第9話 視えてはいけないもの

 二人はしばらく無言で、当てもなく、メインストリートを南に向かって真っ直ぐ歩いていた。二人のどちらとも、口を開こうとしなかった。

「さてと」

 島の南端の松戸神社まで辿り着いた頃、葵が分かりやすく気を取り直すための呪文を唱えて、後ろにいた只野の方へ顔を向けた。

 表情は明らかに作った笑顔で、無理をしているのが誰の目に見ても明らかだった。

「只野さん、まだ見ていない西側に行きましょう。なにか手がかりがあるかもしれません」

「無理しなくていいよ。少し休んでも、罰は当たらないだろ」

「駄目です。時間に余裕があるわけではありませんから、一分一秒でも無駄にするわけにはいきません。私が精神的に凹もうが、体力が限界になろうが、消えた皆さんに比べれば、全然問題ありません」

 葵は右の拳を握りしめ、笑顔でガッツポーズを決めた。その笑顔には明らかに疲れが見えていたし、ガッツポーズもどこか腑抜けた印象をもつものだった。どこをどう切り取っても空元気にしか見えなかったが、只野は一度溜息をついて首を左右に振った後は、それ以上何も言わなかった。ただ、葵の後ろに黙ってついていった。

 西南エリアを二人で回り終えた頃、葵が話し始めた。

「島の東側と西側では、随分景色が違いますね。災厄の鐘から眺めた時も思いましたが、実際に見てみるとこんなにも違うなんて」

 葵の主観でしかないが、この島の東側は人口が減少傾向にある離れ小島、というイメージにぴったりだという印象をもった。しかし西側はどこかそのイメージと合致しない、違和感のある風景が広がっていた。

「ああ。島の東側は民家や小さな商店が多くて、西側は少し大きめの工場があるからね。周りにある家も、そこの従業員が近くに住めるように、余った土地に無理やり詰め込んで建てているから、小さい家が多いしね」

「何の工場があるんですか?」

「さっき見た西南エリアの工場は、特産品の鬼瓦を作ってる。そしてこれから行く北西エリアには、最近閉鎖気味のコンクリート工場があるよ」

「閉鎖気味?」

「この島狭いから、新しく建てるものは滅多にないからね。昔はいろいろな建物を建てまくってたから、結構忙しかったらしいけど、今じゃね」

 時折雑談を挟みながら、二人は例の閉鎖気味のコンクリート工場がある、北西エリアを歩き始めた。

「ところで三神さん。そんなに落ち着いてるってことは、西南エリアでも、まだ何も見えてないってことだよね」

「はい。成仏し損ねた人は、一人もいません」

「なら、よかった。あの鬼伝説で言われていることは、本当だってことだよね。鬼さえ観念すれば、全部元に戻る。これまでの、平和で静かな、皆が安心して暮らせる温かい島に」

 只野は安堵したように息をつき、さっきまで緊張で上がっていた肩を下ろした。葵は安心するにはまだ早いと思ったが、その気持ちが分からないわけではなかった。だから自分の中で今できる最大限の愛想を振りまきながら、只野を元気づけることにした。

「そうですね。だから、全力で鬼を探しましょう」

 今できる最大の笑みを伴った葵のその問いかけに、只野は答えなかった。それどころか、視線すら合わなかった。一抹の空しさが、葵を襲う。そんな中只野は、あごに手を当てて視線を落とし、何かを考えこんでいるようだった。

「只野さん?」

 先ほどの空しさを吞み込んで、葵が遠慮気味に名前を呼ぶと、ようやく只野は自分が話しかけられていることに気付いた。

「あ、ごめんごめん。考え事をしてて」

「何を考えてたんですか」

「いや、見込み捜査はまずいからさ。他に鬼候補がいないかを考えていたんだ。でも、島民を全員消さなきゃいけない動機を持った人間なんて、中々いないもんだね」

 その言葉を聞き、葵の表情が曇った。先ほどまでの愛想の良さは空の彼方に消え失せ、冷静に推理を披露する、あの大人の顔を覗かせていた。

「……本当に犯人の目的は、島民を消すことだったのでしょうか」

 思いがけない葵の言葉に、只野は息を吞んだ。左手で髪の毛を整え、櫓の時のようにリラックスした。しかしすぐに強い風が吹きつけて、整えた髪の毛が崩れた。

「なにか核心に迫っているような、意味深な発言に聞こえたけど……ひょっとして三神さんは、誰が鬼か分かってるの?」

「いえ、まだそこまでは。ただ、鬼ではなさそうなだと思う人は何人かいます」

「例えば?」

「一番は、聖さんです。あの人は、おそらく鬼ではありません」

 葵は、力強い目で答えた。その目は、自分の推理に絶対の自信があることを示すのに十分すぎるくらいだった。只野は再び髪の毛を整え、葵の方へ向き直った。

「どうしてそう思うか、教えてくれるかな」

「聖さんは私たちが集まっているところに、最後に現れました。それが不自然なんです」

「それのどこが不自然なの」

「あのまま聖さんが隠れていたら、誰もその存在には気づかなかったと思います。それは、鬼にとってはとてつもないチャンスです。だって、見つからなければ聖水を飲まされる心配はないし、誰かから復讐される可能性もない。聖さんの言う通り島民に復讐したかったなら、あのまま隠れて、日没をやり過ごす方がいい選択だったはずです。でも、出てきた」

 葵の大人顔負けの推理力に、只野は脱帽した。三度強い風が吹きつけて、只野の髪を乱した。だが只野は、もうそんなことが気にならなくなっていた。只野はしばらく聖が出てきた時のことを思い出してから、葵に疑問をぶつけた。

「でも三神さん。それは、彼女が鬼伝説を詳しく知っていたことが前提の話だよね。もし彼女が、日没や聖水のことを知らなかったらどうだろう。現に三神さんが彼女に手遅れじゃないと反論したとき、彼女は驚いた様子だったよ」

「それは、島民じゃない私が言い出したことに驚いたんだと思います。知るはずがないと思っていた私から、さも何か知っているかのような言葉が飛び出したから。だから公民館に行ってからは、特に反応がありませんでした。島民にも知られていない内容が書かれた、島長の出しあの本が読まれても。それに、仮にも鬼から島を守るための神社の娘さんです。子供のころから、鬼伝説の話はたくさん聞かされていると思います」

 只野はそれを聞いて、更に質問や反論をしようと思ったが、何一つ思いつかなかった。葵の推理は、全く穴のない完璧なものに思えた。

「……君、本当に中学生? 十歳くらい……いや、三十歳くらいサバ読んでるでしょ」

「美魔女が過ぎませんか」

「……自分のこと、可愛いとは思っているんだ」

「そういう意味じゃ、ありません!」

「ふふっ。よかった。ようやく、最初にあった頃くらいまで調子が戻ったね」

 只野は、微笑みながら言った。葵は頬を少し赤くしながら、わざとらしく辺りを見回した。でも、只野の方には一切顔を向けなかった。耳まで赤くしながら顔を手で仰ぐ葵を見て、只野は微笑んでいた。それはさながら、娘を見守る父親の顔だった。

 その時、葵が突然立ち止まって大きな悲鳴を上げた。そして両膝から崩れ落ち、へたり込んでしまった。只野が慌てて近くに駆け寄り、肩を抱いて体を支える。

「どうした。何があった!」

 強く問いかける只野だったが、葵は返事をしなかった。その目は例のコンクリート工場のほうに注がれ、ただ虚空を見つめていた。

 全身には力が入り、音を立てて震えていた。尋常ならざるその様子は、まるでこの世の終わりでも見たかのような、とてつもない絶望を体現していた。

「まさか……」

 只野が何かを察したようにそう言うと、葵が震える左手で只野のシャツを強く引っ張り、囁くような、小さくか細い声で答えた。

「こっちをじっと見てる。少し笑ったような顔で、ずっと見てる。キレイな人……でも、只野さんには……見えてないんだよね。あれは、私にしか見えない人なんだよね。なんで、ここに。まだ助かる方法があるはずなのに……他の皆は誰も、そうなっていないのに。なんで、あなただけ……なんで」

 うわ言のように様々な言葉を呟く葵を、只野はただ強く抱きしめた。気の利いたこと、葵を安心させるようなことを言おうと頭脳を総動員したが、この状況で咄嗟にそんな言葉が出てくるはずもなかった。

「大丈夫。大丈夫だ。その人だけ、たまたま何かが原因で亡くなっただけだ。そうだ、思い出した。確か駐在所の記録で見たぞ。あの工場ができたての頃、機械の中に人が巻き込まれる事故があったそうだ。確か被害者は若い女性で、眼鏡をかけていた。その人が見えてるだけだろ? 機械の中に突然巻き込まれたら、成仏なんてできないよな。この世に、未練たらたらだよな。な、そうだろ。眼鏡かけた女の人だろ」

 葵は、力なく首を横に振る。

「……大丈夫。大丈夫だ。他の人は見えないんだから……その人が助けられなくても、他の人は助けられる。かんちゃんも、きっと助けられる。僕の子供たちだって、妻だって。島中がまた、笑顔で溢れるから。平和になるから。大丈夫……大丈夫だから――」

 震え続ける葵を抱きしめながら、只野は何度も大丈夫と唱え続けた。途中から、自分でも何を話しているか分からなくなるくらい支離滅裂な話をしていたが、それでも無言になるよりはましだと考えて声をかけ続けた。

 工場に佇む見えない女性は、不気味な微笑を浮かべながら二人のことを、ただ見つめていた。


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