第57話

「――んで、たまるか!」


 手を入れたのは懐だ。

 そして掴んだそれを、自分の上に倒れたまま動かないクルルの腹に押し当てた。


 不意を突かれ、手にしていた魔石を失い、呆然自失としているかもしれない。

 それどころか、意識があるのかさえわからない。


 でも、信じていた。


 クルルはたとえ、百匹の竜を前にしたって諦めるような子ではないと。


「!」


 クルルはすぐさま腕を伸ばし、魔法を放った。

 その手に握っているのは、クルルの小さな手では握り切れない大きさの魔石だった。


 三級相当の合成魔石。


 その後に起きたことは、あまりに一瞬のことで実はよく覚えていない。

 少なくとも自分の記憶では、こうだ。


 まず、自分の上にいるクルルの体重が五倍に増えた。

 そして目に見える空間すべてが歪み、世界そのものを握りつぶすかのように、強烈な光がクルルの手の中に収束した。


 一瞬の、間。


 それから耳をつんざく、クルルの甲高い悲鳴。


「――っ!」


 それは悲鳴というより、武者震いとかそういうのに似ていたのかもしれない。

 自分もまた、クルルと体を接しているからか、同じ感覚に陥っていたからだ。


 声を上げていないと正気が保てないようななにかが、体の中から濁流のように駆け抜けていく。

 多分、本人の体感はこの比ではなかったはずだ。


 竜は仲間を殺された恨みか、それとも寝起きでとにかく機嫌が悪かったのか、餌以下とみなした自分たちのことを、その顎で粉々にする瞬間を心待ちにしていただろう。

 けれどその巨大な頭は決して動かず、ただ目だけがこちらを見据えていた。


 間延びした時間の中であってさえ、あまりにも不自然なほど動かない。


 が、クルルの体重が不意にゼロになった直後、歪んだ空間と太陽のような光は霧散して、いきなり静寂が訪れた。

 魔石のようにクルルの体も煙になってしまったのではと、思わずその体を抱きしめる。


 すると腕の中には、確かに華奢で、頼りないくらい柔らかいクルルがいた。


「あ」


 竜の頭がぐらりと傾く。

 それでようやく、なにが起こったのかわかった。


 クルルの放った爆炎は、ほんの一瞬だが、強烈な炎の柱だった。

 その一瞬の炎によって竜は首の根元から削り取られていた。

 どう見ても即死だが、問題がある。


 竜の頭は、それだけで結構な重量があり、そして重力は無慈悲に己の仕事をこなし――。


「!」


 ドズン、と落っこちた。

 その半開きの口の間に、自分とクルルを器用に収めながら。


「……」


 もしかしたら、ちょっと漏らしていたかもしれない。

 竜の生臭いような、焼き肉屋みたいな匂いの充満する口の下で、自分が生きていることを若干疑っていた。


 けれどすぐに生きているとわかったのは、自分の手を掴む誰かがいたからだ。


「――ノブ……」


 小さな声。

 こちらの手を握る小さなそれを、探るように握り返す。


「生きて、ますよ」


 そう言った直後、竜の唾液が垂れてきて、額の右上にかかる。

 ついでに駆け寄ってくる足音も複数聞こえてきた。


「ヨリ、ノブ、お前……」


 クルルは若干ろれつの回っていない声に、少なからぬ怒りを乗せていた。


「お前、いきなり、三級を、お前……」


 こちらの体の上でごそごそしているクルルだが、体に力が入らないらしい。

 四級魔石だと思って全力を出したら、三級だった。

 なのでなにもかもが“穴”からでていってしまったのかもしれない。


 クルルがどんな顔をしているのか見えなかったのは、幸運なのか、それとも。


 健吾やゲラリオ、バランたちの声と、足音が聞こえてくる。


 自分はクルルのことを少し強く抱きしめながら、言った。


「無事で、良かったです」

「……」


 クルルはなおもなにか言い募ろうとしたが、やめたらしいのが背中越しに伝わってくる。

 そしてこちらの手に爪を立てようとしていたのもやめ、代わりに弱々しく握り返してきた。


「……うん」


 ちょっとびっくりするくらい女の子っぽい返事だと口にしたら、思い切り引っ掻かれるか、殴られるかしただろう。


 健吾たちが竜の頭をどけようとする間、クルルはこちらの手をずっと握っていた。

 もうそれは震えておらず、強張ってもいなかった。


「おい、生きてるか?」


 竜の顔がどけられて、無事だとわかっているからこその、わざとらしい健吾の台詞。

 太陽の眩しさもあって、顔をしかめてみせた。


「死に掛けたよ」


 自分が返事をすると、健吾は肩をすくめていた。


「クルルちゃんも瀕死のようだ」

「えっ」


 と体を起こしかけたが、手の甲に爪を立てられた。

 気絶していることにしろ、ということなのだろう。


 いずれにせよ自分たちが無事なことを知って、獣人たちは竜の死体処理に取り掛かっていたし、ゲラリオはにやついた笑みをこちらに見せてから、バランを連れて離れていった。

 残った健吾が、やれやれといった顔をしていた。


「自分が死んだ時よりぞっとしたよ」

「転生ジョーク?」


 健吾は笑い、「荷馬車を呼んでくる」と言って立ち去った。

 残されたのは、自分と、気絶した振りをしているクルルだ。


「起き上がる好機ですよ」


 そう言うと、いくらか体の自由が戻ってきたらしいクルルから、わき腹に肘打ちされた。


「ケンゴに比べたら貧相な胸板だからな。寝るには不向きだ」


 クルルは憎まれ口を叩きながら体を起こしたが、力はまだ戻り切ってないらしい。尻もちをつくように体をずらして、座り込んでいた。


 自分も体を起こそうとしたら、クルルから手を差し伸べられる。

 その手を取って、起き上がった。


「イーリア様が目を覚ましたら、仰天するな」


 竜の死体が二匹。


「自分は頭が痛いですけどね」


 そう言った瞬間にクルルの顔が凍り付き、ものすごい勢いで距離を詰めてきた。


「どうした、どこだ、どこが痛い⁉」


 綺麗な緑色の宝石のような瞳を真ん丸にして、透明なプラスチックの箱に入ったボールを取ろうともがく猫みたいに、こちらの頭をもさもさ触ってくる。


「え、あ、違います、違います」


 クルルの動きが止まり、怪訝そうにこちらを見やる。


「慣用句です。この先のことを考えると、頭が痛い、です」

「……」


 クルルはゆっくりと表情を消してから、頭をパカンと叩いてきた。


「紛らわしいことを言うな!」


 やはり暴力的な女の子ではないか、と思うのだが、今の叩き方はちょっと女の子っぽかったなと思ったりした。


「坑道がめちゃくちゃですからね。生産再開にどのくらいかかるか不安ですよ」

「……」


 クルルはこちらを胡乱げに見てから、ふんと視線を鉱山に向ける。


「竜を売ればいいだろう。それなりの金になるはずだ」

「そうなんですけど、それもどうなのかなあと」

「なんでだ?」


 クルルは話しながら、ふと鼻をひくひくさせて、自身の髪の毛が焦げていることに気がついたらしい。毛先が縮れているのを見て悲しそうにしていた。

 竜の一部が骨ごと消し炭になるような魔法を放って、髪の毛がちょっと焦げた程度なら奇跡のようだが、それを言ったらまた殴られるような気もした。


「竜がそれだけ貴重なら、また欲しくなった時、同じ値段で買い取れるとは思えません」


 特殊な効能があったり、皮や骨も武具に使えたりするのがゲームでは定番だ。

 高価な代物は値段がついていても市場に出回らなかったりするので、将来のことを考えると蓄えておいたほうがいいかもしれない。

 しかし竜を換金しないと、坑道の状況にもよるが資金繰りがひっ迫しそうで怖い。


 このあたりはゲラリオと相談しなければなるまいと思っていたら、視界の隅で妙に動く、クルルの尻尾に気がついた。


「ははあん?」


 なにかしたり顔のクルルは、にやにやしてから、こちらの肩を叩いてきた。


「お前も男だな」

「え?」

「まあ、悪いことじゃないと思うが」


 くつくつと笑い、鼻をこすると土埃で余計に汚れていたが、クルルには妙に似合う。

 やがて疲れたようにため息をついて、清々しい笑顔になると、立ち上がった。


「よし、帰って飯だ!」


 クルルはこちらに手を差し伸べてくる。


 その手を掴んで立ち上がり、竜狩りの立役者として馬車をあてがわれて帰投した。

 竜討伐の報は一足先に獣人の誰かが伝えていたらしく、町の境目には大勢の人たちが集まっていて、ものすごい歓迎を受けた。


 クルルは魔法使いの変装をしていなかったので、主に賞賛を受けたのは作戦を立案指揮したことになっている自分だが、クルルはそれでも満足だったらしい。

 司祭をはじめとした教会の人間も大慌てで駆け付けて、祝福を授けてくれた。

 クルルも作り笑いをするくらいの社会性はどうにか発揮し、英雄の凱旋みたいに人々の群れを引き連れながらイーリアの屋敷に戻った。


 イーリアもさすがに大騒ぎで目を覚ましていたらしく、寝ぼけ眼でクルルと自分の帰還を出迎え、事の顛末を聞いて仰天していた。

 自分の寝ている間に危険なところに向かって、とクルルを責めようとしたが、クルルは疲れと汚れを落とすためと言って、珍しく厨房に逃げていた。


 イーリアは不服そうにそんなクルルの背中を睨んでいたが、やがて諦めたようにため息をつく。


 そしてこちらを見やると、力なく笑った。


「また私の出番がなかったみたいね」


 こちらは肩をすくめるばかり。


「なに言ってるんですか。これから自分たち以上に働くのは、イーリアさんですよ」

「へ?」


 竜に破壊された坑道の修復やらは、実務を健吾、支援を自分がするにしても、本当に大事なことはそこではない。今回の最大の成果は、竜討伐ではないと思っている。


 自分たちはゲラリオやバラン、ツァツァルという、冒険者を仲間に引き入れたのだ。


 外の世界を知り、諸国を漫遊して戦に身を捧げ、世の中の最もきつい現実を誰よりも多く見て生き延びてきた彼らは、どれだけ金を積んだって得られない貴重な人員だろう。

 現在のジレーヌ領が外とつながるのは、バックス商会といういまいち信用しきれない細い糸を通じてだけ。教会の司祭も生臭坊主だから信用できないとなれば、ジレーヌ領が力を蓄えるために外とやり取りをするならば、ゲラリオたちの知識と伝手は値千金だ。


 そして島の外との折衝となれば、間違いなくイーリアの仕事になるし、外から人を雇って領内の仕事に就けるならば、それらの管理はイーリアの職責となる。


 それからもちろん、町の人間に竜討伐を知らせるのも、領主様のお役目だ。


 竜の討伐を単なる一過性の勝利にするのではなく、領主の権威付けに利用してこそ一人前だと、ゲラリオから念を押されている。

 もちろんその権威を使って領内を平定するのも、領主の仕事である。


「……ずっと寝てればよかった」


 イーリアは多分誰よりも領主に向いているのだが、本人はやりたくないらしい。

 寝ぐせなのかいつもよりふわふわの髪の毛の中で体を縮めているイーリアだったが、きっとその時がくれば誰よりも真面目に働くだろう。


 イーリアのいつもの様子に笑ってから、クルルが身支度して食事の準備をするには時間がかかるだろうから、自分は先に商会に行って、諸々の後始末の下準備をしておいたほうがいいだろうと思う。なにせ人々が殺到して港の船がすべて沈んだというのなら、その引き上げをしないことには明日から漁師は漁に出られないし、数多の流通が滞る。


 まったく本当に頭の痛いことだと思いながら、ふと思い出したことがあった。


「あ、イーリアさん」

「なにかしら」


 語尾を上げない、不機嫌そうな抑揚のない聞き返し方に苦笑いする。


「竜の死体はすごく高く売れるって聞いたんですが」


 イーリアは目をぱちくりとさせ、小さな肩をすくめていた。


「そうみたいね。すごい良い薬になるってことで、貴族連中が高値で買うのよ」

「どんな効能なんですか?」


 たずねると、クルルよりも幼く見えるイーリアは、あっさりと言った。


「男の精力回復」

「んっ」


 変な声が出た。

 それは、イーリアがそんなことをこともなげに言ったことだけではない。つい先ほどの、クルルとのやり取りを思い出したのだ。


 竜の死体を売らず、取っておくべきかもしれないなんて賢しらに言った時、それを聞いたクルルはなんと言ったか。


 ――お前も男だな。


 絶対に、勘違いされた。


「肉を食べればその夜はどんな虚弱な若者も強靭な獣人並みになり、肉から採れる油は煎じた骨の粉と練って丸薬にすれば、一粒で三日は元気になれるって聞いたわ。角と牙の粉は特に貴重で、これを香に混ぜて炊いた一年後には、町中で赤ん坊の泣く声がするんだって」


 ひそみ笑いながら話すイーリアは、この手の話題に慣れているらしかった。


「宮廷はこんな話ばっかりだものね」


 自分のほうが、よっぽどか免疫がない。なんとも言えない顔をしてそっぽを向いていたら、イーリアはなにかに気がついたらしかった。


「なあに? まさか全然知らないで、クルルと竜の肉でも食べたいと言ったのかしら?」


 すすすっと近寄ってきて、イーリアはにやにや笑っている。

 その細い肩を掴んで押し離し、咳払いをする。


「そういうことではないんですけど……別の誤解はされた気がします」


 イーリアはやや小首を傾げていたが、ふと視線をこちらの下のほうに向けてから、咳き込むように笑う。


「誤解は解いておいてあげる」

「余計なお世話ですっ」


 嫌そうに言うとますます喜んでいたが、イーリアはこちらの肩をポンと叩くと、不意に理知的な、優しい笑顔に変わっていた。


「お疲れ様。また助けてもらったわね」


 クルルが時折しおらしさを見せるなら、イーリアの魅力はこういうところだ。


「運任せのところもありましたけど」

「それも含めてよ」


 あっけらかんというあたり、イーリアはすごい苦労をしてきたのだと思わせる。


「じゃあ私は、功労者を称えるお仕事に行ってくるわ。あのクソ司祭もここぞとばかりに神の御加護とやらを強調したがってるだろうし」


 可愛い顔でクソとか言うのが実に似合っている。


「ゲラリオさんたちの迷惑にならないよう、上手にお願いします」


 彼は見た目はいい加減そうだが、多分根は真面目だ。人々に持ち上げられ、素直に調子に乗れるような人物ではないだろうから、持ち上げすぎてへそを曲げられては困る。


「任せなさい。偉ぶらない人の扱いなら、多少は心得があるからね」


 イーリアはそう言って、こちらの胸を指でつついてから、さっさと歩きだす。


 戸惑ったまま動けないでいたら、振り向いたイーリアが楽しそうに笑ってみせた。

 クルルのそれとはまったく性質が違うのだが、それはそれで可愛かった。


 イーリアの屋敷が面する広場では、竜の脅威が去った喜びに満ちた人で溢れかえっている。

 自分もいったん屋敷に戻りたかったので、勝手口を通って裏の路地から出た。


 そこは広場とは打って変わって静かで、ほっとする。

 ついさっきまで竜と戦っていたなんていうのが信じられない。


 それに。


「……」


 クルルと戦った時の高揚感を思い出すと、変な身震いが起こる。

 一歩、二歩と静かな路地を歩き、つい、つぶやく。


「冒険者かあ」


 憧れがないわけではないが、自分たちでパーティーを組んだら、間違いなく目立つポジションは健吾とクルルだ。イーリアは僧侶あたりだろうか。

 自分は……となると商人ポジションだろうから、いまいち格好良くない。


 そんなことを思いながら、自分もこの世界に染まってきたなと、一人で笑ったのだった。

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