第70話
結論から言えば、なんかこう、艶っぽく痛がるクルルに対しどぎまぎするみたいな、ありがちお色気展開など一ミリもなかった。
まず、クルルが本気で痛がっていて、それを我慢する様が色っぽさとは程遠かったというのがある。
というか何度か割りと強く蹴られた。
そのうえクルルも意地っ張りだから、あれだけ煽ったのに途中でやめるなんて言い出せなかったのだろうし、こちらから中止を提案したら怒り狂うだろうことが想像できた。
またこちらとしても、一生クルルの体に残ることをしているわけで、真剣度が違う。
おかげでなんだか異様な雰囲気となり、好奇心で作業を見守っていたイーリアは早々に席を外していた。
作業が進むたびに赤みを増していく痛々しいクルルの背中に、最後の針を打ち終わった時、マラソンを走り終えたような脱力感があった。
詰めていた息を吐いて、針を置く。
彫った跡の確認のため、綺麗な布で拭うと、やはり一部からは血が出てしまっていた。
針を握る手に相当力が入っていたようで、握力がほとんどない。
当然、クルルの柔肌の感覚なんて全然なかった。むしろ肘を置くときに骨がごつごつしていて、柔らかくて暖かそうという乙女の身体に対する幻想がいくらか醒めた気がした。
「……終わったの?」
隣の部屋にいたのか、イーリアが顔を覗かせてきた。
「一応は……」
喉がからからに乾いていて、一瞬、針を洗っていた水を飲もうかとさえ思う。
なにか飲み物を、と言うと、領主様はこくこくとうなずき、ぱっと取りに行ってくれた。
「終わりましたよ」
微動だにしないクルルにそう声をかけると、逆立てすぎて一部が戻らなくなっているぼさぼさの尻尾が、力なくちょっとだけ動く。
「……ん、な」
「え?」
顔を伏せっているクルルのくぐもった声に聞き返すと、クルルが肩越しにこちらを見た。
怒ったような、泣いているような目だ。
「こんな、痛いなんて……」
涙目の半裸の女の子からそう言われたら、もう少しドキドキするかもと思ったが、やり終えたという達成感と、だから言ったのにという感想しかない。
「あと、まだしばらくはつらいみたいですけど」
「えっ」
「すごい痒くなるらしいです」
当然この世界に痛み止めの類は……あるのかもしれないが、多分原始的な麻薬の類だろう。
ゲラリオからたばこを分けてもらったほうがいいだろうかと思うが、ゲラリオと並んで煙を吹かすクルルは、それこそヤンキーそのままだ。似合うかもしれないが、イーリアが泣きそうなのでやめて欲しい。
「……」
クルルは突っ伏してしまう。
そこにイーリアが飲み物を持ってきてくれて、クルルの様子にきょとんとしていたのだった。
◇◇◇◆◆◆
痒さを紛らわせるため、クルルはしばらく料理に没頭していた。
力の限りに鍋を振るっている間は、痒みを忘れられるらしい。
恐ろしく不機嫌な顔で鍋を振るった炒め物中心の料理は、皆に好評だった。
そんなある日のことだ。港で働く商会の人間から、その一報がもたらされた。
バックス商会の紋章を染め抜いた旗を掲げた船団がやってきたと。
船、ではなく、船団、という単語に緊張が走る。
ゲラリオを呼び、さらに鉱山に向けてドドルたちを呼んでくるようにと使いを走らせ、だいぶ痒みも引いてきたらしいクルルが、ドラステルに変装するのも待たず、港に走った。
ジレーヌ領を占領しにきたのなら、迎え撃つ必要がある。
息せき切って到着すると、沖合に四隻ほど船が停泊していた。
「武装してますか?」
桟橋から目を細めていた商会の獣人に声をかけると、これは竜殺しのヨリノブ殿、とあいさつされてから教えてくれた。
『兵の姿は確かに見えますが……向こうもこちらを観察してますな。ワレらの仲間が舳先にいます』
そこにゲラリオが到着した。
「はあ、はあ……なんだよ、戦いが始まったって聞いて飛んできたのに」
完全武装のゲラリオはそう言って、ゲラリオを呼びにいっていた小僧を振り向き、その頭をぐしゃぐしゃかき混ぜていた。
「あんなところに停泊してるなら、様子見だろ。あるいは陽動かもしれんが」
その可能性は考えていなかった。
攻め入るつもりならば、全員が正面玄関からのんきにくるはずがない。
「そっちにはバランが獣人らと走ってる。お前ら、経験が足りてねえなあ」
面目ない。
「まったく、引退のための年金だったのに、きっちり働かされてるじゃねえか」
ゲラリオはぶつぶつ言いつつ、彼にとってもこの領地の安寧は大事なのだ。
特にこの間の、ノドンたちのせいでひどい目に遭っていた女の子たちの救済と、ドドルたちが畜産を行って食糧事情を改善する話は、どちらもゲラリオの琴線に触れたらしい。
「まあ多分、あの時たまたま沖合に出てた船が、州都に向かってなにかあったと報告したんだろう。そうしたら向こうさんが考えるのは、まず真っ先に反乱だ。権力者が入れ替わった直後だしな」
なるほど、とうなずく。
それにようやくドラステルに扮したクルルが馬に乗ってやってきたことで、さっきのゲラリオの言葉も意味がつながった。
あそこに船を浮かべていたら、いい魔法の的。
つまり向こうもあまり危険性はなさそうだと判断して、姿を見せたわけだ。
「おい、獣の兄ちゃん、お前ら特有の敵意無しの挨拶あったろう」
ゲラリオが獣人に言うと、獣人はやや驚いたような顔をしてから、両手を掲げてなにか信号を送るように振っていた。
『なるほど、ワレらの文化に詳しいのは、その匂いがツァツァル師のものだからか』
「え、ツァツァルの匂いするか? まじかよ」
ゲラリオは嫌そうな顔をして、服をバサバサ払っていた。
ツァツァルはどうやら、獣人社会の中で師と呼ばれるような立ち位置らしい。
「ヨリノブ、魔法はいるか?」
そこにクルルが話しかけてくる。目がらんらんと輝いているのは、魔法を使いたくて仕方がないからだろう。
入れ墨の痒みが落ち着いてから、クルルはゲラリオに魔法の使い方を改めて習っていた。
その成果を試したくて仕方ないらしい。
入れ墨を入れた後だと、クルル曰く、世界を操れる感覚なのだそうだ。
「今のところ、必要なさそうです。あ、船が」
視線の先で、大型の船から小さな船が下ろされていた。
そこには兵たちと共に、身なりの良さそうな人間も乗っていた。
これなら今すぐ荒事になるようなことはあるまいと、ほっとする。
「さあて、竜の話にどんな反応を示すかね」
ゲラリオの言葉に、たちまち緊張が戻ってくる。
俗説では竜の出現は、魔石鉱山の肥沃さを示すという。しかも二匹だ。
この弱小領地におそろしいほどの鉱脈があるかもなんて話は、連中の突っ張った欲の皮を太鼓みたいにどんどこ刺激するだろう。
「人質に取ったらどうだ?」
争いごとになって欲しくて仕方ない、みたいにクルルが言う。
「その価値のある人間が、あの船に乗ってればな」
ゲラリオの冷静な台詞に、クルルは口をつぐむ。魔法の使い方を習っているせいか、ゲラリオの前では結構おとなしい。
港に集まった人々の視線を大いに集める中、小舟に乗っていた身なりの良い人物は二人。
一人は見知った顔のコール。
もう一人は、知らない顔だった。
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