第10話 少女は悩む

「もう、大丈夫か?」

 只野がジュースを差し出しながら、葵に尋ねる。葵はジュースを受け取り、少し飲んで、一息ついてから頷いた。まだ本調子というわけではないが、少しは落ち着いた様子を見せる葵に、只野は少し安心したようだった。

「工場に、戻りましょうか」

 葵が、そう呟いた。只野は葵が正気を取り戻すために肩を貸して、工場から少し離れた公園に移動させていた。そこは緑がとても多く、木陰のベンチに座ればいつも気持ちのいい風が吹くような、落ち着きたいときにはもってこいの場所だった。

「もう少し、休もう。まだお昼の二時だ。日没までは余裕がある。無理をして、三神さんが動けなくなる方が、私たちにとっては困るから」

 そう言うと只野は、公園の入り口にある自動販売機へ戻っていき、自分の分のコーヒーを買って、葵の隣に座った。心地良い風が、二人を包み込む。

 島民が消えるという事件が無ければ、なにより幸せな時間だっただろう。だが、今の二人にはその余韻を楽しむことなどできなかった。ただただ、不安だけが心の中にあった。

 ――まだ見に行っていない場所でも、見えてはいけないものが見えるかもしれない。ひょっとしたら、既に全員――そんな悪い予感が、葵の頭を駆け巡る。

「――もし、消えた皆がすでに向こうの世界にいっているのだとしたら、私たちが今しているこの調査は、意味があるんでしょうか。被害者が戻ってこない中で犯人を特定するだけなんて、ただの自己満足ってやつじゃないんでしょうか」

 すっかり弱気になった葵のその哲学的な疑問に、只野はどう答えるべきか思案した。自分の答え次第で、この島の……葵の、運命が決まるような気がした。

「僕たち警察も、たまに分からなくなることがあるよ。被害者の命が既に奪われている場合、どれだけ苦労して犯人を捕まえたところで、被害者が救われるわけじゃない。被害者の遺族が救われるなんてことを言う人もいるが、大切な誰かを失った傷を癒すことなんて、誰にもできない……。だから確かに、犯人を捕まえることは警察や探偵、部外者にとっての自己満足でしかないのかもしれない。でも、三神さんは違うんでしょ」

 葵は、顔を俯かせたまま話を聞いていた。

「三神さんは、成仏し損ねた人が見える。――それはつまり、被害者の姿が見えているってことだよね。僕たち警察はそれが見えないから、犯人を捕まえることが被害者のためになっているか分からない。でも、三神さんにはそれが分かる。だって、犯人を捕まえたことで被害者が見えなくなったら、その人の未練はなくなった……思い起こすことなく、向こう側の世界へいけたってことなんだから」

 俯いたままの葵。辺りは雲一つない晴れ間になっているのに、地面が僅かに湿っている。只野は、更に続ける。

「俺も、その能力が欲しいよ。人に見えないものが見えることは辛いこともあるだろうけど、自分が今していることが正しいのかどうかは知りたい。物理的にその人を助けることができなくても、精神的に助けることができたのか……僕は、それが知りたい」

 しばらく、二人の間に沈黙の時間が流れた。どちらも、口を開くことは出来なかった。思春期の女の子にはあまりに難しい、答えのない問題。そこから抜け出すこと、抜け出させることは容易ではなかった。

 すっかりジュースがぬるくなった頃、葵は手に持っていたジュースを一気に飲み干した。そして只野の方に向き直り、力強い目を向けた。

「戻りましょう、工場に。あの人を、助けるために」

 只野は頷き、力強く立ち上がった葵の後へ付いていった。ベンチの下の地面は、もうすっかり乾いていた。二人の背中を押すように、心地良い風が吹く。

 二人は、工場の目の前まで戻ってきた。変わらずそこには、あの女性がいた。

「三神さん、聞いてもいいかな。その……君には何がどんなふうに見えるの?」

 只野が目を伏せがちに、遠慮しながら聞いた。葵は、少し間を取ってから答えた。

「女性が、少し微笑みながら立っています。口を開いたり閉じたりしていますが、私には声が聞こえません。姿が見えるだけです」

「その姿っていうのは、やっぱりこう……怖い見た目してるのかな。映画に出てくるような、お化けみたいな」

「そう見えているなら、私はとっくに精神を病んで、病院のお世話になっていると思います。でも私には、おそらく生前の姿で見えています。とてもきれいな姿のまま、まるでまだそこに生きてるように見えます。そこだけは、よかったと思います」

「なら、よかった。じゃあ、僕は中を調べてくるから、三神さんはここで待ってて」

 一人で工場の中に入ろうとする只野だったが、右手の袖の辺りを急に掴まれて驚き、素っ頓狂な声を上げた。

「あ、ごめんなさい。掴んだのは私です」

「三神さんか。びっくりした。そこに立っているっていう女性に掴まれたのかと思った。……で、なに?」

「私も、一緒に中を調べたいです」

「……いや、中がどうなっているか分からないし……ひょっとしたら、病院にお世話にならないといけなくなるような、残虐な現場かもしれないから」

 葵は、さらに袖を強く引っ張った。

「お願いします。ちゃんと向き合うって、そう決めたんです。もう逃げたくないんです」

「分かった、分かったから。一緒に行こう。だから、そろそろそれ離してよ」

 只野は、袖口に目線をやりながら言った。葵はすぐに手を離し、謝罪した。

 只野の後に続いて、恐る恐る工場に入る葵。手や足が小刻みに震えていたが、その目はまっすぐ前を向いていた。

 しばらく閉鎖されていたためか、工場の中は湿気や嫌な臭いが充満していた。コンクリートを作る設備類は節々が錆びていて、閉鎖気味であることを物語っている。床には、操業していた頃の名残であろう、零れたコンクリートが乾いたような箇所が点在していた。

「機械類は、随分古くなっているな。これなんて、手で簡単に分解できそうだ。うまくパイプ部分だけ外せれば、武器になるかもな」

 只野が機械の支えに使われている鉄パイプを揺らし、どれだけ脆くなっているのかを確認しながら言った。証拠隠滅に工場の機械類が使われたことも考えて、入念に痕跡が残されていないかを調べているようだ。

 しかし、何か事件につながるような、血痕などの痕跡は特に見当たらなかった。そうしてどんどん奥に進んでいくと、最奥に他の部屋より少し明るい部屋があった。天窓があるらしく、上から燦燦と太陽の光が入ってきていた。

 そしてその部屋の真ん中に、火の光に照らされて輝く一脚のパイプ椅子と、それを囲むように円状に結ばれたロープが置かれていた。その周りには、不自然なくらいに固まったセメントがある。よく見るとセメントの一部が掠れていたので、葵と只野は二人して屈み、そこに目を凝らした。

「これって……」

「ああ。血の跡だ」

 掠れたセメントの下には、何か赤くこびりついたものがあった。只野はその経験と知識から、それが血痕であると結論付けた。

「じゃあ、この椅子とロープはなんなんでしょう」

 辺りを見渡し、少し考える只野。やがて口を開いた。

「ただの推測でしかないが、誰かがこの椅子に縛り付けられていたんじゃないだろうか。このロープは、椅子に座らされた人に巻き付けられる形で使われていた。だから、円形に結ばれている」

「じゃあ、縛られてたのは……」

「三神さんが見た、あの女性だろうね」

 葵は、少し視線を落とした。だが、すぐに目線を上げて会話を続けた。

「この人は、いつ向こう側の世界に行ってしまったんでしょう」

「分からない。ただ、この周りにあるセメントがすべて血痕を隠すために上塗りされたものだとしたら、この量の出血をした時点で、おそらくもう……」

「でも、ロープが結ばれたまま落ちてます。なんとかロープから抜けて、逃げられた可能性はないんでしょうか」

「その可能性も、もちろんある。ただ、表に成仏し損ねた被害者がいる以上、それは希望的観測にすぎない。彼女は鬼の力が使われる前に亡くなり、その後鬼の力で亡骸が消えた。だから一人だけ成仏し損ねているし、ロープも結ばれたまま放置されている。そう考えるほうが、自然だ」

 只野が、冷静に状況を見ながら話す。その姿はさすが警察だと言わざるを得ない、見事なものだった。

「なるほど……」

 少し釈然としていない様子の葵。

「三神さん、何か気になるところでもあるの?」

「いえ、只野さんの推理に賛成です。ただ……“きぼうてんたいかんそく”? て、なにかと思ってただけです」

「希望的観測、ね。まあ要するに、いい方向に考えすぎってこと」

「あ、そういう意味なんですね」

 大人顔負けの推理力や言葉遣いから忘れていたが、葵はまだ中学生であることを思い出した只野。

「あの、これまで僕が話してたこと分かった?」

「所々意味の分からない言葉はありましたが、全体的な意味としてはたぶん大丈夫です。読解力はある方だと、自負しています」

「ごめん。三神さん、まだ中学二年生だもんね。忘れてた。次からは気を付けるね」

「十三歳の、中学一年生です」

「あ、そうだったんだ。……え、いや。あの……え? 中学一年生って。あ、そうか。かんちゃんはもう誕生日だから十四歳なだけで、中学二年生なわけじゃないのね。あ、中学一年生。へぇー、最近の子は大人びすぎてて、年齢が分からないね」

「あの、私のことはどうでもいいです。それより、更に詳しく調べましょう」

 葵の年齢を聞いた瞬間の只野は明らかに動揺していたが、その後の調査では、また見事な警察の姿に戻っていた。

「血液は凝固してるけど、腐敗は進んでいない。ここに血液が付着してから、一日くらいしか経ってないだろう」

 相変わらず難しい言葉を使う只野に嫌気がさす葵だったが、話の腰を折らないように会話を続けることにした。

「……じゃあ、お祭りの日にあの人はここに捕まっていた。そういうことですか」

「……多分な」

 他にも詳しく調べようとしたが、これ以上は専門的な薬や機械が必要だということで、調査は中断された。二人は、工場を出た。

「この人、いったい誰なんでしょうか……」

 工場の前で、葵が見えない女性を見つめながら言う。只野もそちらに目をやるが、やはり何も見えない。影も形もない。

「僕が見えたら、誰か分かるかもしれないのにね」

「はい。生前の姿ですから、きっと見る人が見れば分かるはずなんです」

 葵がそう言ったとき、只野が何かを思いついたかのように手を叩いた。葵はその音に驚いて、思わず尻もちをついてしまった。その姿を見た只野が謝りながら手を差し出し、葵はその手を掴んで立ち上がった。

「それで、何か思いついたんですか?」

「ああ、思いついた。三神さんが生前の姿で被害者が見えているなら、役所に行って顔写真付きの公文書とかを見せてもらおう」

「そんな都合いいもの、ありますかね」

「色々あるだろうけど、特に最近流行りのマイナンバーカード申請書なんてどうだろう。顔写真や名前、住所までなんでもござれだ。きっと、見つかるよ」

 二人は、さっそく役所に向けて走り出した。

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