第六章

第58話

 目を覚ますと、見慣れない天井があった。


 どこかで聞いたようなフレーズだが、だんだん目の焦点があってくると、単にいつも寝ている部屋とは違うというだけのことで、ノドンの屋敷だとわかった。

 しかしなぜ一階の大広間で……と思ったのも束の間、自分のあくびの酒臭さで思い出す。


 昨晩はずいぶん大騒ぎしたのだった。


 逃げ場のない島で竜が出て、島中が一時恐慌状態に陥った。おかげで竜討伐の後はそれこそお祭り騒ぎになったのだ。

 町の人たちは通りに繰り出して飲み明かし、踊り狂い、自分たちもまた、工房の職人や商会の人たちを集め、旧ノドンの屋敷で酒宴となった。そこに竜の解体から戻ってきたゲラリオたちが、屠りたての竜の肉を持ち込んだのだから、なおのこと盛り上がった。


 なにせ竜というのは、金の彫像が歩いていると言っていいくらい、その身体のあらゆるパーツが高価らしい。だから竜の肉など庶民では一生口にできないような代物なのだ。

 しかも竜の身体はあらゆる部位が精力剤になるらしいのだから、酒の席では火に油を注ぐようなもの。


 とはいえ聞くところによれば、こういう世界で精力剤というのは、ほとんどが単に栄養満点という程度の意味らしい。


 実際、この世界の肉といえば町のごみを漁っているだけの痩せた鶏や豚、それに独特の臭いがある山羊や野生動物などで、柔らかくて脂ののった肉というのは、それだけでもあり得ないご馳走の部類になる。

 しかも鉱山に出たのは幼竜だから、唇で噛み切れるくらいに肉が柔らかかった。


 中庭に作られた即席の竈で大きな火が炊かれ、串刺しにされた大きな肉塊がでんと置かれる。

 じうじう焼ける竜の肉からはぼたぼた脂が滴り落ち、そのたびにみんなが生唾を飲み込んでいた。


 ほどなく肉が焼きあがると、竜討伐の最高栄誉者ということで、ゲラリオが最もうまい脇腹の肉を進呈された。

 漫画肉みたいなそれにかぶりつくや、たちまち歓声と拍手が起こる。原野の王のようにゲラリオが肉を高く掲げたのが、宴会開始の合図となった。


 飲めや歌えの騒ぎの中、あばら骨がついて最もうまいとされる肉の残りを進呈されたのは、まず領主であるイーリア。それから、危険を冒して竜をおびき出したバランやドドル。

 ついでに、神の奇跡を担ったということにして、生臭坊主の司祭の機嫌も取っておいた。教会に肉を届けたら、こちらが引くくらいものすごく喜んでいた。竜討伐のために足りない魔石を大至急で作ってくれた魔石加工の親方たちにも、組合を通じて届けておく。


 そして最後の塊が、クルルに送られた。


 クルルは育ち盛りの女の子にしたって豪快に肉に噛みつくと、たちまち目を輝かせて、二口目、三口目とがっついて、イーリアを笑わせていた。

 脂でべたべたになった口の周りを手首で拭うと、クルルは骨付きの巨大な肉を裏返し、こちらに押し付けるように差し出してきた。


「お前がいなかったら死んでいた」


 予想外の二匹目が出てきた時、打ち合わせ通りの動きはなにひとつできなかった。クルルが最初に放った魔法は暴発気味で、凄まじい反動に対処するので精いっぱいだった。そこに翼竜からの不意打ちを受け、二人揃って昏倒した。


 竜が餌を見るようにこちらを見下ろす中、共に倒れたクルルは自分の体の上で動かない。けれどそんな状況でも、クルルが戦意を喪失しているはずはないと信じることができた。

 だから自分は隠し持っていた合成魔石を、意識があるのかどうかも定かではないクルルに渡し、そして――。


「クルルさんの強さのおかげですよ」


 クルルから肉を受け取り、噛みついた。

 じゅわりと口の中に脂が広がり、今までに食べたことのあるどんな肉よりも濃い味がした。


 なるほどこれはすぐに飲み込んで次にいきたいと思わせる。

 遠慮なく二口目にいこうとしたら、クルルの目に気がついた。


 悲しそうな、不安そうな、そんな目だ。


 自分は口を開けたまま、手元の肉を見て、気まずく口を閉じかける。

 そこにイーリアが、呆れたように笑いながら言った。


「クルル、私はこんなに食べられないわ」


 クルルはたちまち顔を輝かせ、仕方ありませんねとかなんとか言いながら、イーリアと一緒に肉にかぶりついていた。

 そんなふうに笑いと歓声の上がる、いつまでも続く、賑やかな酒宴――。


「……」


 その宴会の様子を思い出しながら、あの後どうなったんだったかというと、記憶が怪しくなる。脂たっぷりのうまい肉となれば、当然、それを流し込む酒が出てくるせいだ。

 健吾やゲラリオたち脳筋チームは言うに及ばず、前の世界なら未成年にしか見えないクルルとイーリアも、普通に飲める口なのだ。


 それから、クルルはだいぶ絡み酒の感があるので、ずいぶん自分も飲まされて……。


「う~ん……」


 全然思い出せないが、なんだか妙に肩が寒くて、ようやく気がついた。


 服を着ていない。


 しかもなんか体中がものすごくじゃりじゃりすると思ったら、二の腕にびっしり黒い模様があった。

 フラッシュバックのように記憶の断片が蘇る。


 そうだ。

 宴会が大盛り上がりして、酒の弱い順に酔いつぶれていく頃のこと。


 クルルが入れ墨の件を持ち出して、魔法の反動がすごかったのは、ヨリノブが魔法の通り道となる入れ墨を入れなかったせいだと、ろれつの回らない声で絡んできた。

 それでどんな入れ墨を入れるかという話になって、自分も上半身を裸にされて試し書きされて、それから……。


 炭と混ぜた魔石の粉だらけの自分の体を触っていたら、誰かにぶつかった。


「……んんっ」

「あ、すいません」


 同じ毛布の下で寝ていた裸の女の子に反射的に謝ってから、数拍。


 ざあっと体中の毛穴から冷たい汗が出た。


 裸の女の子?

 誰、誰、誰?


 たちまち気がつく他人の体温に動転する。

 が、華奢で尖り気味の肩が動くと、自分と同じように炭だらけの細い腕が毛布を探していた。

 特徴的な銀髪と三角の獣の耳にも気がついて、ようやくクルルだと理解した。


「へっくし」


 裸のクルルは毛布をかき寄せる前にくしゃみをして、三角の耳をぱたぱたさせると、おもむろにこちらを振り向いた。

 目を逸らす間もなく、眠そうなクルルの目とばっちり視線が合ってしまう。


 どんな顔をして、なんと言うべきか。

 酒の過ち。若気の至り。


 固まって動けないでいると、クルルが目を閉じて、大きく口を開ける。


 悲鳴!


 いや自分は無実ですというのと、本当に無実かわからないという心許なさがぶつかって、言葉が出ない。


 けれどそんなこちらのことはお構いなしに、クルルは呑気にあくびをしていた。

 鋭い牙を存分に朝日で輝かせ、大きく両腕を掲げて伸びをしている。毛布の下側からは、ぴーんと伸びた裸足の足が覗いていた。

 実家の猫も寝起きはこんなふうだったなあとか場違いなことを思ってしまうが、目に涙をにじませたクルルは、こちらをじろりと見るや、へっと笑った。


「なんだお前……炭だらけじゃないか」


 クルルがまったく動じていないことに、なぜか悔しくなって、こう返す。


「クルルさんもすごいですけど」

「ん」


 クルルは自身の頬を撫でて、じゃりじゃりした感覚に顔をしかめていた。それから毛布をおもむろにめくり、体を確認する。


「っ⁉」


 あまりに唐突のことで、視界に入ってしまった。

 大慌てで目を逸らしたものの、恐るべき記憶力で脳裏に焼き付いている。


 それはつまり、小ぶりだとはわかっていたが、形は悪くないではないか、とかとか。


「ずいぶん描いたなあ。手も真っ黒だ」


 クルルはそんなことを言って、呑気に笑っている。

 自分はこの隙に、と毛布から出て長椅子から降りようとすれば、下は履いていたことにややほっとする。


「はは、ヨリノブ、背中もすごいぞ」


 クルルに言われるが、自分では見られない。

 それでも振り向くと、ろくに前を隠していないクルルが視界に入り、慌てて顔を逸らす。


「ちょっと、隠して、隠してくださいよ」


 あまりにあっけらかんとした様子に、逆に腹が立ってそう言った。

 するとクルルはきょとんとした後、楽しそうに笑いだす。


「ケンゴの奴とまったく同じこと言うんだな」

「ん、え?」

「まだ寒い季節、ケンゴの奴が屋敷にきた時の騒ぎと言ったらなかった。イーリア様と大笑いしたものだ」


 乱れた髪をいったん解き、手早く編み直しているクルルは、服を見つけて羽織りながら続きを話す。


「お前らの世界じゃ、裸で寝て人肌で暖をとる習慣がないんだってな? 私とイーリア様が一緒に寝ているのを見つけて、笑えるくらい動揺していたものだ」


 あまりに楽しそうに話しているので振り向くと、寝起きの雑な感じがまた艶めかしくはあったが、ひとまず隠すところは隠してくれていた。

 あと、クルルもちゃんと下は履いているようで、酒の勢いで一線は越えなかったらしい。


 多分。


「あ~……そういう話は前の世界にもありましたけど、古い歴史的な習慣ですね……」


 羽毛布団などとても望めない古い時代。緯度の高い国だと、防寒性の低い粗雑な毛織物の布団では、寒さを到底凌げなかったらしい。

 なので男女問わず一緒に裸で寝て暖を取った、という知識をようやく思い出す。


「なんにせよさっさと体を洗わないとな。炭になにを混ぜたんだ? やたらべたべたするな」


 ちょっと前に鉱山に納品した品の中に石鹸があって、商会にも余りがあるはずだ。

 そのことを伝えると、クルルは少し考えるようにしてから、いたずらめいた笑みを見せた。


「名案がある」

「え?」


 長椅子から降りると、クルルはこちらの手を引いて歩き出す。

 慌ててついていけば、クルルのほつれた髪が朝日にキラキラ輝き、軽く羽織っただけの上着の隙間から、華奢な鎖骨が見え隠れする。

 そのいかにも朝の起き抜けといった無防備な姿にどぎまぎしていたら、クルルはいかにもクルルらしいことを口にしたのだった。


「昨晩の焼肉で、竜の脂が山ほど灰に落ちてるだろ。世にも豪華な竜の石鹸だ!」


 灰に脂を混ぜる原始的な石鹸でも、汚れはきちんと落ちることをこの世界にきて覚えた。ならばなるほど竜の脂の石鹸というのは、案外に効果的かもしれない、なんてことを、クルルの健康的な美の魔力から己の精神を守るため、素数を数える代わりに考えて自分を落ち着ける。


 そんなクルルと中庭に出れば、酒につぶれた者たちで死屍累々だ。

 中庭の真ん中に置かれた即席竈に早速手を突っ込んだクルルは、尻尾を楽しそうに振りながら灰をかき混ぜている。


 そのクルルの背中に向けて、静かにこう言った。


「自分の世界では、未婚の男女は別々の場所で水浴びをする決まりです」


 すると振り向いたクルルはたちまちつまらなそうな顔をして、手にしていた灰の塊を投げつけてきたのだった。

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