第5話 消えた島民

 六月七日、午前九時十五分。葵が目を覚ますと、横に西田の姿はなかった。慌てて飛び起きた葵だったが、昨日の朝のことを思い出して、少し冷静さを取り戻した。

「また、一人だけ起こされたんだよ。そう、そうに決まってる」

 自分に言い聞かせるように何度もそう言いながら頷き、出来るだけゆっくりと下の階に降りて行った。だが、昨日は中腹辺りで聞こえた賑やかな子供たちの声が、今日は一切聞こえてこなかった。

 慌てて残りの階段を駆け下りる葵だったが、降りた先には誰もいなかった。先にどこかへ外出した可能性も考えたが、居間にはあまりに生活感が無かった。朝食を食べた形跡もなければ、子供たちが着替えた形跡もない。自分が最初に降りてきたように思えた。しかし、他のどの部屋にも人の気配がない。葵は焦りながらも、駐在所のほうを覗いた。

 駐在所の中は昨日只野を見送った時の状態から変わっておらず、葵が安心できる材料はなかった。だが、不安になる材料なら山ほどあった。

 目の前にある豆腐屋のシャッターが閉まっており、営業していないこと。道を歩く人が、見える範囲に誰もいないこと。そしてなにより、誰の声も、生活音も聞こえないことだった。それでも、葵は様々な可能性を考え、島民全員に何事も起きていないシナリオを考えようとした。

 祭りで夜更かしした島民たちが、全員寝坊した可能性。自分が知らないだけで、祭りの翌日は外出しない風習がある可能性。あるいは何かの儀式のために、島民だけがどこかに集められているのかもしれない。

 とにかく、様々なシナリオを頭の中で考えた。現実的なものから非現実的なものまで、自分の心配が取り越し苦労で済む、ありとあらゆる可能性を考えた。

 そんな時、そのどのシナリオも違うことを知らせる、絶望の鐘の音が葵の耳に届いた。

 葵は、我を忘れて走った。ただ、ひたすらに走った。そうしないと、不安と絶望、自分への嫌悪感でどうにかなってしまいそうだった。

「鐘を鳴らしたところには、人がいる。そこに皆いる。きっといる。みんな笑顔で、私を迎えてくれる。あの賑やかで平和な時間をくれる子どもたちも、優しい眼差しですべてを受け入れてくれる優しい奥さんも、頼りがいのある駐在の只野さんも……私が守ると決めた西田も……皆いる。あそこにいる。中央の広場に居る。そこには賑やかで、平和な時間が流れてる」

 葵は一縷の望みに賭けながら走り、災厄の鐘のもとにたどり着いた。昨日は歩いて十分かかったところを、今日は五分でたどり着いた。

 そこには、ただ一人只野がいた。葵は急いで只野に駆け寄り、自分が駐在所で見た光景を伝えた。只野は、静かに頷いた後、こう言った。

「さっき本土からフェリーに乗って帰ってきたんだけど、島があまりにも静かで心配になったんだ。普通祭りの翌日のフェリーには、乗船券を持った人が列をなしているはずなんだ。家族の身の安全を確認して、朝一番で帰る人が多いからね。でも、今日はフェリー乗り場に誰もいなかった。それに、島全体が異様に静かだった。だから何かあったと分かって、あの櫓に上って、すぐに鐘を鳴らしたんだ。駐在所による時間は無かったから、状況を把握できてなかったけど……そうか。誰もいなかったか」

 葵と只野が話していると、一人、また一人と人が集まってきた。だが、それでも広場に居るのは六人ほどだった。集まった人々が口々に、鬼の力を恐れたり、災厄など非化学だなどと強がったりしているが、誰も打開策を提案するものが居なかった。そこで、葵が口を開いた。

「とにかく、一度皆さんで手分けをして、他に人がいないか探しませんか」

「待て、見たことない顔だな。君は誰だ?」

 集まったうちの一人である、細身の男が言った。格好は寝間着そのものであるが、ところどころ服が汚れていた。それとは正反対に、首から下げたロケットネックレスだけは、輝きを放っていた。

「彼女は、今年唯一の同伴申請許可者である三神葵さんです。そうですよね」

 三十代ほどとみられる眼鏡の男が、葵のほうを見て言った。ワイシャツにジャケットを羽織り、ズボンの革製ベルトと同じく革製の靴が鈍く輝く、フィクションの世界で見た執事や秘書を連想させるような風貌だった。それに対して葵が名前を尋ねようとしたところ、ジャージ姿の男がそれを遮って言った。

「自己紹介は後にしよう。それよりも今は彼女の言う通り、島全体を探すべきだ。いくら鬼の力を使ったしても、島民全員を消すまでのことはしないだろう」

「じゃあ、ここには六人いることですし、二人ずつペアを組んで探しましょう。三組で手分けすれば、すぐに終わります」

 只野が提案するも、先ほどの眼鏡の男はそれを拒んだ。

「あなたも知っているでしょう。島長は昔の海難事故で、右足が不自由になっておられます。とても島を見回ることなどできません。かといって、現在危険な状態に置かれているかもしれないこの島に、一人放置するわけにもいきません。なので、私はここに島長と残ります。残りの四人で、手分けして島を見回ってください」

 眼鏡の男は、隣にいた和装の良く似合う老紳士に何度か向き直りながら言った。言葉遣いは丁寧だったが、どこか只野を馬鹿にしているような、上から目線の発言に聞こえた。

「なら、そこのお嬢さんと只野さんが組んで、東を見回ってきてくれ。俺たちは、二人で西を見回るわ。……にしても、魔除け最強神社の娘が来るって言ってたのに、こんなことになるとはな」

 寝間着姿の男が、葵のほうを見ながら言った。明らかに挑発的な言葉だったが、葵は意に介さなかった。何が起こっているかは分からないが、今はとにかく冷静に状況を把握することが先決だと、そう考えていたからだ。

「では、その形で行きましょう。西側は、よろしくお願いします。三神さん、東側を回りましょう」

 只野がそう言うと、葵と只野のペアは東へ、寝間着とジャージの男のペアは西へ、それぞれの方角へ向かって歩き始めた。

 葵たちのペアは、結局誰も見つけられないまま北東エリアの探索を終えた。途中にある森は野生動物の危険性を考えて捜索しなかったが、そこまでの広さはないため、祭りの日に集まった三万人ほどの島民全員が外から見えない位置に隠れることは不可能だと思われた。

 そうして捜索をするうちに、葵は気になるあの場所を訪れることになった。静かな境内の真ん中で、思わず葵は只野に尋ねた。

「只野さん、この神社ですよね? 半年前に大きな事件が起きた場所って」

 その言葉を聞いた途端、只野は歩みを止めた。肩を震わせているので、後ろ姿ながらどのような表情をしているのかは想像がついた。そのまま、只野は短く先日と同じセリフを吐いた。

「……よそ者の君には、関係ない」

 だが、今日の葵は引き下がらなかった。

「残念ながら、もうそれで引き下がるわけにはいかなくなりました。まだ北東しか確認していないから分かりませんが、この静けさや人の気配のなさから考えて、おそらくほとんどの島民は姿を消していると思います。もしこれが鬼の力を使った誰かの仕業なら、その人は島民に相当な恨みを持っていることになります」

 葵がそこまで話したところで、只野が手を出して静止した。それ以上先の言葉は、聞きたくないようだった。

「三神さんに話して、どうなるんだ?」

 只野は、葵のほうを振り返って尋ねた。葵は、その問いに答えることが出来なかった。しばらくの沈黙の後、只野はゆっくりと話し始めた。

「半年前まで、ここには神主の清家清美と、その娘の清家聖が住んでいた。神主の清美さんは品行方正で、祈禱や近所での買い物くらいしかお目にかかる機会は無いのに、島民からの信頼も厚かった。そんな清美さんが、何者かに刺殺された。それも、娘の目の前で。娘はそのショックで精神を病んでしまって、三か月前まで島の病院に入院していた」

「聖さんは、おいくつだったんたですか?」

「君より少し年上、確か高校二年生だったと思う。それでも、まだまだ子供だ。目の前で母親が死んだら、心を病んでも仕方ない。その上犯人を目撃しているのなら、そいつに狙われる危険もあるからね。ま、詳しくは話を聞けてないから分からないけど」

 只野は視線を落とし、しばらく口を噤んだ。この先のことは話しづらいことなのだろうと葵は思ったが、それを気遣うほどの余裕はもうなかった。

「犯人は、捕まったんですか?」

「いや、捕まらなかった。現場からは、何の物的証拠も出なかったからな」

「あまり詳しく知らないんですけど、指紋とか足跡は調べたんですか?」

「あぁ、調べたよ。でも、どちらも清美さんとその娘さん、俺と娘の担任以外のものは出なかった」

「どうして、担任の先生の指紋が?」

「事件当日、俺と一緒に現場に踏み込んだんだ。生徒を見捨てるわけにはいかないから、って言ってな。こんな島で殺人事件なんて起きるわけがないとみんな思っていたからすぐに噂が広まって、それを聞いた担任が駆けつけたらしい。ほら、さっき広場に居たジャージを着ていた人だよ」

 葵は記憶を辿って、広場で見たジャージの男の風貌を思い出していた。たしかに、いかにも体育会系の教師という雰囲気があった。少し古いイメージだが、竹刀を持って校門の前に立っている生徒指導担当がよく似合いそうだった。

「そういえば、聖さんが入院していたのは三か月前までなんですよね。その後は退院したんですか?」

 只野は、少し言葉を詰まらせながら答えた。

「……いや、退院というわけではない。正確に言うなら、失踪だ。それに、病室に残した手紙には……」

 そこで只野は、話を止めた。葵はさらに追及しようとしたが、只野は頑なに拒み、捜索を急ぐべきだと言い続けた。結局葵が根負けし、捜索を急ぐことになった。

 その後二人は南東エリアの捜索を終え、中央の広場に戻ってきた。西側を捜索した二人はすでに戻っていたが、広場に居る人数は増えていなかった。

 そこにいる全員が、恐れていた事態が起きていることを認めざるを得なかった。どうやら本当に、島民全員が姿を消してしまったようだ。だが、只野はもう一度捜索するべきだと全員に主張した。それに対して、寝間着の男が反論する。

「俺たちの言うことが、信じられないってことか? 西側エリアのどこかに、島民が隠れている。そして、俺たちがそれを隠している。つまり、犯人は俺たち二人。そう言いたいんだろう」

 明らかに機嫌を損ねている寝間着の男を宥めながら、只野が言う。

「そうじゃありません。あの鬼伝説の言い伝えから考えると、あと一人勇者が足りないはずなんだ。必ずどこかにいるはず……」

 只野がそう言ったとき、広場の北側から笑い声が聞こえた。明らかにここにいる誰でもない、若い女性の笑い声だった。

「だ、誰かそこにいるのか」

 広場に居る誰かが、そう叫んだ。笑い声の主は、建物の陰からそっと姿を現して、全員の顔をゆっくり見まわした。左手は骨折しているのか、包帯で釣られていた。服装は学校の制服姿だったが、所々に目立つ汚れがあった。やがて、顔を見回した声の主は、こう言い放った。

「だから言ったでしょ? いや、正確には書いたでしょ。“必ず罪は償わせる”って」

 声の主は、笑顔で立っていた。だがその佇まいにはどこか、不気味さと切なさが交っているように、葵は感じた。

「お前が島民を全員消したのか……返せよ! 俺の幸せを返せよ!」

 寝間着の男が、叫ぶ。声の主は男を一瞥するも、特に意に介さないような表情で言いのけた。

「もう、手遅れよ」

 それに対し、ジャージの男が言った。

「聖さん、本当にこれは君がしたことなのか?」

 声の主こと清家聖は、その問いに答えなかった。ただ、口を右手で押さえていた。極力感情を出さないよう、抑え込んでいるようだった。

 誰も口を開かない……いや、開けない時間がしばらく流れた。ほとんどの人間が島民の命を諦め、聖への問答も意味をなさないと感じていたからだ。だが、まだ諦めていない者がいた。

「手遅れなんかじゃありません。まだチャンスはある……そうですよね、島長」

 口を開いたのは、葵だった。島長以外の全員が、目を丸くして葵を見た。何を言っているのかと、そう言いたげな顔だった。

「ほう。お嬢さん、鬼伝説に詳しいようですね。やはり三神家でも言い伝えられているんでしょうね」

 島長の答えに、葵以外の全員が驚きの声を上げた。葵は、静かに続ける。

「いえ。私は鬼伝説について、全くと言っていいほど知りません。なので、後で詳しく教えてください。それでも、手遅れではないことは、見ればわかります」

「一体この状況の、何を見ればそんなことが分かるのでしょうか」

「この状況で、成仏し損ねた人が一人もいないことを見れば……嫌でも分かります」

 冷たく重い空気が流れた。いや、正確には白けた空気というべきかもしれない。その場にいた誰もが葵の言葉の意味を理解できなかったし、一部の人間は戦力外通告でもするかのように煙に巻こうとさえしていた。

 その空気の冷ややかさたるや、気まずさに耐えかねた島長が、全員で近くの公民館に移動することを提案するので精一杯だった。

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