第91話

「ロランの追手がきたら……僕を、出せ。向こうも手荒なことは……」


 船が港を発ってから、ろくに起き上がれもしないコールは、何度もうわごとのようにそんなことを言っていた。


 イーリアがいるのでいいところを見せたかったのかもしれないが、ロランの港からは略奪を恐れたたくさんの商船が一斉に出港していて、追手たちもどれがどの船だか見分けるのはまず不可能なはずだ。

 沖合に出てからも特に追いかけてくる船はなく、巨大なトンボの羽のように漕がれていた櫂は、いくらかペースがゆっくりになっていた。


 さすがにもう追手の危険はないだろうというところで、見かねた従者の獣人が、主人に強めの酒を軽く飲ませて気絶させていた。


 そんなコールを側で見下ろしているのは、ほかならぬイーリアだ。


「どう評価したらいいのかわからないんだけど」


 クルルやゲラリオからコールについての説明を受けたイーリアは、疲れたような顔でコールの顔を見下ろしている。


 ぼこぼこに殴られて腫れ上がり、とてもジレーヌ領で見せていた厭味ったらしい貴族の面影はない。

 けれどそこにあるのは、死力を尽くして戦った男の顔だ。


 コールを見下ろすイーリアの顔は、ゆっくり呆れた笑みに変わっていく。


「好きな子に意地悪しちゃう気持ちは、まあ、わからないでもないからね」


 イーリアはそう言ってから、獣人に代わってコールの介抱を買って出ていた。


 コールに付き従う獣人たちは、主人の恋心をもちろん知っている。

 微妙そうな顔をしているのは、意中の相手に傷の手当てをしてもらい、膝枕までされているというのに、肝心の本人を気絶させてしまったからだろう。


 せめていい夢を見てくれとばかりに肩をすくめてから、彼らは甲板の下に降りて、櫂を漕ぐ船員たちの手伝いに向かっていた。


「イーリア様、そんなやつの包帯、適当でいいんですよ」


 丁寧に、やんちゃだけれど可愛い弟にでもそうするかのようにコールの傷の手当てをするイーリアに、クルルが焼きもちでも焼いたのか、そんなことを言っている。

 その平和な様子に、自分はようやく緊張が解けたような気がした。


 外の空気が吸いたくなって、イーリアに割り当てられた貴賓室から甲板に出る。

 明るい日差しが、目に痛い。


 ようやくそれも収まる頃、甲板の隅で装備品の確認や手入れをしているゲラリオが見えた。


「げえー! “死神の口”じゃねえか!」


 叫ぶゲラリオが手にしているのは、コールが使っていた魔石を装填するための革帯だ。


「死神の口って?」


 そんなゲラリオの側によって、声をかける。

 手にしているのは、あの消滅魔法の魔石だった。


「ああ? これの別名、いや悪名だ。防御としては最高だが、仲間の魔法使いがいるところでこんなの使っててみろ。いつか必ず仲間の魔法を最悪の頃合いで吸い込んで、全滅だ」


 だから死神の口。

 コールも似たような状況について警告していたのを思い出す。


「戦場でこんなの持ってるのが知れたら、部隊の連中から袋叩きにあうぞ」


 ゲラリオは汚いものでも持つかのように、人差し指と親指でつまんで持ち上げていた。


「それに命を救われたので、ちょっと悲しいですけど」

「そうかい。博打に勝つ唯一の方法はな、勝ったところで勝負をやめることだな」


 長く戦いの場で生きてきた男がそう言うのだから、そうなのだろう。


「ただ、それもこの先、変わるかもしれんのだよな」


 ゲラリオは言って、コールが敵魔法使いとの戦いの最後に握り続けていた、あのダブルチーズバーガーのパテ部分を手に取る。


「この炎の魔石を死神の口にくっつけて、超二級の魔石にしたんだろ? 魔法陣部分にあの粘土を詰めたら、ただの魔石になるんだな」


 魔法陣に詰め込まれた合成魔石の粘土を指で掻きだして、軽く魔法を起動させている。

 それからもう一度粘土を詰めてみると、魔法は起動しない。


「この話、隠していてすみませんでした」


 自分が言うと、ゲラリオは片眉を吊り上げてから、へっと笑った。


「こんな事ぺらぺら話すような奴だったら、逆におっかなくて近くにいれねえよ」


 この合成魔石の存在が示す意味を、ゲラリオはすぐに見抜いていた。


「正直、聞いた時は勃ちそうだった」

「ええ?」


 全裸で牢屋に放り込まれていたゲラリオの姿を思い出し、ちょっと引いてしまう。


「だってそうだろうが。この世に存在するあらゆる伝説の魔法陣を、片っ端から試せるってことだろ?」


 ゴーゴンの小屋でクルルと一緒に話をした時、伝説の魔法陣についての話もした。

 魔法を覚えたての魔法使い、あるいは戦場で仲間を失った魔法使いが、必ず夢見る魔法というものがあるという。


「ゲラリオさんとしては、伝説の魔法陣はインチキだと思ってるんですよね?」


 その問いに、ゲラリオは首をすくめていた。


「意地悪言うなよ。誰も実際に試せないから、どうにかこうにか計算した結果、起動しないっていうのが定説だっただけだ。けど、試してみればすぐにわかる」


 ゲラリオはじっと手の中の魔石を見てから、こちらを見た。


「止めるか?」


 そこに、止められると思っているならな、という脅しがまったく含まれてないと思うには、ゲラリオの見た目は野蛮すぎる。


 ただ、技術を手にした人間は有史以来、それがどれほどやばいものであろうとも、一度もその技術の封印に成功しなかったことを自分は知っている。

 この合成魔石の知識も、すでにこの世の誰かが知っている可能性は十分にあるし、明日にでも誰かが気がつく可能性がある。


 そして決定的な技術の活用法は、常にもっとも強い者が決めてきた。


「逆です」


 自分の言葉に、ゲラリオが目を細める。


「どんな手を使ってでも、世界で最も魔法のことを理解すべきです」


 この世は無慈悲で、力の論理に誰も敵わない。

 積極的にこの事実を広めるつもりはないが、自分たちが研究を進めれば進めるほど、戦いでは有利になる。


 自分たちの身を守るため、圧倒的に有利な地位を確保すべきだ。


「ま、ノドンを倒しただけはあるってもんだ」


 にやりと笑ったゲラリオは、こちらの頭を子供みたいに撫でてくる。


「もっとも、目下のところはロランとのいざこざを鎮めることで手いっぱいになりそうだがな」


 話が急に現実的になり、自分は体まで重くなったように感じた。

 ゲラリオがふと視線を船尾に向けると、そこにはイーリアたちのいる貴賓室がある。


「戦……になりますかね」

「さあてね。戦になったとしても、有利か不利かで言えば、こっちが有利だ。魔法使いが四人いて、魔石は無尽蔵だからな」


 クルル、ゲラリオ、バラン、それにコールも数に入っている。


「コールさんですけど、その、味方に数えても大丈夫ですか?」


 共に戦いはしたが、それはイーリアに良いところを見せたいがため、という理由が少なくなかったはず。

 ジレーヌ領で目を覚まし、もしもイーリアに求婚して、振られでもすれば……。


「獣人ってのは嘘を嗅ぎ分ける。汗の匂いでわかるんだと」


 急になんの話だ、と思ったら、ゲラリオは海の向こう、もうかなり小さくなっているロランの遠景を見ながら言った。


「あいつに従う獣人二人は、あいつのために命を張って宮殿襲撃に参加していた」


 獣人とパーティーを組む冒険者のゲラリオは、そのことの意味をよく知っている。

 コールは仲間の獣人たちに嘘をつかず、あの良き関係を気付いているのだ。


「根っこはお人好しのお坊ちゃんだろ。それにイーリアちゃんに振られたにしたって、ロランでの獣人奴隷貿易を根絶させるため、とかいう理由で、十分共闘はできるはずだ」


 確かに、コールとしてもいまさらロランに帰りにくいだろうし、諦めが良い性格だとも思えない。一度振られたくらいでは、島から出ていかないかもしれない。

 そうなると、戦力としては非常に貴重な存在となってくれるだろう。


 なにせ魔法使いというだけもすごいのに、大商会で働いていたのだから。文字の読み書きはもちろん、商いの知恵も知識も相当なもののはず。

 なにより貴族としての立場から、外交方面にも強いことが期待できた。

 ジレーヌ領の海の向こうのことは、自分もイーリアたちもほとんど知らない。そこを補完してくれたら百人力だ。


 というか、イーリアの外交を補佐する役目を与えたら、それこそ死ぬ気で働いてくれるのではないか、などと悪い考えが脳裏をよぎっていたら、ゲラリオが言った。


「まあ、あのお坊ちゃんが振られて意気消沈しているところに、お前とクルルがあんまりいちゃいちゃしてたら、怒り出すかもしれんが」


 ゲラリオを見ると、にんまりとした笑顔を返される。

 あの百日紅の館で、クルルが泣いて抱き着く様を見ていた時の、訳知り顔の叔父のような顔だ。


「その前に自分も怒りますよ」


 ゲラリオは首をすくめ、鼻を鳴らす。


「はん。お前な、俺の可愛い弟子を泣かせてみろよ。この師匠が飛んで駆けつけるからな」


 クルルから下品と言われて本気で傷ついていたり、ゲラリオはすっかり娘を持つ父親みたいになっている。


 ただ、「泣かせたら」であって、「手を出したら」と言われなかったことに遅まきながら気がついた。


 自分は百日紅の館でのことを思い返し、急にそわそわする。

 ゲラリオからの野卑なからかいにはいらついても、こんなこと、ゲラリオにしか聞くことはできない。


「あの、クルルさんって、自分のこと――」

「あ?」


 強く風が吹いて、ゲラリオは髪の毛が目に入ったのか顔をしかめていた。


「悪い、なんだ?」


 そう聞き返されても、もう改めて聞くことなんてできない。

 それに、当のクルルが貴賓室から出てくるところだった。


 甲板の下からも人や獣人がどやどやあがってきて、帆を広げ始めた。

 ここからは櫂ではなく、風を利用するのだろう。


「お、帆に切り替えてのんびり風任せか。しかもあいつら、酒を持ってんじゃねえか」


 ロランに向かう時の船酔いをすっかり忘れたのか、ゲラリオはいそいそと獣人たちのほうに歩いていった。

 残された自分は軽くため息をついて、海風に飛んでいった質問を口の中で転がした。


 クルルは自分のことを、どう思っているのだろう?


 百日紅の館では、自分の顔を見た瞬間に飛びついてきて、無事だったことにあんなに泣いてくれた。というか、入れ墨を入れてくれなんて言われたし、酔った挙句のことではあるが、同衾までした。

 嫌われていない、というのはもちろん分かる。


 でも、そこにあるのは本当は、どんな感情なのだろうか。

 イーリアが言ったように、おにーちゃんへのそれなのか。それとも。


 柄にもなく自分がそんなことを考えているのは、この無慈悲な世界、いつなにがあってすべてを失うかわからないからだった。後悔してからでは遅いのだと、嫌というほどに知ったから。

 けれどジレーヌ領は狭い土地で、これからはロランとの騒ぎの後始末をつけ、場合によっては戦にだってなりうる。


 へたなことを言って関係がぎくしゃくしたらと思うと、慎重になって然るべき。


 いや、そもそもこんな言い訳ばかりの思考だったから、前世では灰色の毎日だったのか? などと煩悶していたところ、ふっと体に影がかかった。


 顔を上げると、そのクルルがいた。


「ん」


 両手に木のジョッキを持っていたクルルは、なぜか不機嫌そうな顔で、左手に持っていたものをこちらに突き出してくる。


 おずおずと受け取れば、クルルは自分の分を一口飲んで、どすんとこちらの隣に腰を下ろす。


「……」

「……」


 クルルはなにも言わないし、こちらも直前までクルルのことを考えていたせいで、どうにも口が開けない。

 逃げるように酒に口をつけていたら、どんと肩を叩かれた。


 いや、正確には、クルルがこちらの肩に頭を押し付けていた。


「無事で、良かった」

「……」


 顔を上げないクルルは、両手でジョッキを掴んでいる。

 耳も伏せられ、尻尾は立てた膝の下。


 イーリア奪還に燃えて目をギラギラさせていたクルルは、そこにはいない。


「自分も、です」


 そう答えてから、ためらって、考えなおし、もう一度ためらってから、結局意を決してクルルの肩に手を回した。

 クルルはなにかくぐもった声で喉を鳴らし、頭を肩に強く押し付けてくる。


 遠くでこちらに気がついたゲラリオがにやにやし、ほどなく貴賓室から出てきたイーリアもこちらを見て、あらあらみたいに口を手に当てている。


 クルルの尻尾が緩急つけて、右に左にと神経質な感じに揺れているのは、猫が不機嫌な時に見せる尻尾の動きそっくりだ。多分みんなの視線に気がついているのだろう。

 けれど顔を上げないし、こちらも腕を肩から離さなかった


 なにを言っても場違いになりそうだし、この時間を壊してしまいそうで、じっとしていた。


 船は海原を進み、海鳥もいつの間にか姿を消した。

 波はゆりかごのように、穏やかに船を揺らしてくれる。

 頭上では、文字どおりの順風満帆だ。

 昼前までは牢にぶち込まれ、つい先ほどまで命の奪い合いをしていたというのがとても信じられない。


 自分たちは、最悪の結末に至っていてもまったくおかしくなかった。


 そう思った瞬間に、ふと、言葉が自然に出ていた。


「ジレーヌ領についたら、ご飯作ってくださいよ」


 百日紅の館で交わした約束だ。

 クルルは猫の耳をひくひく動かし、少し笑っているようだった。


「当たり前だろ、約束だからな」


 顔を上げたクルルは、こちらを見てこう言った。


「なにが食べたい?」


 綺麗な緑色の目を柔らかく細め、はにかむように笑っている。

 自分は明らかに心打たれ、心臓が高鳴っていく。


 ここだ、今、ここなのだ!


「あ、の」


 ノドンを倒そうと決意した時よりも、竜を前にした時よりも、剣を構えて百日紅の館の中に飛び込んだ時よりも緊張した。

 そして――。


「おい! いちゃいちゃしてる二人、飯だぞ!」


 ゲラリオの野太い声が飛び、自分は情けないほど体をすくませてしまう。

 クルルもゲラリオのほうを見ていたが、やれやれと立ち上がり、こちらを見下ろし、手を差し出してくる。


 せっかくの機会を逸してしまった……と思ったが、一線を越えなかった安心感みたいなものにほっとしているあたり、自分は本当に駄目だと自覚する。


 クルルの手を取り、立ち上がる。

 ゲラリオは船員を手伝って、大きな鍋からスープを配っている。

 この手の大きな船に乗って驚いたのだが、遠洋航海用の船には小さな竈が積まれているのだ。

 火気厳禁じゃないんだ、と思うが、温かいものが食べられるのは実にありがたい。


 本当ならクルルの料理が食べたかったが、と思いながらも、空腹を思い出して人だかりに向かっていたところ、そのクルルに袖を引かれた。


 そしてクルルはこちらに身を寄せ、背伸びをして囁いてきた。


「厨房なら邪魔は入らないからな」


 え? と聞き返す間もなく、クルルはぱっと離れて小走りに駆けていった。

 その先ではイーリアが、結局また目を覚ましたのか獣人の手を借りて貴賓室から出てきたコールの世話を焼こうとしている。

 クルルはそんなイーリアの手を取って、二人を引きはがしていた。


 賑やかな甲板の様子を呆然と見ている自分の耳には、クルルの声がまだ残っている。

 そして甲板で一人、乙女みたいに顔を真っ赤にしていた。


 このままジレーヌ領に無事につけたとしても、問題は山積みだ。ロランとのことはどう転ぶかわからないし、伝説の魔法陣についてもいよいよ正面から向き合うことになる。

 自分が作ろうと想像していたどんなゲームよりも、壮大な現実が待ち構えているだろう。


 けれどそんななにもかもが、いっぺんに吹き飛んでいた。


 食事の配布に集まる人だかりの中から、イーリアの腕をしっかり掴んでいるクルルがちらりとこちらを見る。

 早く来い、と言っているような気がした。

 イーリアもこちらを見て、なんだか意地悪そうに笑って手招きしている。

 そんな彼女たちとこちらを見比べていたゲラリオは、呆れたように肩をすくめている。


 空に雲は少なく、穏やかな海。


 色々あったし、これからも間違いなく色々ある。

 けれど今この瞬間くらい、世界の明るさに期待しても許されると思ったのだった。

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