが、当然、船団は射程圏内です。ちょっとでもかすったらたちまち海の藻屑というのは、わかりますよね?」

「……」


 今、この様子を見ているだろうクルルとゲラリオは、ジレーヌ領の海岸沿いの、おそらく見晴らしのいい崖の上にいるはずだ。

 二人は座布団みたいな大きさの合成魔石を引っ張り出し、二発目を用意しているだろう。


 数日前に岩礁で試したのは、これだった。


 大規模魔法陣でなくとも、単純な魔法陣をばかでかくして魔石に刻んだら、威力はどこまであがるのか知りたかった。


 結論として、単純な魔法陣では威力に限界があるようだったのだが、それでも十分に、あまりに十分にすぎた。


 多分、視界の届く限りの範囲にいる敵を、月の裏側まで吹き飛ばせるのだから。


「お、お前……ら……は……」


 震える顎で、コールの兄がなにか言おうとした矢先。

 急に周囲が暗くなったかと思ったら、妙な音が空から聞こえてきた。


 そして猛烈な土砂降り。


 違う。


 空に吹き上げられた水がようやく落ちてきたのだと気がつく頃には、予想外の現象に自分たちも慌てていた。

 息もできないほどのものすごい水量で、太陽の光が完全に遮られて真っ暗だ。

 というか単純に水の当たる場所が痛い。


「痛い! 痛い! やりすぎだ!」


 あまりに痛くて、クルルたちに八つ当たりの呪詛を叫ぶ。

 船がこのまま沈むんじゃないのかと思った直後、唐突に降水は止まり、ほどなく太陽の光が戻ってきた。


「はあ、はあ……」


 本当に死ぬかと思った。

 もちろん敵の船団にいる者たちは、自分たち以上に動転しただろう。


 船の上にひっくり返っていたコールの兄もまた、目を開けたままピクリとも動かない。

 気絶しているのか? と思ったら、鼻から口から水が流れ込んでいたようで、咳き込み始め、体を横たえるとげえげぇ吐いていた。

 そしてほどなく、ひんひん泣き出してしまう。


 コールを見やると、そんな兄のことを、チベットスナギツネみたいな顔で見ていた。

 もしかしたら積年の恨みをここで、といくらか思っていたのかもしれない。


 コールはこちらの視線に気がつくと、肩をすくめてみせる。

 その様子は、往年のコールをちょっと思わせるものだった。


「というわけで、伝言を頼まれてくれますか?」


 自分が声をかけたのは、ロラン側の獣人だ。


「この人たちはいったんこちらで預かりますが、皆さんは船をそのまま沖合に停泊させていてください。島に近づいたり、逃げようとしたら火神の一撃が再び襲うと伝えてください」


 獣人は諦念に満ちた目でジレーヌのほうを見て、こちらに視線を戻す。


「あと、責任者の方を小舟に乗せて、港に寄こしてください。魔法使いを乗せているとわかったら、その時点で全員を魚の餌にします。ご質問は?」


 獣人は首を横に振る。

 ただ、そこにバダダムが口を挟んだ。


『コノヒトらは、オマエの主人より間違いなくいいヤツだ』


 ややぽかんとしたような敵側の獣人は、バダダムから首元と手首を示される。


 枷を嵌められているにもかかわらず、即座に魔法使いを助けに海に飛び込んだ獣人は、そうするようにと暴力で強制されてきたのだろう。考えるよりも早く、体が動くくらいに。

 人生はそういうものだと受け入れていたのであろう彼は、小さく笑って、船を漕いでいった。


 その様子を見届けてから、濡れた前髪を掻き上げ、見えるかどうかわからなかったが、ジレーヌ領に向けて手を振った。


「自分たちも戻りましょう」


 バダダムはやれやれと肩をすくめ、櫂を手に取ったのだった。

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