第29話
マークスの家に戻って事の次第を話すと、イーリアはなにも知らされていなかったことに耳と尻尾の毛を逆立てて怒っていた。ないがしろにされたからということではなく、クルルたちが自分たちだけで危険を引き受けたことに怒っているようだった。
イーリアの怒りにクルルがおろおろとしていたので、同じなにも知らされていなかった仲間として、健吾たちにも理由があったのだとイーリアをなだめることとなった。
イーリアはしばらくつんとしていたが、真っ赤な目で涙を流しているこちらを見やると、大きくため息をついてから、クルルに井戸から水を汲んでくるようにと命じ、自分には目を閉じて横になるようにと命令していた。
そして人生初の女の子の膝枕で、冷たい井戸水に浸した手拭いで目を冷やしてもらっている間、健吾はドドルのことを話し始めた。
「クルルちゃんが魔法使いだってことには、微妙な問題がある。でも、イーリアちゃんの説得にこの町の獣人たちは応じてくれて概ね協力的だ」
神は人に魔法を授け、人はそれで獣人の支配を打倒した。
そしてクルルは、獣人の血を引いている。
「ほとんどの獣人は実利と歴史の問題を切り分けてるからな。あるいは諦めてると言えるかもしれないが……ドドルたちは違う」
クルルが小さく舌打ちをするのが聞こえた。
「ノドンから力を奪うということについては、ドドルたちも反対はしていない。だが、その先のことが厄介でな」
「その先?」
「さすらいの魔法使いが私の領地に居つくとなったら、正式に臣下として迎えなければならなくなるのよ」
膝枕をしてくれているイーリアが言った。
「ことは魔法使いの話だから、このジレーヌ領が所属する州都にも報告しないとならないとか、そういうちゃんとしないとならないことがたくさんある。その中で一番厄介なのが、教会との関係なの」
「……」
冷たい手ぬぐいの下で綴じられた瞼の裏に、健吾とともに訪れた教会の様子が浮かぶ。
「魔法使いは半分が帝国、もう半分が教会の支配を受けるみたいな特殊な身分なのよ。魔法はそもそも、教会の奉じる神が人間に授けてくれたものだから」
自分たちは実際、古代魔法陣を調べる時には教会に行った。
「だから正式に私の臣下として魔法使いドラステルを迎え入れれば、ドラステルはこの町の教会にも服することになる。就任の式典が催されて、ドラステルは教会の聖職者の前で膝をつき、神への服従を宣誓することになる。だとしたら」
と、イーリアの少しひんやりとした手が、こちらの額を撫でた。
「獣人の血を引くクルルが、獣人の歴史を永遠の汚辱に引きずり込んだ教会に、魔法使いとして忠誠を誓う様子は、獣人たちの目にどう映るかしら。しかもそれを認可するのもまた、獣人の血を引く私なの」
なんと答えればいいのか、自分にはわからなかった。
「獣人の復権を唱えるドドルたちが乗り込んできて、クルルの正体を明らかにしないとも限らない。そして、獣人のために戦えと強要してくるとかね」
「さすがにそこまで強硬策には出ないだろ」
健吾の言葉に、クルルが重ねるように言う。
「どうだかな。私としては、今頃あいつらがノドンを勝手に八つ裂きにして、イーリア様の名のもとに立ち上がれと宣戦布告しても驚かない」
腑抜けのイーリアたちが立ち上がらないなら、無理やり神輿の上に乗せてやる、ということだ。
「ただまあ、ケンゴの説得で助けにきてくれたということは、ドドルたちも迷っている最中ではあるんだろうが……」
クルルの渋々と言った物言いに、久しぶりにマークスの声が答えた。
「どちらかというと、置いていかれると思ってるんじゃないのか? クルルちゃんが魔法使いってのは、獣人たちにとっても奇跡みたいなもんだ。そして獣人たちは、俺たち以上に頭を抑えられて生きてきた。イーリアちゃんたちが真摯に獣人の生活を改善すると口にしても、信じきれないところがあるんだろう。あとでもっと腹いっぱい食えるよと言われて手を出さなかったパンを、二度と手にできない経験を何度もしていればそうなるはずだ」
そんな獣人たちの目の前で、クルルが変装しているとはいえ、教会で神に忠誠を誓っていたとしたら。
また我らは見捨てられ地を這わされるのかと、ドドルたちが考えるのもわかる気はした。
「もちろんイーリアちゃんたちが実権を握ってからの行動にかかっている、とは言えるだろうけど、それは口約束に過ぎないし、一度状況が落ち着いてしまったら覆すのは難しくなる」
自分も前の世界で、選挙のたびに似たようなことを感じていた。政治家があれをやるこれをやると言っている時は、どうせ無理だと思いつつ、なぜか期待してしまうのだ。
そしていざ当選すれば、いつものとおり。
孤児院あがりで、カラスや野良犬と食べ物を争っていたというマークスは、どこまでも現実的で口約束など信じない。
彼が信じるのは、口ではあれこれ言いながら、飯を食べさせてくれる者だけ。
そして未来に期待するかどうかについて、獣人たちはマークス以上に慎重だろう。
「ドドルたちの説得は俺がやる……と言いたいところだが、イーリアちゃんの協力も欲しい」
「もちろんよ」
健吾の言葉に、イーリアが力を込めて答えたのが、頭の下にあるイーリアの柔らかい膝からよく伝わってきた。
「とはいえ、ほんとに頑固だからな……」
「俺だって、今回あいつらが助けに入ったってことに驚いてるよ」
マークスがクルルと同じことを言う。
この町で生まれた住人としては、それくらい意外なことだったらしい。
「血の掟みたいなのが大好きなあいつらを納得させるのは、至難の業だったろうが、どうやったんだ?」
そう言えば、クルルがかけた言葉に、我らの誓いを口にするな、とドドルは吐き捨てるように言った。
そのちょっとしたやりとりだけでも、ドドルたちはいかにも掟だとか誓いだとかを好みそうな、前時代の部族みたいだったとわかる。そして部族的な者たちは常に、信用と同じくらい、形式を重んじる。
獣人の血を引くクルルが教会で膝をついて頭を垂れれば、それはもはや裏切り以外の何物にも見えないだろう。
「ケチな詐欺師の俺としては、安全な逃げ道を確保してないのに動くのは危険だと思う。ドドルの問題を解決しないままにノドンをやるのは、感心しないな」
ノドンを追い詰めて倒してしまえば、話は次の段階へと移行するほかない。
ドドルたちと意見のすり合わせができないままに話を進めたら、どんな問題が噴き出すか想像もできなかった。
「幸いなことと言えば、ノドンの野郎は魔石加工職人の線も切れたとみなしたのか、暴力の行使に乗り出してきたことだ。これはもう、バックス商会に泣きつく以外に道はないってことの裏返しだ」
なりふり構わなくなる段階にきたということだ。
「そして州都のバックス商会に連絡を取るには、数日かかる。少しは考える猶予があるだろ」
その数日が、ドドルたち急進派の獣人を説得するリミットだ。
「はあ……魔法で全部灰にしてしまいたい……」
疲れたようにクルルが言った言葉こそが、古の帝国が滅びた理由なのかもしれない。
それに、自分は皆の話を聞きながら、妙な焦燥感があることに気が付いた。
生まれて初めて女の子に膝枕をしてもらっているせいで落ち着かないのかもと思ったが、マークスの話を聞きながらだんだん焦燥感の形がわかってきた。
それは、あのノドンという人物の性格だ。
「そんな猶予が、ありますかね……」
体を起こして、目の上から手拭いを取りながら言った。
薄暗い蝋燭だけの灯りなのに、目を開けると痛いくらいに眩しかった。
「あのノドンですよ。ずる賢さだけならこの町随一でしょう」
「どういうことだ?」
「人の嫌がることによく気が付くはずです。自分たちがドドルさんのことで困ってるって知ってるはずですし」
こちらの体を支えようと手を貸してくれていたイーリアが、体をこわばらせた。
「まさか、ドドルたちの蜂起を待たないってこと?」
イーリアは賢い。
「そうです。むしろノドンたちが助かるには、それしか道はないはずです」
「なにを言っている? ドドルの、蜂起?」
マークスが怪訝そうに言い、健吾もクルルも計りかねていたところ。
扉の外からぱたぱたと足音が聞こえてきて、ノックもなく開かれた。
「お頭、ノドンの野郎の屋敷に偉いさんたちが集まりだしてますっ。それに、町のごろつきたちも片っ端から!」
「やっぱりっ……先手を打たれてる……!」
声を上げ、立ち上がろうとするが、視界がまだぼやけているせいで体がふらついてしまう。
イーリアに支えられ、どうにか転ぶことだけは避けられた。
「頼信、なんの話だ。ノドンはなにを?」
健吾の問いに、じれったく答えた。
「ノドンは大義名分を得ようとしてるんだよ。ノドンは慎重で執念深い。商会の悪事を全部把握されていると想定するだろうから、バックス商会の後ろ盾があっても助かるかわからないと思ってるはず。でも今なら、まだイーリア様をどさくさ紛れに口封じすることで、助かるかもしれない。その口封じの大義名分をつくろうとしてるんだよ」
「はあ? そんなこと――」
とまで言って、健吾はようやく気が付いたらしい。
「イーリアちゃんがドドルたち獣人と組んで、反乱を企んでるって吹聴するのか」
ドラステルがクルルだと示せれば、その主張には一定の真実味が出てしまう。
「馬鹿な! あのノドンがいかに馬鹿でも、私に魔法の力があるとわかってたら、簡単に吹き飛ばされるってわかるだろう? そんな無茶なことして無事で済むなんて思うものか」
クルルの困惑に、短く答える。
「死なば諸共のつもりなんですよ」
どのみちノドンは、このままではすべてを奪われるとわかっている。
だから賭け金に自分の命を乗せることをためらわない。
小さいながらも地域の経済を牛耳ってしまうような商人は、それくらいの気概を持っている豪胆の人物なのだ。
「それに、クルルさん」
自分は、言った。
「クルルさんは、ためらわずに人に向けて魔法を使えますか?」
ノドンはがさつなようだが、無謀ではない。
命を懸け金に差し出しても、決して勝算もなくやるはずがない。
イーリアに魔法の力があるとしても、それをなんの呵責もなく使えるかどうかはまた別問題、とよくわかっているのだ。
もしもノドンがドラステルの正体をクルルだと把握しているのなら、町中で人間相手に魔法をぶっ放すのをためらったその甘さの隙間に、無理やり剣をねじ込む可能性があるとふんでいるのだ。
そして死人に口なしであり、その死人には獣の耳と尻尾が生えている。
イーリアとクルルの口を封じた後、ドドルたちを詰問するところを想像すればいい。機先を制されたドドルたちになにができるだろうか。彼らの性格を考えればいい。
反乱を起こす前から、この反乱者めと詰め寄られたら、普通ならば自分たちは反乱など起こしていないと言い訳するだろう。
しかしあのドドルたちは、部族的な振る舞いを好む。
だとすれば腑抜けの犬ではなく、人の支配に一矢報いてやろうとした狼を演じたがるはず。
反乱を認めることが、たとえ自分たちの破滅につながるのだとしても。
こうして州都からやってきた司法官は、ノドンの言い分を信じるだろう。
ノドンは下衆に間違いないが、凄腕の商人であり、勝負師だ。
窮鼠が猫を噛むべきタイミングと、場所を心得ている。
なにより、判断をためらわない。
「クルル」
イーリアがその名を呼ぶ。獣の耳と尻尾の生えた少女が人に向けて魔法を放てば、たとえノドンたちを倒したとしても、その後にどんな災厄を招くかわからない。ドラステルがクルルであると隠し続けられなくなった時、大変な問題を引き起こす。
おそらく州都や帝国の中枢部から、獣人の反乱だとして討伐隊が向けられるのではないか。
そしてこちらには合成魔石の秘密があるとはいえ、クルル一人では必ず物量で負ける。
なにより、クルルに人殺しの罪を背負わせたくなかった。
「くそ! なら、どうすればいいんだ!」
クルルがこちらに掴みかかりながら言った。慌てて健吾とイーリアがクルルを引きはがそうとするが、クルルは泣きそうな顔でこちらを見たまま、手を放さない。
もう少しで星に手が届いたのに、クルルの手は、また虚空を掴もうとしている。
「私が手を汚すくらいはかまわない! それでどうにかなるはずだ!」
クルルは自分から手を放すと、懐に手を入れる。
そこをイーリアが、体ごと抱きしめて止めていた。
自分は痛いくらいに高鳴る心臓と、うまく呼吸ができない肺を抱えながら、実際、どうすればいいのかと自分に問うていた。
ノドンたちはここを襲うだろう。
魔法の使用を躊躇すれば、物量はノドンたちのほうが上。ノドンの性格からして、クルルが攻撃しにくいよう、多くの人と共に、中には無理やり連れてこられた子供なども交えてやってきたっておかしくない。
魔法に頼らないとなれば、残るは獣人しか頼れない。けれど今から健吾が獣人を味方として呼ぶのが仮に間に合ったとしても、獣人たちが人間のノドンたちと争ったという事実が残る。
しかもイーリアはノドンと争うのだから、世間からは獣人たちの側に立っているとみなされるが、それでは領主としてまずいのだ。
なぜなら今の世の中は人が支配しているのだから。
イーリアとクルルには獣人の血が流れている。ならばどんな些細なことでも、人間社会への裏切りと見なされる恐れがある。
良き統治のためという言い訳など聞く耳を持ってもらえず、人に対しての反乱に加担したと言われるのがおち。
つまりノドンが繰り出したのは、イーリアとクルルの曖昧な立場を利用した、醜くも強力な一手だ。
騒ぎの後に駆け付けた司法の担い手は、誰の言うことを聞くだろうか? イーリアたちのために声を上げてくれる者がいるだろうか? ならば自分たちが頼れるのは、あらゆるものに対して中立な、魔法という技術だけではないだろうか?
そう。
魔法使いだ。
「私は魔法使いだ! ここで魔法を使わないなんて――」
クルルの泣き声が混じった言葉で、目が覚めたように思考の霧が晴れた。
「イーリアさん」
自分の声はそこまで大きくなかったが、妙に冷静で場違いだったのだろう。
クルルたちが動きを止め、こちらを見た。
「魔法使いの身分は特殊だって言いましたよね」
「え? え……っと、それは、うん」
戸惑いながら答えるイーリアから、視線を戸口に向ける。
「マークスさんは、孤児院出身ですよね」
この騒ぎを前にどうしたものかと頭を抱えていた路地裏の頭領は、こちらを見て目をぱちぱちとさせた。
「そうだ……が?」
「ということは、孤児院を管轄する組織と悪くない関係ですよね」
「ん? それって――」
「あっ」
イーリアがぽかんと口を開けた。
ノドンはこの町で好き放題重ねてきた罪の歴史を、人間対獣人の政治問題に挿げ替えようと画策している。そしてその場合、どうしたって獣人たちの側が不利にならざるをえない。
それを覆すには魔法という暴力しか思い当たらなかったが、それは余計にこちらの立場を悪化させるだけだった。
だが、人間対獣人という構図そのものに陥らないようにできるとすれば、どうか?
この世界にはもうひとつ、有力な権力機構が存在する。
そして魔法使いは、その権力機構に片足をつっこんでいた。
「教会に助けを求めるんですよ」
その瞬間、クルルが獣耳のならず、髪の毛まで逆立てて言った。
「できるはずないだろう! それこそドドルたちに反乱蜂起の口実を与えるだけだ!」
クルルが魔法使いとして活動するなら、教会に膝をつく必要がある。けれどそれはドドルたちからすると、獣人への裏切りではないかと見えていた。
ここでノドンとの争いで教会に助けを求めれば、いよいよその疑惑は強くなる。
なにせ、結局どうしようもなくなったら頼るのは、人間側の権力機構だということになるのだから。
そうなればノドンの襲撃を交わしたとしても、その後の統治を巡ってイーリアは、怒り狂ったドドルたちと戦う羽目になるかもしれない。
しかし、自分には考えがあった。
そのきっかけが、体を起こした拍子に足に当たった、変装用のかつらだった。
「健吾、ドドルって人たちは、いかにも頑迷な部族の民って感じだったけど」
「あ? ああ、まあ……そんな感じだが……」
「おい、ヨリノブ、なにを考えてるのかわからないが、ドドルたちになにも期待するな。あいつらは意固地になって先祖返りしようとしている奴らなんだ。結局仲間の首を絞めるだけなのに、それがわからない!」
忌々しそうに言うので、今までもたくさん軋轢があったのだろう。
けれど、その話を聞いて、自分はますます確信を強くした。
「好都合ですよ」
「は?」
「だって、教会を虚仮にしたらすごく喜ぶんじゃないですか?」
その言葉に、クルルも、健吾も、イーリアも、マークスも、全員が目を丸くした。
動きが取れない彼らに変わり、マークスに急事を告げにきたまま、まごまごしていた少年だけが、落ち着かなげに視線を巡らせていた。
「教会を、虚仮に? 教会には、助けを求めるんだよな?」
健吾がようやくそう言った。
「もちろん。でも、面従腹背って言葉があるでしょ。自分と健吾が教会に行っても、あの人たちは自分たちの信仰のなさを見抜けなかった。なにかそういう不思議な力があったら、無理かなとも思ったけど」
面従腹背をこの世界の言葉でどう言うのかわからず、途中から日本語になった。
この場で自分以外に唯一日本語の分かる健吾に、皆の視線が集まる。
「……わからん、なにをするつもりだ?」
健吾の問いに、自分はクルルを見た。
「獣人の人たちは、どれだけ変装しても、その匂いでクルルさんだとわかる、でしたよね」
クルルは気圧されたようにうなずいてから、気圧されてしまったのを誤魔化すように、険しい顔になって顎を引いていた。
「だったら、ドドルさんたちを敵に回さずに、教会の仲裁と保護を求めることはできると思います。そしてノドンは、教会に保護された自分たちを攻撃はできないはずです。そうすれば自分たちの言い分が成立しなくなりますから。まさか教会が獣人の反乱の片棒を担ぐなんて言えないはずでしょう?」
教会と獣人はまさにこの世の水と油。
けれど水と油のふたつは、界面活性剤があれば混ぜられる。
「つまり教会の協力を得て、かつ、ドドルさんたちを味方につけられれば、あとは不正の証拠と理詰めで、ノドンに裁きを下せるはずです」
その説明にクルルたちがなんともいえない顔をしているのは、これが有名なマイクロソフトの入社試験のようなものに聞こえるからだろう。
問い。冷蔵庫にキリンを入れるにはどうしたらいい?
答え。冷蔵庫の扉を開ける。キリンを入れる。扉を閉める。以上!
「できますよ」
自分はかつらを拾い上げて、言った。
「時間との戦いですが」
健吾がなにかを言おうとしたのを止めたのは、クルルだった。
「お前を信じて、いいんだな?」
クルルが足を止めないのは、強いからではない。
きっと、足を止めたら二度と歩きだせない弱さを隠すためだ。
合成魔石の一件から、クルルをそそのかした一員として、その手を引っ張る義務が自分にはある。
けれど世の中には、愚直に立ち向かい続けるだけが勇気ではないこともある。
「もちろんですが、そんな顔をしないでください」
困惑するクルルに、笑いかける。
「駄目なら全員で逃げましょう」
自分には辞表をしたためた過去がある。
ダメなときはダメだということを知っているし、そこで折れたらすべてが終わると思っていたのに、案外終わりではないことも知っている。
けれどそれがきっと、良き安全弁になったのだろう。
「そうね、そうよ」
イーリアが楽しげに手を叩く。
「もうここまでやって駄目なら、逃げちゃいましょう!」
それは本心が半分で、もう半分は道化になるべきだと理解した立派な領主としての振る舞いだろう。イーリアがそう言うなら、とりあえずやるだけやってみるかということになる。
特にクルルが、イーリアにだけは、絶対に逆らわないのだから。
「お前は妙なやつだ」
マークスは言って、肩をすくめる。
「で、クルルちゃんたちのために、どうしたらいい?」
自分は大きく息を吸った。
「マークスさんにはトルンさんを連れてきてほしいです。仕事道具も一緒に」
荷揚げ場で足の骨を折り、獣人たちに縄結いを教えていた少年。
「それから健吾は、獣人の……特に子供たちを集めてきて」
鉛を金に変える錬金術師が鍋に放り込む材料としては、奇妙なものに映ったのだろう。
けれどこれらとクルルを混ぜ合わせれば、奇跡が起きるのだ。
「そして、トルンさんや獣人の子供が集まったら……」
と、なにをするか説明したら、全員が唸った。
「それから最後にみんなで、教会に行くんです」
本当にうまくいくのか? と全員の目の奥に不安が見えているのは仕方ない。
自分の仕事があるとしたら、できる、と言い切って見せることだ。
「さあ、早く!」
それを合図にマークスと健吾が慌てて走り出し、もちろん二人が同時に狭い扉から出られるはずもなく、入り口でつっかえて転んでいた。
少年がぽかんとし、イーリアが笑い、クルルが戸惑っている。
やれるはずだと、自分は不安を悟られないよう、深呼吸をしたのだった。
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