第50話
健吾は体のあちこちに打撲や出血があったが、坑道で慌てた獣人たちとぶつかったりしたせいらしい。薬草やらを取りに行こうとするイーリアを止め、健吾は言った。
「ここは領主の屋敷だろう? 倉庫には過去、鉱山で発生した魔物の害の記録が残っているはずだ。探してくれないか」
健吾の言葉に、イーリアとクルルは顔を見合わせていた。
確かに真っ先に確認すべきところだし、突然の事態に全員の頭が動いていないのが丸わかりだ。イーリアとクルルは、マークスとゴーゴンも連れて駆けていく。
すると屋敷の広間は急に静かになり、健吾は腰が抜けたように屋敷の石床に直接座り込む。
そして、ものすごく長く、大きなため息をついていた。
「健吾、本当に大丈夫? 大怪我を隠してるとかやめてよ」
背中を丸めているといかにもずたぼろの健吾は、顔を上げて歪に笑った。
「長い距離走ったのは久々だからな……体中が鉛みたいに重い」
実は大怪我をしていました、と言われても今の自分にはどうしようもないが、泥だらけの顔を見て、井戸で水くらい汲んでくるべきかと動きかけた途端、健吾に手を掴まれた。
「頼信、合成魔石は?」
死に際の遺言くらい、小さな声だった。
「どのくらい在庫がある?」
声は小さいが、目はギラついている。
その言葉でようやく思い出す。
この世界で最も強力な兵器は、魔法を生み出す魔石だった。
「五級なら、多少。四級はなくて、三級がふたつくらい残ってる……けど」
三級は使用者にも危険が及ぶ。
健吾はクルルと一緒に穴を開けた時のことを思い返すようにしてから、呟く。
「なら、ぎり、倒せるかな」
息を飲んだ。
三級魔石を使うこと前提で、しかもそれでようやく、倒せるかもしれないというニュアンスなのだ。
「待って、三級だよ。というか、魔物って、そんなに?」
その問いに、健吾は笑うしかなかったらしい。
「そんなにだよ。いや、本当にでかかった」
「……」
他の者にはとても聞かせられない。パニックをもっと煽ってしまうだろう。
「ゲームなら燃えるところなのにな」
健吾は頭を掻いて、落ち着かなげに鼻も掻く。
「いや~……筋肉でどうにかなるものじゃないわ、あれは」
見上げるばかりの巨大な魔物に、剣で立ち向かう勇者たち。
となると、気になるのは冒険者という者たちの存在だ。
「冒険者って魔物退治の専門家がいるらしいけど、その人たちはどうやって倒すんだろ……」
「想像もつかんな。竜も倒せるとなると、捕鯨みたいな感じになるのか?」
なにかしら対策があるのだろうが、あるいは単純に、大魔法のパワープレイなのかもしれない。
「なんにせよ、優秀なのが見つかるのを祈るばかりだ。そうじゃないと、クルルちゃんに頼らざるを得なくなる」
確かにそうだ。この島にはクルルしか魔法使いがいなのだから、冒険者が見つからなければ、クルルが合成魔石を手にして坑道に向かうことになる。
「……どうにか、なる、と思う?」
その問いに、健吾はいつものように明るく返事を寄こさない。
「竜が寝ているところに魔法を撃てば、百発百中で当たる。でも、そこは深い坑道の奥だ」
魔法の威力はすさまじく、間違いなく坑道は崩壊するだろう。
だとすればいちかばちかという言葉でさえ楽観的なくらい、厳しい結末になるはずだ。
「……でも、竜が起きてきたら?」
古代の恐竜を現代によみがえらせた映画を思いだせばいい。
仮に武器があるのだとしても、当たらなければ意味がない。
「二級魔石の合成の準備をしたほうがいいかもな」
三級であの威力なら、二級を使えば、照準を合わせるという概念が無意味なくらいの威力が見込める。
問題は、それほど巨大な魔法を発動した術者が、一体どうなるのかだ。
しかしもしも冒険家が来る前に竜が起きて鉱山から出てしまったら、その選択肢は考えなければならないだろう。
「……膠は準備しておくよ。魔石の粉末は、工房から掃除ついでにちょくちょく集めてある」
「無駄足であって欲しいが……」
自分もため息で応ずるほかない。
「港から全速力でバックス商会に向かって、人を探して、こちらにくる……となると、どのくらいかかるんだろう。多分最速でも、二日……いや、三日?」
「バックス商会が手配するんだろうが、死ぬほど吹っ掛けられるだろうな」
それを考えると口の中が苦くなる。
ようやくジレーヌ領が離陸し始めていたのに、借金という巨大な重りを背負わされることになる。
「でも、すべてを失うよりはいいでしょう」
少なくともタカハシ工房は想像していたより絶好調なのだ。
いくら借金を背負うとも、返すのは難しくないはずだ。
「そうだな」
「それに、そうだよ、大損覚悟なら、二級魔石で魔法を鉱山の外から使うという選択肢もある」
それならば、考慮すべきはクルルが受ける魔法の反動だけになる。
「魔法……魔法なあ……州都に行って、魔法を学んだあとだったらよかったのに」
常にタイミングよくあるわけではない。
けれど今のところは誰も死んでいないし、竜は寝たままだ。
「自分も倉庫で昔の記録を見てくるよ」
そう言うと、鉱山ではおそらく獣人たちを率先して逃がし、魔物の正体を確かめるべく最後まで鉱山に残っていたのだろう健吾は、うつむいて手を振ってそのままごろんと仰向けに寝てしまう。
長丁場になるかもしれないから、休める時に休んでおいたほうがいい。
そう思い、先に毛布を持ってきたほうがいいだろうかと思ったところのことだった。
はたはたとなにか小さな乾いた音がしたかと思うと、すぐにそれが足音だとわかる。
健吾が体を起こす頃、屋敷の入り口から、つんのめりそうになりながら、手紙を託した商会の小僧が転がり込んできた。
「た、たい、大変、です!」
転んで立ち上がる間も惜しんで、小僧が言う。
顔が汗と涙でぐしゃぐしゃで、すでに何度も転んだのか、砂埃だらけだった。
「ふ、船が……船が……!」
「落ち着いて、一体なにが?」
慌てて駆け寄って抱き起こす。
健吾も体を起こしていたし、その向こうには倉庫から羊皮紙の束を抱えて出てきて、何事かと驚いているクルルたちの顔があった。
「船が、船が……」
小僧は言葉を詰まらせ、しゃくりあげながら言う。
その小さな手が、こちらの服を痛いくらいに掴む。
「船が、全部――」
「え?」
「船が全部沈没しちゃったんです!」
そんなまさか、と真っ先に思った。一体なんで?
頭が真っ白になる中、いつの間にか隣にいた健吾が言った。
「まさか、皆が避難しようとして?」
小僧は言葉を吐き出して感情の歯止めがなくなったのか、ぼろぼろと涙をこぼしながら、唇を震わせてうなずいている。
どういうことか、と聞き返そうとして、ようやく気がつく。
ここジレーヌ領は島国だ。
そして船に限りはあり、どう考えても、すべての住民が乗れる数はない。
山ほどの人が乗りこもうとして、すべての船が沈没した。
そう。そういうことを想定していなければならなかった。
それでようやく、ゴーゴンがここに連れてこられて真っ先に、魔物討伐の経験がある者はと聞いた意味が分かった。
あれは危機管理の経験がある者はいるかという意味だったのだ。
警察力があれば、魔物発生の一報があったらすぐに領主の命でただちに港に兵を向かわせ、迫りくる暴徒を排除し、つつがなく助けを求める船を州都に差し向け、さらに民衆が暴徒化しないように様々な対策を打ち、そのうえで竜の対策を検討してその準備をしただろう。
自分たちはあたふたするだけで、全体図をまったく見通せていなかった。
対策すべきは魔物だけではない。
魔物と同じくらい脅威になり得る、パニックの群衆もまたその対象だったのだ。
「こうなると、たまたま沖に出ていた船も、港にはつけられないだろうな」
近づいた瞬間、避難したがる人たちが群がって、沈められてしまう。
「船に乗っている奴らが、州都に助けを求めに行ってくれるのを願うしかない」
「商船がいれば、それもできるかもだけど……」
近隣で魚を獲るだけの漁船の乗員だと、そもそもどっちに州都があるかすらわからないかもしれない。
自分と健吾が言葉に詰まる中、どさどさ、と書類束が床に落ちる音がした。
振り向けば、真っ青な顔をした、イーリアだった。
「……た、助けは来ないってこと?」
見開かれたままの目が、クルルを見る。
賢いイーリアは、冒険家が来ないかもしれないというのがなにを意味するのか、もちろんよくわかっている。
「い、いや、嫌よ! クルル! それはだめ!」
クルルにすがりつくイーリアに、クルルはなにも言えず凍り付いている。
ついさっきまでは、いざという時には、というある種の希望があった。
だが、いざその選択肢しかないのだとなれば、そうなるのが当たり前だ。
それにクルルは心底、クルルだった。
すぐに口元に微笑みを取り戻し、イーリアを逆に抱きしめたのだから。
「大丈夫ですよ、イーリア様」
その視線が、こちらに向けられる。
「私の魔法で一撃で葬り去ってやりますとも」
合成魔石を用意しろ。
綺麗な緑色の目がそう言っていた。
魔法の反動のことを考えるなら、三級魔石でもぎりぎりだが、それだと坑道の奥に向かわなければならない。
二級魔石ならば坑道の外からすべてを消し炭にできるだろうが、反動で術者がどうなるかわからない。
いずれにせよ、クルルは分の悪い賭けに命を差し出す必要がある。
比較的冷静に見えるのは、その腕の中でイーリアが取り乱しているからかもしれない。
ただ、その場で最も冷静だったのは、マークスだ。
「船が全部沈没したって? おい、今すぐ扉を閉めろ! いや、ここはまずい、場所を――」
慌てるマークスの言葉が終わるか否かの直後、屋敷の入り口に巨大な影が映った。
「ドドル⁉」
体中の毛を逆立て、全力疾走後の犬のごとく舌を垂らしている。
体中で荒い息をついたドドルは、二呼吸ほど挟んでから、すぐに走ってきた方向を見やり、怒鳴った。
『そこを絶対に通らせるな! 構わん! ワレが責を負う!』
屋敷の外でなにが起きているのか。
興奮した様子のドドルは、毛皮が膨らんでいるせいでいつもの二回りは大きく見える。
そのドドルが屋敷に踏み込み、言った。
『お前らはなにをしている! ここに愚かな人間の暴徒がくるぞ!』
暴徒。
そうだ。
島の人々が逃げ場を求めて港に停泊していたすべての船に殺到したのだから、次に助けを求めるのはなんだ?
この島唯一の魔法使いの存在を思い出すのは、時間の問題ではないか。
「ドドル、町の外に逃げられそうか?」
マークスの問いに、いくらか落ち着きを取り戻したドドルが、ぎろりと視線を広間に巡らせながら言う。
『人間がいくら塞いでいようとワレらの障害にはならん。今ワレらが鉄槌の猫姫を失えば、すべての希望が潰える。すぐに逃げるぞ』
分厚い筋肉に、巨大な爪。
人間などバターのように切り裂けるだろう。
『持てるものをすべて持て! すぐに発つ!』
食料? 違う。魔石だ。
合成魔石は隣の隣の屋敷の工房の地下倉庫にある。
しかし屋敷の外からは、もはやはっきりと人々の怒号と悲鳴が聞こえてくる。
おそらくドドルの仲間の獣人が道を封鎖しているのだろうが、どれだけ持ちこたえられるのかわからない。
『魔物はまだ寝ているのだろう? ならば猫姫よ、ワレらが先導する。貴様の誇りを見せる時だ!』
ドドルが魔法に詳しいとは思えないが、坑道の奥で大魔法を使うことの意味をわからないはずがない。
けれどドドルはクルルを先導すると言った。それはつまり、自分も死ぬからお前も死ねという意味だ。
ただ、クルルが目を見開いてドドルを見たのは、多分、死ねと言われたからではない。
ノドン追放の騒ぎの時、ドドルは明らかに人間の敵だったし、クルルをその敵の側だと見なしていた。
そのドドルが、共に死ぬ覚悟だと言っている。
イーリアを腕の中に抱いていてもなお、クルルの顔を引き締まらせるのに、それ以上の言葉は無かったはずだ。
「ドドル、私は野蛮で粗野で偏狭なお前が大嫌いだが……今のこの場では尊敬できる」
クルルの言葉に、ドドルは目を細め、牙を剥いてみせてから、大きくため息をつく。
『ワレはなにが大事なことかを血の掟によって理解している。その他のすべては些末なことだ』
ドドルがクルルを連れて坑道の奥深くに入れば、犠牲者は最小限で済む。
そんなことを考えているのだろうが、問題は凍り付いているイーリアだった。
もうあとどんな衝撃を与えても、爆発する。
そんなイーリアに、クルルでさえ、視線を向けられない。
クルルが死んでも、イーリアがいれば工房と魔石によってジレーヌ領は立て直せる。魔法使いは雇い直せても、領主となるとそうもいかない。
簡単な方程式だが、すべての者が合理的に動けるわけではない。
理論と現実の辻褄を合わせるには、誰かがその間に立って、悪者になる必要がある。
立ち上がったのは、ついこの間まで悪人が椅子に座っていた商会の、新任主人だった。
「イーリアさん、行きますよ」
誰も動けない中、自分だけが時間停止魔法がきいていないかのように、イーリアの後ろに回り込んでその手を取る。イーリアの手はクルルの服を掴んでカチコチに固まっていて、その細い指をいささか乱暴に解き、肩を抱くようにして引きはがす。
イーリアはクルルから視線を外さないし、クルルはようやく、イーリアに視線を向けた。
無理にでも笑ったクルルはすごかったし、ちらりとこちらに向けられた視線は、礼を言うかのように優しかった。
「クルル!」
悲痛な叫びがイーリアから出て、その小さな体が爆発した。
それくらい死にもの狂いで暴れるイーリアを、全力で抱きとめた。後頭部で頭突きをして、こちらの腕の肉をえぐる勢いで引っ掻かくイーリアを、クルルから引き離していく。
途中で我に返ったマークスが手伝ってくれなければ、振りほどかれたかもしれない。
けれどもはや言葉にもなっていない声でクルルを呼び留めるイーリアを前に、自分の心もまた死んでしまいそうだった。
クルルはイーリアから視線を動かせず、立ち尽くしていた。その肩を押したのはドドルで、一歩、二歩と歩きだす。
健吾がようやくやってきて、自分の代わりにイーリアを受け取ると、屋敷の外を指さされる。
工房に行って魔石を取ってこいという意味だ。
これが正しいことなのか、最善の方法なのか、それはまったくわからないが、他になにも思い浮かばない。
せっかくノドンを追放したのに、工房を創設したのに、溢れかえる商会の物流問題を解決したのに、こんなことになるなんて。
そういえば、州都に行く予定だったな、と遠ざかるクルルの背中を見て思う。
魔法使いから教えを受けて、一人前の魔法使いになっていたとしたら、クルルはどんな人生を切り開けただろうか。
このジレーヌ領が盛り上がり、完全に独り立ちしたイーリアとクルルの姿は、おそらくもう……見られない。
「クルル――!」
喉がつぶれ、痛々しいかすれた声が聞こえた。
クルルは耐えきれずに振り向いてしまう。
ドドルも止めなかったのは、クルルは考えを変えないだろうし、これが最後だとわかっているからか。
健吾とマークス二人がかりで押さえつけられていたイーリアは、解放されるとそのまま崩れ落ちてしまう。
そこにクルルが駆け寄り、抱きしめる。
これまで辛い日々を共にしてきた二人なのだ。
一体、どうしたら――。
もはや神が降臨し、すべてを予定調和で解決してくれるほかない。
怒りと共にそんなことを思っていたので、それは――それは、本当に神だと思った。
「お取り込み中、すまんね」
屋敷の入り口に立つドドルの後ろから、ひょいと人が顔を覗かせた。
「あんたがた、冒険者をお探しではないかと思ってね」
髭面で、顔の半分に大きな傷跡のある、あまりまともとは思えない雰囲気を漂わせた中年の男だった。
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