第4話

 健吾曰く、ノドンは自分たちより年下の二十代中盤らしいが、どう見ても四十を超えている。


 昭和の時代の若者の写真もひくほどおっさんくさかったりするので、過酷で野蛮な時代の人たちは人生が短く、老けて見えるものなのかもしれない。


 ノドンの商会は町の中でも賑やかな通りに面していて、一歩外に出れば、人通りを目当てにした露天商がずらりと並んでいる。焼き肉の香りにごくりと喉が鳴るが、我慢して通り過ぎる。

 買い食いのことがノドンにばれたら殴られる、というわけではなく、イーリアのいる領主の館に魔石の取引記録を届ければ、軽い食事が出るのがいつものことだからだ。


 銅貨二十枚の日給の中、ちょっとした買い食いで銅貨一枚なり二枚なりを消費するというのは結構でかい。前世ではあまり貯金など意識していなかったが、ここでは色々と考えなければならない。


 なにせ、失業保険など存在せず、健康保険だってないのだから。


 それに永遠にあのノドンの下で低賃金労働に甘んじるのかと思うと、さすがにちょっと将来が不安になる。

 あと切実な問題として、健吾のように自分の部屋が欲しかった。


 機械化が進み、大量生産が当たり前の前世の世界と違って、ここではあらゆる物資が不足しているし、住居も例外ではない。

 持ち家なんていうのはものすごいことで、ほとんどの人間が勤め先に下宿して、軒下か物置で寝起きするのが当たり前。自分が商会の倉庫に寝泊まりさせてもらえているのでさえ、幸運の部類なのだ。


 それゆえにホームレスという概念すらなく、路上での寝起きはごく普通のことだった。

 健吾はその点、ぼろい宿屋の一室だが、それでも鍵のかかる専用の部屋を借りていた。


 鉱山監督官という準公的な仕事なので、結構実入りがいいらしい。

 だが、銅貨二十枚の日給では、とても覚束ない。


 かといってあのノドンが昇給してくれるとも思えない。

 長いこと勤めている者たちでさえ、銅貨で三十枚とか四十枚というレベルらしいのだから。


 しかもノドンがことさらがめついわけでもなく、どこも仕事があるだけで御の字という状況なのだ。


 前の世界でも格差拡大なんて騒がれていたが、その比ではない。

 それに前の世界でもほんの百年前までは、なんの財産も持たない大多数の貧しい者たちと、極一部の富める者たちという構図だった。


 異世界もまた、ユートピアではないのだ。


 前の世界にはない魔法があったり、獣人がいるというだけで、世知辛さは似たようなもの。

 だから、というわけでもなかったが、今の生活で本当に辛いのは、ノドンに怒鳴られることでも、上がる見込みのない給料についてでも、鼠の出る倉庫でプライバシーのない寝起きを強いられていることでもなかった。


 生活が安定してくると、心に余裕が出てくる。

 心に余裕が出てくると、忘れていた現実的な欲望が、頭をもたげてくるのだ。


「……ゲーム、やりたいなあ……」


 唯一の趣味だったゲーム。

 しかし今のこの渇きは、ここにくる前に楽しみにしていた大作ゲームを、なんていう話ではなく、とにかく娯楽と呼べるものがほとんど存在しないせいだ。


 今ならどんなクソゲーだって楽しめるだろう。


 娯楽と言えばむさくるしい男たちによる荒っぽい賭け事ばかりで、とても知的ゲームを楽しむという感じではない。

 あとは酒か女か、という野蛮な世界なのだ。


 健吾にそのことを愚痴ったら、もさもさの髭を撫でた健吾は、こんなことを言った。


「俺は、筋トレができてるからこの生活でも幸せなんだよな」

「……」


 呆れていたのが顔に出ていたのだろう。


 こちらに気が付いた健吾は、咳ばらいをして言い直す。


「言葉が足りなかった。俺が言いたいのは、頼信だってあの瞬間に思わなかったかってこと」

「あの瞬間?」

「ほら、自分は死ぬんだ、というあの瞬間だよ。もっとああしておけばよかったとか、こうしておけばよかったって思っただろ?」

「……」

「それが、俺は筋トレなんだよな」


 健吾はプロジェクトの打ち上げの帰り道、酔って路上でポージングの練習をしていたら車にはねられたらしい。


 そんなことあるのかと思うのだが、前職の取引先で関係した、外資コンサルのツーブロックゴリラたちなら、そういうことをやっててもおかしくなさそうだなとは思った。


「だから俺は、あんまり不満ないし、むしろちょっとあの事故に感謝さえしている。本当にやりたいことを気付かせてくれたって言うか。頼信にも、そういうことあるんじゃないか?」

「……」


 自分はこの時、健吾に返事をしなかった。

 まあとかうんとか、適当に応えていた。


 気恥ずかしかったのが大きい。


 フラフラで赤信号にも気づかなかったのは、実は理由があった。

 ずっと辞表を叩きつけて、退職するところを妄想する現実逃避をしていたのだから。


 そして自由になった身で、やりたいことがあったのだ。


「ゲーム、作りたかったなあ……」


 賑やかな市場の片隅では、男たちが今日の稼ぎを賭けて単純なサイコロ遊びに興じている。

 戦略もなにもなく、ただ運否天賦の丁半博打。


 聞けば貴族階級にはチェスみたいなものもあるらしいが、自分が作りたかったのはもちろんそういうものではない。

 大規模経営シミュレーションゲーム、ノベルパート付きだ。


 大学生の頃にも一度挑戦して挫折した。

 口だけは一丁前のオタクどもが集まって、企画の際には大盛り上がりしたものの、いざ作業が始まるとグダグダになって崩壊するという、ありがちな、あれだ。


 その時にはまとめ役だったこともあり、苦労がトラウマになっている。それで社会人になってからは忙しかったのもあって、そのままになっていた、ささやかな夢。


 けれど仕事があまりに辛くなってくると、麻酔薬のように、ゲームを作って暮らす生活を夢見ていたのだ。


 ネットを見れば、学生のうちにインディーゲームで一発当てた人の話や、会社を辞めて一念発起してゲームを作った人の話なんかで溢れている。

 その手の夢物語に刺激され、膨らむ一方の設定と、世界観。


 仕事を辞めたら作り始めるんだと、準備だけはせっせと積み上げていた。


 車にはねられる直前、こんなことになるなら、会社なんてもっと早くに辞めて……と強く思ったのを、もちろん忘れるわけがない。

 そしてこの世界には、ゲーム製作エンジンも、パソコンもなく、電気すら存在しない。


 ボードゲームならば作れるかもしれないが、それにしたってきつい。

 勤め先が商会なので、ものの値段を調べるのには困らない。ボードゲームみたいなのを作ろうとするだけでも、相当なお金がかかると判明した。


 そもそもちょうどいいボール紙みたいなものはないし、絵を描くには細密絵師という貴族お抱えの職人たちに依頼せねばならず、絵具だってひっくり返るほど高価だ。


 生きていくだけで精一杯の日給銅貨二十枚では、とてもボードゲームを作るなんて不可能だった。

 貯金をしたって焼け石に水。


 となると、この世界でもまた夢をかなえることなんてできず、延々と低賃金労働の毎日ということになる。


「はあ……」


 自分の情けなさにため息をつく。

 前の世界なら、無料で高機能のゲーム製作エンジンに、無数の講義動画まであった。


 作ろうと思えばいくらでも作れたのだ。


 けれどいまさらそのことに気が付いても、前の世界に帰るあてはなく、働かざる者食うべからず。


 ぼんやりしていた自分は、重そうな荷車を引く獣人にぎろりと睨まれ、慌てて道を譲る。

 みんな生きるために働いている。

 自分も働かなければ。


 異世界無双だったなら、まただいぶ気持ちも違ったのだろうが、自分はここでもNPCだ。


 ひとまず手元の仕事を終えようと、領主の館を目指したのだった。


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