第25話 幸福の鐘

「あれ? ここ、どこだ?」

「勘二郎!」

 耳馴染みのある声が聞こえる。それと同時に、さっきまでの記憶が曖昧なことに気付いた。ただ、何処か真っ暗な世界を漂い続けたような、不思議な感覚に襲われていたような……そんな気がする。

「早く起きなさい! 気持ち悪い!」

「その声は、葵!?」

 西田は、上にのっていた掛け布団を跳ね除けて立ち上がった。辺りを見回すと、そこは葵と一緒の布団で寝た、あの部屋だった。部屋の状況は寝る前とあまり変わらないが、一つ違うことは、葵が隣ではなく目の前に移動し、立っているということだった。状況は全くつかめないが、葵が涙目でこちらを見つめている。いわゆる、感動の再会というやつだろう。

 ほぼ一日全く働かなかった西田の脳は、現世に戻ってすぐにフル回転していた。今だ、抱きつくチャンスだ。そう、信号を送り続けていた。

「あーおーいー」

 西田が両手を上げて、走って葵に向かっていく。すると葵は、満面の笑みを浮かべ……西田の左頬に全力でビンタした。それはそれはいい音がし、西田は再び布団に、うつぶせの状態で倒れこんだ。だがすぐに上半身を起こし、体をひねるようにして葵の方を見た。葵は、特に反応を示さない。

「痛いっ。え、なんで。え、え、え? なんかよく状況が分かんないけど、これっていわゆる感動の再会ってやつだよね」

「うん、そうだよ。あなたは六十六年ぶりに復活した鬼の力で、一度この世から存在が消えた。再会するのは、昨日の夜以来ね」

「え、そんなことになっていたの。教えてくれて、ありがとう。……って、そうじゃなくて。感動の再会って、普通嬉しいものだよね」

「そうね。私もいろいろ苦労して取り返したし」

 西田は葵の答えを小さな声で復唱しながら確認し、何度もうなずきながら、ゆっくりと立ち上がった。

「だよね。あ、ありがとう。俺のために色々頑張ってくれたみたいで。で、最後の確認なんだけど、感動の再会は普通嬉しいもの。なのに、俺はその場面で強烈なビンタを喰らっている。この矛盾は、どう説明がつくだろうか」

「確かに、島民全員が消えた時は必死になって取り返そうとした。色んな人のトラウマも探ったし、人の嫌がることをたくさんした。鬼のことは、許せないと思った。でも……」

 葵は、立ち上がっている西田の全身を、上から下までなめるように見た。西田は思わず恥ずかしくなって、手で体を隠そうとした。その時、重要なことに気付いた。

「でも、鬼にあんたが消されなかったら、私なにされてたんだろうと思って」

「違うんだ、葵。これはきっと、鬼の力による影響なんだ。だから……」

「いいからさっさと服を着ろ! いつまでパンツ一丁でいるつもりだ、変態!」

 そう叫ぶと葵は、襖を閉めた。嫌われたかもしれないと思う西田だったが、襖の閉まる直前に見えた葵の表情がどこか嬉しそうだったので、一安心した。

 襖をそっと開けて葵がいないことを確認した西田は、すぐに自分の部屋へ移動して服を着た。時計を見ると、午後八時を示している。その時間に、西田は違和感があった。

 この時間にしては、外が騒がしい。それに普段なら既に寝ているであろう――少なくとも外では遊ぶことが許されていないだろう小さな子どもたちの笑い声が、島のあちこちから聞こえるようだ。だがその理由は、直前に聞いた葵の話を踏まえて考えれば、西田にでも分かる簡単なことだった。

 急いで表に出る西田。そこには未就学児であろう子どもたちが、手を繋ぎながら歌を歌い、楽しそうに笑っている光景があった。普段ならこの時間にうるさくすると怒るであろう年配の人たちも、今はとても優しい笑顔で子どもたちの姿を見つめていた。

「また、平和な島に戻ったね」

 いつの間にか西田の背後に立っていた葵が、そう言った。西田は少し驚いた様子を見せてたじろいだが、すぐに心を落ち着けて、辺りを見渡した。西田に見える範囲だけでも、実に様々な人間模様が見えた。

 手を取り合って笑いあう子どもたち、それを優しく見つめる大人。お互いの無事が確認できて、歓喜の涙を流しながら抱き合う人。とにかく生きていることが信じられず、何度も自分の頬をつねって、夢じゃないことを確認する人。それを見て馬鹿にしている、頬の赤く腫れた人。

 ともかく、様々な行動をとる人で溢れていた。だが、全員に共通していることが一つだけあった。それは――

「皆、嬉しそうだな」

 西田がしみじみ言ったその言葉に、葵の顔が和らいだ。

 途中で散々迷ったが、一先ず今回の自分の行動は正しかったのだと、確信が持てたからだ。葵は、体の中から何かが湧き上がってくるのを感じた。普段なら自分の感情を押し殺せる葵だが、今回は一閃たりとも止めることができず、ただただあふれ出した。

 今ここからは見えないが、島の至る所で同じような光景が広がっているだろう。あれだけの絶望的な状態でもこの未来を諦めず、協力してくれた人たちの顔が、葵の頭に浮かんだ。皆もこの光景を見て、喜んでいるだろうか。どこかで、悲しみの涙は流れていないだろうか。

 そう考えてみると、葵はふとあの人たちがどうなったのか気になった。過半数は喜びの感情を持っているだろうが、残りの人たちは――奥さんを亡くした日向と人を殺した鬼頭、そして島民を消した張本人である只野は――この島の歓声を聞いてどう思うのだろうか。

 いや、その三人だけではない。あと少しでこの幸せを壊しそうになった聖は、突如として息子が殺人犯となった島長は、自分が生徒を苦しませ続けていたと知った神倉は、何を思っているのだろうか。

 気になった葵は、それぞれの人がいそうな場所に走り出そうとした。だが、呼び止められる声を聞いて、その足を止めた。声の主は、只野の子どもたちだ。

「おねえちゃん、こっちに来て一緒に遊ぼ」

 その声はとても元気で、その笑顔はとても明るかった。葵の足を止めるには十分だったが、元生存者たちの動向も気になった。葵はしばらく迷ったが、次の子どもたちの言葉を聞いて、ここに残ることを決めた。

「あ、パパだ!」

 俯き加減で重い足取りの只野に、子どもたちが駆け寄った。そしてそれぞれが手を取り、強く引いて先を急がせた。子どもたちは、はしゃいで気持ちが高ぶっていることと久しぶりにお父さんと会えたことが相まって、矢継ぎ早に話していた。手を引かれた只野は、子どもたちに愛想笑いと気の抜けた返事を返すだけだった。

 やがて駐在所に近づいてきた只野が葵の姿に気付き、子どもたちに優しく断りを入れてから手を離してもらうと、ゆっくりと歩み寄った。しばらく無言で葵の横に立ち、何度か深呼吸した。話し出すタイミングをうかがっているようだった。

 その間があまりにも長かったので、痺れを切らした葵から話しかけた。

「鬼頭さんはいいんですか? 一緒にいないで」

 葵はごく普通に雑談する感覚で話しかけたつもりだったが、自分が話す声を聞いて、声が震えていることに気付いた。それが怒りをぶつけられたように感じたのか、只野は挙動不審な様子で答えていた。

「あ、ああ。それなら大丈夫。あの様子なら逃げることも考えにくいし、仮にここから逃げるにしても、明日の朝一番のフェリーに乗るしかない。それは、僕が本土へ連れて行くにしても同じことだ」

「罪に耐えかねて、自殺するかも」

「日向さん。夏美さんを一緒に見た後、弔いに朝まで付き合ってもらうぞって、一さんにそう言ったんだ。これ以上の安心材料が、他にあるか?」

 只野は、会話の間一度も葵と目を合わせることが無かった。その目は、楽しげに遊ぶ子どもたちの方にだけ、向けられていた。

 少し離れたところから、只野の子どもたちが、只野や葵を呼ぶ声が聞こえる。だが、どちらもその歩を進めようとしなかった。

「行かないんですか? 子どもたちが呼んでますよ」

「僕は、あの子たちの存在を消した。もう全部元に戻したとはいえ、その罪が消えることはない。償うチャンスも、僕には無い。あの子たちと一緒に笑顔になる資格なんて、無いんだよ」

 視線を落とし、大きく溜息をつく只野。葵の目には、うつむく只野の上に、あの禍々しい手が見えていた。

「顔が真っ赤だよ。あなた、自殺するつもりでしょ。葵に助けられる前の私みたいに」

 二人の後ろから声が聞こえた、振り返ると聖の姿があった。

「聖さん、どうしてここに」

「葵にお礼を言いに来たの。島中を探すつもりだったけど、一番目の候補で見つけられたのは、まだ神に見捨てられてない証拠だね」

「君、遂にいつでも力が使えるようになったの?」

「さあ? それはまだ分かりません。でも一つだけ言えることは、今の私は仮に力が使えなくても、あなたが何を考えているか分かります」

 聖が、大げさなジェスチャーで肩をすくめながら首を傾げた。ハリウッド映画で、ムカつくキャラクターが人を馬鹿にする時の肩のすくめ方だった。そんなあからさまに挑発されているのに、只野の暗い雰囲気は変わらなかった。

「なんで、分かるんだ?」

「私と似ているから」

 苦笑する只野。図星を突かれたようで、その先の言葉は出なかった。

 続けて聖が、只野から楽しげに過ごす子どもたちへ視線を移して話す。

「確かに、一度あの笑顔を消したのはあなた。でも、元に戻したのもあなたでしょ。それに――」

 聖が、只野の肩に手を置いてその目を見つめた。只野は思わず体を硬直させ、固唾を呑んだ。どんなことを言われてもいいように、覚悟を決めたのだ。

「――これからあの子たちの笑顔を守っていけるのも、只野さんだけなんだよ。私のことはもういいけど、私の時と同じ失敗してあの子たち泣かせたりしたら、許さないよ」

 ほのかに微笑み、優しく諭すように言う聖。その言葉は、只野の中で壊れかけていた何かに届き、そっと建て直してくれた。

「もう二度と、この島に悲劇は生まない。絶対に、だ」

 そう言うと只野は、軽やかな足取りで子どもたちのもとに走っていった。左手しか使えないが、さすがの筋肉の持ち主。左手で一人を抱っこして、更にもう一人を抱っこしている手にぶら下がらせて、片手で二人の相手を同時にしていた。

 それを優しい笑顔で見守る、聖と葵。

「只野さんは、もう大丈夫だよね」

 唐突に、聖がそう言った。葵は答えに窮して、視線を下に向けた。それを見た聖は少し口角を上げ、更に続けた。

「公民館で石を投げられた時、私にあの手が見えないって言ったのはうそでしょ」

 葵は、何も答えない。

「……葵は優しいね。でも、それは本当の優しさなの?」

「……あんなに偉そうなことを言いましたけど、本当は少し、神倉先生の気持ちが分かります。でも、今なら本当のことを言えます」

 葵は落としていた視線を聖に向け直し、真っ直ぐ目を見つめた。その目の真っ直ぐさが、これから言う言葉に嘘が無いことを物語っていた。

「もう、誰にも手は見えません」

 ともに微笑みあう、葵と聖。そこに、只野の子どもが駆け寄ってきた。

「可愛いお姉ちゃん、一緒に遊ぼ。なんだが分かんないけど、今日はたーくさん遊んでいいって、パパが言ってるの」

 大げさに手を広げて、その喜びを表現する只野の子どもを見て、葵と聖の表情が緩んだ。次いで聖が空気を呼んでこの場を後にしようと背を向けたが、呼び止められた。

「あ。どこ行くの、きれいなお姉ちゃん。あっちでみんなで遊ぼうよ」

「え、私?」

 顔を指さしながら振り返る聖。

「そうだよ。はやくおいで! 先に可愛いお姉ちゃんと行って、待ってるからね」

 そう言うと、葵の手を引いて子どもたちが集まる場所に戻っていった。聖は、離れた場所からそれを見つめた。

 あんなに眩しい場所に、自分が交っていいのか――そんな風に聖が迷っていると、肩を叩かれた。肩を叩いたのは、突如始まった葵たちの謎の会話に付いて行けず、完全に空気と化していた西田だった。

「どなたか知りませんが、早く行ってあげたらどうですか。子どもたちが待ってますよ」

「いえ、私には楽しく遊ぶ資格なんてどこにも……」

「何を言っているんですか? 子どもたちから一緒に遊ぼうって、そう誘われたじゃないですか。それ以外に、一緒に遊ぶ理由が必要ですか。それに……誘われたあなたが遊ぶ資格が無いのなら、誘われてすらいない私は、また消え失せる必要がありますよ」

 聖はその言葉に突き動かされ、目の前の眩しい世界へ走っていった。いざそこに近づいてみると、そこは何も眩しくない、自分が普段いる場所と何ら変わらない場所だと気づいた。肩の力が自然と抜け、気が付けば子どもたちの輪に入って一緒に遊んでいた。

「それでも一緒に遊ぶのが嫌だというのなら、僕と向こうの人気のないところで過ごしませんか――って、いなーい」

 格好をつけてナンパすることに夢中だった西田は、何も言わずに聖が走り去ったことにまるで気付かなかった。ただ、恥ずかしさだけが残った。

「しまった。気の利いたセリフを考えるのに夢中で、顔もろくに見てなかった! でも大丈夫。あそこでみんなと一緒に遊んでいる中に、今の可憐な人がいるはずだ」

 そういうと、西田は全力で走り出した。そして半分ほど進んだところで、なんだか聞いたことのある言葉が聞こえてきた。

「かんじいちゃんは、こっちに来ちゃダメ!」

「んだと、ゴラァ!」

 小さな子どもの言葉に本気で起こる西田を見て、周囲の人たちは大笑いした。子どもたちは鬼ごっこが始まったと勘違いして、悲鳴を上げながら逃げ惑っている。西田が子どもを捕まえては声の主かどうかを尋ね、遂にその正体を突き止められなかった時には、更に笑いが起こった。


 六月七日、午後八時。隠鬼の島は、笑い声と歓喜の声に包まれた。それは、これからこの島が平和で幸せが溢れる島になることを予見させる、幸福の鐘の音そのものだった。

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