第21話 何が彼を突き動したのか

「……最初からこうしたかったわけじゃない。ただ、話がしたかったんだ。文彦とは昔、クラスのマドンナである夏美さんを取り合った仲だったし、俺もまだ夏美さんのことが好きだった。そのことを伝えたかっただけなんだ。でも、夏美さんがあまりに俺を邪険に扱うから……俺、ついカッとなって……。気付いたら、目の前に動かなくなった夏美さんがいて、俺は手に空のセメント袋を持っていた。俺は……俺は……」

 地面に座り込みながら、涙ぐんで言葉を詰まらせる鬼頭の姿に、周囲には同情を向けるような空気が流れた。

 拗らせた恋愛感情ゆえの、望まれなかった結末。被害者と加害者の両方にとって、悲劇だと思われた。

 だが葵は、そんな鬼頭に向かって冷たく言い放った。

「あの、嘘で同情を誘おうとするのはズルいと思います」

 その言葉を聞き、鬼頭は名前通りの鬼の形相で、葵を睨みつけた。

「何が嘘だって言うんだ」

「さっきあなたが話したことが、九割嘘だと言っています。多分、最初からこうしたかったわけではないことは、本音でしょう。でもこれは、計画的な犯行です」

 葵がそう言うと、日向が不思議そうに尋ねた。

「どうしてそう思うんだ? そう思う根拠を教えてくれ」

 日向の質問を聞くと、葵は只野の方に視線をやった。だが只野はその意図を理解できていないようで、戸惑ったように周囲を見回した後に葵の方を向き直すと、とぼけた顔で人差し指を自分に向けた。葵は小さく頷くと、話を続けた。

「夏美さんが誘拐されたのは、祭りの日の夜。夏美さんが日向さんを先に帰らせていることから、一さんは事前に連絡を送っていたことが分かります」

「だから、連絡を送った時はただ思いを伝えたかっただけで――」

 鬼頭が反論しようとするも、それを遮るように葵が話を続けた。

「そして祭りの日の前日、只野さんは島長に突然このようなことを告げられました。祭りの日は、本土の方で研修を受けろ……と。なぜ島長は、急にこんなことを言い出したのでしょうか? 鬼の力が復活する日の祭りなんて、特に駐在さんにいてほしいと思いますけど」

 葵がそう言うと、鬼頭は押し黙った。

「私は、そんなことを言った覚えはありませんが」

 葵の話を聞き、島長が口を開いた。それを聞いた只野は、声を張り上げて言った。

「そうか。確かに僕は、島長がそう言っていると一さんから告げられただけで、直接は聞いていない。一さんは、最初から夏美さんに何らかの危害を加えるつもりだったから、僕をこの島から遠ざけたかったのか」

「てめぇ! どこまでもふざけた真似を!」

 日向が声を荒げて、鬼頭の胸倉に掴みかかった。鬼頭は最初こそ顔を伏せて日向からの罵声を浴びていたが、やがて顔を上げた。その顔は、笑顔だった。

「ほら見ろ。やっぱりお前は、夏美にふさわしくない」

「どういう意味だ」

「そのままの意味だよ!」

 鬼頭はどんどん顔が険しくなり、日向の胸倉を掴み返した。お互いが両手で力強く胸倉を掴むさまは、まさに一触即発の雰囲気だった。今にも、どちらかが殴り掛かりそうな勢いと気迫がある。そのあまりの気迫に、周囲の人間は黙って見守ることしかできなかった。

「お前みたいな短気な奴が、あんなにおしとやかで心優しい夏美と釣り合うわけがないだろ。俺の方が、あいつにふさわしい男なんだ。周りからも、そう言われた。お前の結婚式の時に、クラスメイトたちから、夏美はお前と結婚すると思ってたって。文彦を選んだ夏美は、バカだってな」

 鬼頭が日向の胸倉を掴む手に、より一層力を込めた。鬼頭の勢いがどんどん増し、日向が徐々に押され始めていた。加害者が被害者遺族を責め立てる。そんな一般的には構図が逆になるだろうと思われるような異様な光景が、ここには広がっていた。

「夏美は、俺と結婚するべきだった。なのにあいつは、お前を選んだ。何故だ? 俺がお前に負けている所なんて、何一つ無いのに。家柄だって、学歴だって、財産だって……全部俺の方が上なのに、なんでお前に負けなきゃいけないんだよ」

 激昂して喚き散らす鬼頭を見て、日向は胸倉を掴むことを止めた。両手を力なくぶら下げ、抵抗を諦めたかに見えるその姿は、長い年月や周囲の言葉が旧友を変貌させたことを嘆いているかのようだった。

 その態度を見た鬼頭は、更に激昂し、日向の左頬を殴りつけた。鈍い音が響き、日向は口から血を吐いた。それを見た只野は、使命感からか咄嗟に立ち上がり、間に入ろうとした。だがそれを、日向が手を差し出して止めた。

「順番が回ってきただけだ」

 日向はそう言うと、鬼頭の無慈悲な拳を受け続けた。頬が腫れ、周囲に血がまき散らされる。それでも鬼頭は殴るのを止めず、日向も抵抗しなかった。

 やがて鬼頭は殴り疲れたのか、日向を力強く殴り飛ばした後に、地面に倒れるように座り込んだ。日向は四つん這いの状態で、咳込んで口から血を吐き出し、苦しそうに悶えている。それを見た鬼頭は鼻で笑った後、たっぷり皮肉を込めた口調でこう言った。

「どうした? わざわざお前が得意な分野の、暴力で勝負を挑んでやったんだぞ。やり返して来いよ。お前が夏美にしたみたいに、暴力で俺の意思を曲げて見せろよ!」

 日向は四つん這いになりながら血を吐いていたが、やがて立ち上がり、鬼頭の方を真っ直ぐ見据えた。

「お前、俺が夏美に暴力をふるって無理やり結婚させたって……それ、本気で言ってるのか」

「ああ、本気だよ。だって、それ以外にないだろ。俺じゃなくてお前を選ぶ理由が」

「それが無理だということは、今のお前が一番よく分かってるんじゃないか?」

「どういう意味だ」

「……そういうところだぞ」

 日向の声には、呆れと諦めの両方の感情が入り混じっているようだった。鬼頭はそれを聞き、少し動揺したような素振りを見せてから、再度日向に食って掛かった。

「なにが、そういうところだぞ……だ! お前はズルをして、俺から無理やり夏美を奪った。夏美は、そのせいで不幸に――」

「学生時代を思い出せよ! お前と夏美が付き合っていた頃、あいつは幸せだったのかよ」

「当たり前だろ! 俺はあいつにすべてを与えた。あいつのために、尽くして尽くして、尽くし通したんだ! それなのにあいつは……あいつは」

「……このことは、夏美から口止めされていたんだ。でも、こうなるくらいなら……お前が多少傷ついても、話しておくべきだった」

 日向は落ち着いてそう言い、視線を落とした。鬼頭は地面から、日向を見上げる。空には葵が話していた頃とは違い、いつのまにか、また重たい雲がかかっていた。局所的にかかる今にも雨が降り出しそうなその雲は、地面に暗く影を落として、すべての光を遮断したかのような暗闇を作り出した。

「なんだよ……何を隠してたんだよ」

「確かに夏美は、お前に対して何の不満もなかった。いや、島長の息子だからって鼻高々なのは若干腹立たしいとは言っていたが、それでも別れる理由にはならないくらいだった。でも、それが我慢ならない連中が、クラスメイトにはいたんだ。お前も、心当たりがあるだろ」

「ああ、一馬だろ。しょうもないことで俺に突っかかってきてたな」

「いや、一馬だけじゃない……」

 そこまで言って日向は、話を中断した。下唇を噛み、両手の拳を強く握りしめた。力を籠めすぎて全身が激しく震えていた。

「なんだよ! 早く言えよ! 他に誰が――」

「全員だ」

 日向のその言葉が、鬼頭は全く理解できなかった。ただ呆気にとられ、日向を見つめることしかできなかった。

「俺と夏美以外の全員から、お前は嫌われていた。お前は神経が図太すぎて全く気にも留めていなかったようだが、クラスメイトから随分と嫌がらせを受けてたんだぜ……。だから、夏美がお前と付き合っていることがクラスメイトに知られた時、標的が変わったんだ。嫌がらせをしても全くダメージの無いお前から、繊細で簡単に潰せそうな夏美にな」

 鬼頭は変わらず日向を見つめていたが、その目からは徐々に生気が抜けていくように、輝きを失っていっていた。だが、心なしかその表情は、先ほどまでよりも柔和になっているような気がした。

「そのことに気付いた俺は、夏美を助けようと思って話を聞き、すべてお前に話すべきだと告げた。でもあいつは、ほとんどのクラスメイトから嫌われているなんてこと、一君に言えるわけないでしょって……そう言ったんだよ」

 日向の目から、遂に涙が零れた。口元の血と交じり合い、仄かに赤く染まったその涙は、真っ直ぐに地面に落ちた。鬼頭は日向から顔を背け、仄かに赤い染みが広がるその地面をただ見つめていた。

「やがてあいつはいじめに耐えられなくなって、お前との別れを決意した。そして、いじめに気付いていた俺が、その隣にいるようになった。最初は夏美を助けたい一心だったが、それは月日を重ねる内に恋心へと発展した。そして俺はあいつに――」

 日向が、言葉を詰まらせる。それを見た鬼頭は、力なく、うわ言のように語り始めた。

「気づいてたよ……夏美がいじめられていることは。だから俺は、態度を改めて誰にでも丁寧に接するようにした。自分を殺し、周囲の人間の反応をうかがって気遣い、誰にも嫌われないように振舞った。それでも、俺の手元には何も残らなかった。結婚式で言われた言葉だって、マドンナを手に入れられなかった俺へのあて付きだって、分かってた。分かっていたけど……その時、悪魔が俺にこう囁いたんだ。


 ――本当は、こいつらの言うことが本当なんじゃないか。お前は文彦に、何一つ負けているところはない。奪われたままでいいのか? 不当に奪われたものを、そのままにしていていいのか? 奪い返せ。どんな手を使ってでも、奪い返せ。お前が、夏美を幸せにするんだよ――


 でも、すぐにはその悪魔の言葉に負けることは無かった。二人の幸せを邪魔したくない俺もいた。夏美の幸せを……俺といる時には見せなかった夏美の笑顔を……壊したくなかったんだ。

 だけどさぁ、悪魔に一年近く耳元で囁かれ続けたら、だんだんその気にもなって来るんだよ。あいつは、俺の心をすべて理解している。俺の聞きたいこと、言ってほしいこと、心の片隅で妄想していること……全部全部、俺の心の隙間を埋めてくれることだけを言ってくれた。でも、その隙間を埋めて新しく芽生えたのは、どうしようもなく黒くて熱い、ただの醜い嫉妬心だった。

 幸せを壊したくないもう一人の俺も、懸命に抵抗を続けた。続けたんだ! でも心は次第に、その嫉妬心で染まっていった。そしてあの日、俺は夏美を呼びだして、あの椅子に縛り付けた。監禁して、俺のもとへ心を戻そうとしたんだ。それが真実の愛でないことは分かっていたけど、その時にはもう、自分の体が自分のじゃないみたいで。気が付けば俺は、椅子に縛られて怯えている夏美を見て、笑っていたんだ。もうすぐ俺のものになるって、本気でそう喜んでいた。

 そんな自分に気付いた時、もう一人の俺は最後の抵抗に出た。夏美からはっきりと嫌われていることが分かれば、嫉妬心に駆られた俺を止めることができると考えたんだ。だから俺は言ったんだ。俺のことを、嫌いだと言えって。そうすれば、きっと俺も止まれるからって。でも、夏美は……」

 鬼頭がそこまで話したところで、空からいくつかの雨粒が、音もなく鬼頭の周辺にだけ落ちたようだった。その雨粒はとても大きかったようで、鬼頭の正面に位置する近くの地面に、どんどんとその染みを広げていっているようだった。

「……夏美がそんなことを言えるわけがない。夏美はお前の唯一の理解者で、一番優しく接してくれた人だったよ。……今までは」

 日向は、優しい口調でそう言った。鬼頭の雨が、どんどん強くなる。それでも鬼頭は、日向との問答を続けた。日向の方を向き直ることは無かったし、雨もその激しさを増すばかりだったが、二人の間には落ち着いた時間が流れた。まるで見えない誰かが、間に入って取り持ってくれているようだった。

「今までは?」

 ようやく鬼頭が、言葉を振り絞った。日向は、鬼頭の方を真っ直ぐ見据えたまま言った。

「これからは、その役目を俺が引き継ぐことになる。学生時代は、暴走しそうになった俺を散々止めてくれたからな。今度は、俺が一を受け止める番だ」

「お前たちは……どうしてそんなに優しいんだ……」

 日向は涙を袖で拭き、鬼頭がこちらを向いたことを確認してから、手を前に突き出してガッツポーズをし、笑って見せた。鬼頭はそれを見て、少し口角を上げた。そして、同じポーズをとった。間を取り持った誰かは、もういなかった。

「それにしても文彦、結婚して随分丸くなったのか? 俺に手を出さないなんて」

「……夏美にプロポーズしたときに、永遠の愛と一緒に、今後一切暴力行為をしないことって、誓わされたんだよ」

「変わらなかったのは、俺だけか……ごめんな、夏美。俺が……俺がお前の優しさを受け止められれば……こんなことには……」

 それ以上鬼頭は何も口にせず、地面に伏せた。

 「嫌いだと言え」と泣きながら夏美の最も嫌がる暴力に訴え出る自分、真一文字に結ばれた夏美の口、地面に落ちる仄かに赤い涙、そして「一君のこと嫌いだなんて……そんな噓、私にはつけないよ」という夏美の声。

 鬼頭の頭の中は、後悔の念とあの日の記憶で埋め尽くされ、夏美の最後の言葉と今しがた言われた日向の優しい言葉が、いつまでも頭に響いた。そのすべてが、鬼頭を苦しめた。そして鬼頭は断末魔のような声を上げ、微塵も動かなくなってしまった。日向は地面に伏せた鬼頭の隣に座り、ただ黙って、その背をさすっていた。

「なあ。一つ気になるんだが、一さんはなんで死体をそのままにしたんだ。周りの血痕は隠したのに、死体をそのままにしたのはどうもおかしいと思うんだが」

 只野が左手を上げ、遠慮がちに言った。だがその問いかけに、鬼頭は応じなかった。ただ地面に伏せ、時が過ぎるのを待っていた。それを見た葵が、その問いに答えた。

「きっと、できなかったんだと思います。ご遺体を隠せば、日向さんと夏美さんは最後のお別れができませんから。それが二人の幸せを願った一さんの……最後の抵抗だったんだと思います」

 空に巨大な闇をもたらしたあの雲は、もう風に流れて消えていた。再び温かい陽光が差し込み、辺りを温かく包んだ。

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