第九章
第92話
ジレーヌの港に降り立つと、ほっと安堵感に包まれた。
すっかり体はここをホームと認識しているらしい。
それにロランの港のように、獣人が鎖につながれ、恐ろしい見た目の武器で追い立てられていたりはしない。
ゲラリオはこのジレーヌ領のゆるさを「ままごと」と呼んだが、その雰囲気は貴重で守りぬかねばならないものなのだ。
そして今、このジレーヌ領の安寧を脅かそうとするものがいる。
ロランにいるはずの自分たちが、見慣れぬ船から降りてくることに驚く周囲の視線を無視し、一目散に領主の館へと向かった。
今日も門前でたむろしていたマークスたちでさえ、こちらに気づくとぎょっとする。
こんなに早く帰ってくるとは思っていなかったのだろうし、なにより獣人の肩に担がれたコールのせいだろう。
どやどやと屋敷に入り際、自分はマークスに向けて言った。
「すみません、健吾やドドルさんを呼んでもらえますか」
「お、おう」
毒を盛られ、牢に放り込まれ、魔法使いと戦って囚われの領主を奪還してきた疲れを癒すより先に、やることがある。
港で別れたゲラリオも、すぐにバランたちを連れて屋敷にくることになっていた。
これからのことを頭の中で組み立てながら屋敷に入ろうとしたら、マークスと目が合った。
「お前、顔が変わったな」
「?」
小首を傾げ、顎を触る。
「色々あって髭が剃れてなくて……」
ロランでは優雅に貴族との晩餐だったはずなのに、すっかり不精髭だらけだ。
ただ、マークスはその返答に目をぱちぱちさせてから、なにか苦笑して健吾たちを呼びにいってくれた。
「あら、お髭剃っちゃうの?」
コールを抱えた獣人に部屋の案内をしていたイーリアが、なんだかわざとらしく目を見開いている。
「そっちのほうが渋くていいのに。ねえ?」
イーリアが質問を向けているのは、もちろんクルル。
「暑苦しいのはケンゴだけでいいですよ」
肩をすくめるクルルに、イーリアは意味深に笑っていた。
この目ざとい領主様は、もちろん船の上での自分とクルルの様子に気がついていた。
新しいおもちゃを見つけたぞ、という顔がちょっと怖い。
「ま、とりあえず湯浴みね。髪も尻尾も潮でべたべただわ!」
湯を沸かすのは下々の役目。
自分は腕まくりをして、井戸へと水を汲みにいった。
◇◇◆◆
案外細かいことが好きな健吾は、自分たちの留守中に香草を混ぜた竜の石鹸なんてものをこしらえていた。
イーリアとクルルは華やかな香りに大喜び……かと思いきや、「お腹が空く匂いね」とやや不評だった。クルルなどはしきりに自身の匂いを嗅いでいたので、洗い立ての犬や猫そっくりだ。
「で? 楽しい貴族の晩餐会ってわけじゃなかったみたいだが」
イーリアやクルルと一緒に湯浴み、というわけにもいかず、自分は魔石工房のほうで水浴びをしてから領主の屋敷に戻る。髭も剃っていったら、イーリアがわざとらしく残念そうな顔をしていた。
「まったくひどい目に遭ったわ」
両肩を落としたイーリアは、大きなため息をついてから、クルルが用意した竜の燻製肉にかぶりつく。やたらいい匂いがするのは蜂蜜をかけて焼いてあるからのようで、自分も一本手に取った。
「無事に帰ってきてくれてなによりだけど、上の階で寝てるのってバックス商会の奴だろ?」
ついさっき、コールに従う獣人二人にもこの竜の肉のおすそ分けをする時に、健吾にはざっと事情を説明してある。
ロランでのことに健吾は驚いていたし、同じくらい、獣人たちは竜肉の差し入れに驚いていた。
「私も顛末を話で聞いただけなのよね。彼が味方してくれたんでしょ?」
「ですね。コールさんがいなければ逃げられたかどうか」
魔法使いとの戦いも、経験者のコールの助言がなければ、クルルだけでは無理だったろう。
自分の返事に健吾が不思議そうな顔をしているので、竜の肉をむぐむぐ咀嚼していたイーリアが言った。
「私のこと好きだったんだって」
ぶは、と健吾は吹き出していたが、なるほどねとばかりに肩をすくめる。
一方のクルルは、イーリアを一番愛してるのは自分だとばかりに不服気だ。
「ただ、めでたしめでたし、というには早いのよ」
骨についた肉を意地汚くかりかりと追いかけていたイーリアがこちらを見る。
「ロランと戦になるわよね?」
いつものふわふわとした女の子ではなく、世知辛い世の中ばかりを見てきた少女の顔になる。
けれど決して弱々しくないのは、ノドンを倒し、竜も屠り、好き勝手やろうとしたバックス商会の目論見を粉砕してきたおかげだろう。
「先に手を出したのはあっち、と言いたいところですけど、ロランの大宮殿を半壊させてきましたからね」
健吾がぎょっとする。
「半壊?」
「毒を盛られて、ばらばらに幽閉されて……って色々あったんだけど、最後はイーリアさんが囚われていた塔を目指して、もうとにかく魔法でなにもかもを吹き飛ばしてきたんだよ」
「……」
呆気にとられた様子の健吾は、現実かどうかを確かめるように、肉に噛みついていた。
「先に手を出したのは向こうで、悪いのも普通に考えたら向こうなんだけど、ロランは腐っても州都だから。いわば格下のジレーヌ領にしてやられた、という形にとらえると思う。あっちの権力者たちは、怒り心頭だろうね」
「それにあいつら、本当にろくでなしだったものね」
イーリアが鼻の頭にしわを寄せて、ブルドックみたいな顔をしていた。
「イーリアちゃん、可愛くない顔になってる」
「あら、失礼」
イーリアは澄まし顔をしてからくすくす笑っていたが、クルルが代わりに失礼な健吾の頭を叩いていた。
「ただ……ロランって結局どんな感じの町だったんだ? 宮殿ってことは、都市だったのか? そこが攻めてくるってことか?」
「帝国の属州っていうから、自分もどんな田舎かと思ってたんだけど、どうも単に帝国に組み込まれるのが遅かった、みたいな意味らしい。州都ロランは、歴史ある立派な都市だったよ。名誉とかにうるさいこの世界だから、都市の沽券を賭けて全力でくると思う」
「それで早急に手を打つ必要があるってわけ」
二本目の竜肉に手を伸ばしながら、イーリアが気楽な感じで言う。
元々飄々としたところのあるイーリアだったが、毒を盛られて幽閉されたことで、ますます肝が据わったようだ。
「まあ、ロランがここの魔石鉱山を狙って、いつか仕掛けてくるだろうなとは考えてたが……」
「今や魔法使いが四人もいるもの。絶対勝てるわよ」
「四人?」
怪訝そうな健吾に、コールのことを伝えると驚いていた。
「ついでに、合成魔石のことをゲラリオさんとコールさんに教えてある。だから戦になっても隠しごとせず、全力を出せるよ」
「……」
健吾は脂身の少ない竜の肉を手にしたまま、視線を天井に向け、ゆっくりと戻す。
「なら勝てないにしても、負けないか?」
「向こうは船でくるしかないからね。守るこちらのほうが、ある程度は有利だと思う」
「夜闇に紛れての上陸だけ、怖いって感じか」
「あとは、しばらくは港の人の出入りも警戒しないとならないかも」
「あ~、そうだな。それも考えないとな」
魔法使いは魔石ひとつあれば強大な戦力になる。
「その辺は外部の人間との交流を、海の上に限定するとかで対処できるかも。かなり大きな魔石を使わないと、海の上から届くような魔法は撃てないと思うし」
ロランの宮殿で遭遇した魔法バトルはまさに魔法バトルだったが、この世界の常識的な大きさの魔石を用いた魔法であれば、見渡す限り更地になるようなことはなかった。
だから暗殺者がこの屋敷ごと領主イーリアを吹き飛ばそうと思ったら、隠し持つには難しい大きさの魔石が必要だろう。
ただ、接近されたらその限りにない。
身の安全を守るため、マークスだけでなくドドルたちにも、屋敷周辺やイーリアの警護を頼んだほうがいいかもしれない。
「戦となると、物資の確保と、島の人たちの統制も必要か……ああ、そうだ。戦になるかもってことは島民に伝えるのか?」
健吾の問いに、領主たるイーリアは奇麗になった竜の骨を置いて、背筋を伸ばす。
「私は正直に言いたい。いざ戦になったら、逃げ場のない島だもの。もし先に逃げたい人がいたら、逃げてもらいたいかなって思う」
領民の自由を尊重しすぎるのは、人としては正しくても、為政者として甘すぎると、ゲラリオなら言うかもしれない。
けれどそれは、運命に翻弄され続けてきたイーリアの譲れないところなのだろうと感じた。
自分で自分の人生を選べない苦しさを、この少女は誰よりも知っているのだから。
「まあそれがいいか。勝った後にのこのこ島に戻ってきた奴らからは、きっちり税金を搾り取れるだろうし」
健吾の言葉に自分は驚き、ようやく、ちょっと意地悪そうに微笑むイーリアに気がついた。
「ノドンの時代を引きずる、敵対的な人たちの性根を確かめるいい機会になるはずよ」
戦になったらずらかるような不忠な奴らに用はない、ということだ。
ただ、自分が戸惑ったのは、イーリアがすでに勝利を確信しているように見えたから。
ロランは間違いなく本気で潰しにやってくるし、港には大きな船がたくさんあり、島を攻めるための戦力は十分揃っている。彼らを撃退するのはそう簡単なことではないはずだ。
そしてもしも彼らに負けたのなら、自分たちは……。
そう思ってから、自分はようやく理解した。
戦に勝てなければ、どうせすべてが終わる。
だからイーリアは、勝つことを前提に、勝った後のことだけを考えている。負けた時のことなど考えても、なんの役にも立たないから。
クルルよりよほどふわふわした見た目なのに、イーリアのまっすぐ伸びた背中には、一本の芯ができようとしている。
筋金、というやつだ。
「んふふ。戦の話を聞いてここを見捨てたがめつい商人たちが、へこへこしながら島に戻ってくるところを想像したら、いくらでもお酒が飲めちゃいそう」
それから一抹の、意地の悪さ。
ノドン時代の鬱憤をまだ晴らしたりないようで、クルルのほうがちょっと呆れていたのだった。
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