第4話 そして、鬼はやって来る
六月六日、午前9時。目を覚ますと、外から賑やかな音が聞こえた。昨日はほとんど駐在所の中に居たため実感が沸かなかったが、この賑やかさを聞くと、この島の活気や今日が祭りであることを実感する。そして、安心と不安が同時に襲ってくる。葵は布団を跳ね除けて、急ぎ足で一階に向かった。
階段の中腹辺りから、心地よくまた板を叩く包丁の音と可愛い声、そして食器が互いに触れ合う音が聞こえた。昨日一向に姿を見せなかった、あいつの声も聞こえる。葵は胸をなでおろし、残り半分の階段をゆっくりと降りた。
「あ、お姉ちゃん。おはよう。もうすぐ朝ごはんの準備できるから、座って待っててね」
昨日葵に話しかけた子供が、そう言った。一日で、随分と気に入られたようだ。
「では、お言葉に甘えて」
葵は仰々しくそう言い、食卓に着いた。子供たちが一斉に、葵の前に出来立ての料理を運んでくる。それを恨めしそうな目で見ていた、目を赤く腫らしたあの男が子供たちに言う。
「おい。なんで俺は朝8時に叩き起こされて朝ごはんの用意を手伝っているのに、三神さんは何もしなくていいんだ」
「だって、お客様だもん。お客様は、おもてなしするんだよ。そんなことも知らないの?」
「それくらい知ってるわ! そうじゃなくて、なんで同じお客様であるこの俺が、準備を手伝わされないといけないのかを訊いてるの。分かる?」
「かんおじちゃん、子供みたいなこと言ってるー」
「おじちゃん、じゃない。お・に・い・さ・ん! ほら言ってみ」
「お・じ・い・ちゃ・ん」
「しばくぞ、このクソガキ!」
子供たちが葵の座ったちゃぶ台を中心に、甲高い声を上げながら居間の中を逃げ回る。とても平和な時間が、ここには流れていた。だが西田は、葵がどこか曇った表情をしていることに気付いた。声をかけようとしたその時、駐在所との間にある勝手口が開いた。
そこから、只野が腰を屈めて入ってきた。大柄な只野には、日本家屋の間口は少し狭いようだった。昨日見た時と同じ制服姿だが、どこか表情が暗かった。
「お父さん、今日はお祭り一緒に回ろうね」
二人の子供がせがむように言ったが、只野は首を振った。
「ごめんな、二人とも。島長に、今日は本土のほうに戻れって言われたんだ。悪い人を捕まえるための、お勉強して来いってさ」
「えー、そんなこと全然言ってなかったじゃん」
「昨日、突然言われたんだよ。というわけで、お父さんは今日の……お昼の三時に出る最終便に乗るから。祭りの始まる夕方五時には、島に居ない」
只野は手帳を確認しながら、二人の子供に申し訳なさそうに言った。子供たちは、口々に文句を言っていた。そんな中、空気の読めない西田が、只野の手帳を見て興奮したように言った。
「ねえ、それって警察手帳ってやつ? ちょっと見せてよ」
「あ、コラッ!」
西田は只野の手帳を強引に奪おうと手を伸ばし、只野はそれに抵抗した。その結果、只野の手帳は宙を舞って、葵の目の前に落ちた。丁寧に、余白の無いよう埋め尽くされたその手帳からは、只野の几帳面な性格が垣間見えた。
慌てて、手帳を拾う只野。しかし、葵はその一瞬で見逃さなかった。手帳に書かれた、“清家清美殺人事件”の文字を。
おそらく、昨日只野が口を噤んだ事件はこれだろう。葵はそう思ったが、子供たちの前でそんな物騒な話題を出す気にはなれなかったので、口に出すことはしなかった。
その後朝食はつつがなく終わり、また微笑ましく、平和で、幸せな時間が駐在所の中に流れた。
そして午後三時、葵と西田、只野の奥さんとその子供たちは、只野を駐在所で見送った。子供たちや奥さんが港で見送りたいと懇願したが、辛くなるからと言って、只野は拒んだ。子供たちは見送ると言いながら強引に荷物を奪おうとしたが、奥さんがそれを止めた。
やがて、その大きな背中が小さくなって、見えなくなるころ、子供たちは泣き出した。
「お父さんの前で、よく我慢したね」
只野の奥さんは、子供たちを強く抱きしめた。
午後五時、いよいよ祭りが始まった。西田は部屋で甚平に着替え、葵の準備が終わるのを待った。しかし三十分以上経っても何の動きも見せないので、西田は業を煮やして葵の部屋のふすまを叩いた。
「三神さん、もうお祭り始まってるよ。まだ準備に時間かかりそうかい?」
「あ、西田。丁度いいところに来た。中に入って」
西田の脳みそは、全速力で思考を巡らせた。
“突然中に入って”と頼まれるということは、なにかトラブルがあったのではないか。いや、“丁度いいところ”と言っているのだから、帯を結ぶなどの手伝いをするのだろう。しかし、男であるこの俺が、あんなに可憐な三神さんの着替えを手伝うなどしていいのだろうか。
いや、今の発言が何者かに脅されている中で言っているとしたら、三神さんが助けを求めているかも知らない。この俺が、三神さんを守らなければいけない。そうだ、今すぐ助けに行くんだ。
とてつもなく現実離れした結論にたどり着いたが、全速力で思考を巡らせたことで既にオーバーワークしていた西田の脳みそには、それに気付くことなど出来るわけがなかった。
「うおー、大丈夫だ三神さん。俺が守ってやる」
大声でそんなことを叫びながら、西田は部屋に飛び込んだ。部屋の中には、着物をばっちり着こなし、姿見の前に立つ葵の姿だけがあった。
「いきなり大きな声出さないでくれる? 嫌われるよ、普通に」
「ごめんなさい」
少し体を後ろに引いて言った葵に、西田は光の速度で謝罪した。しばらく葵の厳しい視線が注がれたが、葵が溜息を吐いて俯くと同時に、それから解放された。
西田は、すこし安心した。その視線は、まるで戦地に息子を送り出す母親のような、根性の別れを覚悟するような視線に感じられたからだ。この程度のことで絶交されようものなら、死んでも死にきれないだろう。
「約束、忘れてないよね」
葵が、小さな声で言った。
「ああ、ずっとそばにいる」
西田が答える。西田はまるでプロポーズかのようなその言葉に気恥ずかしさすら覚えたが、葵はその言葉に安心したのか、顔を上げて西田に歩み寄った。
そして手を繋ぎ、満面の笑みを向けながら言った。
「じゃあ、行こっか」
西田の脳みそは、再びオーバーワークした。その破壊力抜群の攻撃に、耐えることが出来なかったのだ。西田はだらしなく鼻の下を伸ばしながら、葵に手を引かれていった。
駐在所から歩いて10分ほど経ったころ、祭りの出囃子が聞こえてきた。既に開始から一時間弱が経過しようとしている祭りは、最高潮の盛り上がりを見せていた。葵と西田の二人は、遅れを取り戻すように、大急ぎで出店を見て回り始めた。
射的に金魚すくい、くじ引きやヨーヨー釣りに輪投げ。焼きそばやベビーカステラやりんご飴、どこのお祭りでも見るような定番な出店が目に付く。
しかし一方で、鬼の災厄から身を守るお守りやお面、この島の名物の鬼瓦、もぐら叩きならぬ“鬼シバキ”等、この祭りならではというべき出店もあった。
祭り会場の中央付近へ進むと、出店の出店していない、少し開けた場所があった。お祭り本部がある場所であり、人集りに疲れたお年寄りや子供たちの休憩場所でもあった。
そこで葵は、ふと気になる人を見つけた。家柄的にも、ああいうものには心惹かれるところがあった。早速葵は、西田の手を引いて尋ねた。
「あの祈祷を捧げている人は何?」
「え、ああ。あの人は島の南にある松戸神社の神主と、その娘さんだよ。この島には、四つの方角すべてに神社があるからね」
「他には、なんて神社があるの?」
「北には久留米神社、西には狩野神社、東には清家神社があるよ」
“清家神社”という名前で只野の手帳に書かれた物騒な文言を思い出し、思わず反応しそうになった葵だったが、悟られないように努めて冷静に話を続けた。
「その神社の名前って、みんなそこを受け継ぐ家の名前がついてるの?」
「そうだよ。さすが神社の娘。勘が鋭いね」
「ありがとう。じゃあ、もう一つ訊いていい?」
「うん、いいよ」
「あの真ん中にある鐘は、なに?」
「ああ、あれは“災厄の鐘”って言うんだ。鬼の力で起きた異変に気付いた人が、あの鐘を鳴らすことになっているんだ。で、それで集まった島民たちが異変解決のために奔走するってわけ。まあ、言い伝え上ではね」
「そうなんだ。……ねえ、少し休もう」
葵と西田は、空いているスペースに腰を下ろした。周囲を見渡す葵。その表情が徐々に曇り、やがて下を向いた。フェリーの中で西田が見た状況と、全く同じだった。
「じゃあ、俺ジュースでも買ってくるわ。やっぱり祭りと言えば、ラムネでしょ。ちょっとここで待っててよ」
そう言って立ち上がった西田だったが、すぐに葵に手を引っ張られた。その力はとても強く、絶対に離さないという意思が伝わってくるようだった。
「ずっとそばにいるって、言ったでしょ。約束」
「でも、なんか俺と同じペースで歩いて疲れてるみたいだし、少し休んだほうがいいよ。ちょっと気持ちを落ち着けてさ」
「あんたが離れたほうが、落ち着かないの! お願いだから私から離れないで! ずっとそばにいて! お願い!」
潤んだ瞳を向けて、葵が言った。その声があまりに大きかったので、周囲の人が気遣って、ラムネを差し入れたり、どこかに姿を消したりした。
「ねえ、三神さん。俺たち、絶対恋人同士だと思われたと思うんだけど」
西田が、遠慮がちに言った。葵はラムネを片手に俯きながら、か細い声で答えた。
「西田……もし、明日から自分の好きな人にはもう会えないって分かってたら、あんたならどうする?」
「なにその質問。急にどうしたの?」
あまりに突拍子の無い質問に面喰い、西田はそう答えるので精一杯だった。恋人と思われたという問いかけの返事がそれということは、これは遠回しな告白なのではないか。
西田がそんなことを考えていると、葵が西田なりの答えを催促してきた。西田はない脳みそを何とか動かし、この難問に答えを出した。
「告白がまだだったら、告白するかな。とにかく、最後くらいは自分の気持ちに正直になりたい」
言い終わると、西田は葵の返答を待った。この後葵がどのような行動をとるかで、自分たちの運命が決まると思えた。それはつまり、関係性が進展するのか、それとも現状維持なのかということだった。
しかし、どれだけ待っても返事は無かった。西田は、たまらず声をかけた。
「三神さん。そんなにしんどいなら、戻ろうか?」
少しの沈黙の後、葵が答えた。
「西田、その三神さんって呼ぶのはやめて」
「え、そんなに俺のこと嫌いにな――」
「葵って、呼んでいいから」
賭けに勝った。西田はそう思い、有頂天になった。今ならこの世のすべてが自分の思い通りになる気がした。そんな状態だったからか、肝心なお祭りデートがどのようなものだったか、全く記憶に残らなかった。
それどころか、あの後結局デートしたのか、それともすぐに駐在所に戻ったのかさえ覚えていなかった。
とにかく、西田は気付いたら駐在所に帰っていた。時刻は、午後十一時を回っていた。こんなに夜更かしするのは久しぶりだと思うのも束の間、西田を現実に戻す一言が後ろから聞こえてきた。
「ねえ、西田。聞こえてるの? 返事してよ。そこにいるんでしょ」
「お、おお。聞こえてるよ。ここにいるよ。ずっとそばにいるって、約束しただろ……葵」
「はあ? なにを今更、名前呼ぶのに緊張してるのよ」
西田の中では記憶の限り初めての葵呼びだったが、どうやら葵の中には既に呼ばれた記憶があるらしい。
「てことは、祭りデートしたってことだよな。つまり、きっと俺たちの距離は急激に縮まって……痛っ」
必死で記憶を辿ろうとする西田の頭に、鈍い音が響いた。葵が開けたトイレのドアが、直撃したのだ。
「あれ。開けるよって言ったの聞こえなかった?」
葵は、首をかしげながら不思議そうに西田を見つめて言った。
「聞こえなかったかって、俺返事してないだろ。それでいきなり開けたら、こうなるだろ。いや、もういい。おやすみ」
西田が葵に背を向けて自分の部屋に戻ろうとすると、袖口を掴まれた。続けて、恥ずかしそうに葵が言った。
「い、一緒に寝るのも約束……でしょ」
頭の痛みなどすぐに忘れ、葵の部屋に一緒に入った西田。ドアがぶつかった衝撃で覚醒したのか、西田の脳みそは冴えに冴えていた。これまでの西田なら、自分が寝るための布団を用意するところだが、今回は用意しなかった。
「なんで布団持ってこないの?」
葵が尋ねる。普段の西田なら大慌てで布団を取りに行っただろうが、今の覚醒した西田にはそんなことをする必要はなかった。一閃で、完璧な言い訳と嘘を考え付くことが出来たからだ。
「ずっとそばにいるって約束を、守るため」
「一緒に取りに行こうよ」
「駄目だ。俺の部屋に女子を……いや、葵を入れるなんて絶対駄目だ」
「なにがあるのよ」
「ナニがあるんだよ」
「なんか分からないけど、気持ち悪い」
「とにかく、部屋に布団を取りに行くなら、俺一人で行く。そうすると、その間葵から離れなければならない。約束は果たせない。それでもいいなら、取りに行く。駄目ならこのままだ」
本当は部屋に入られて困ることなど何もないが、そう匂わせることで、部屋に布団を取りに行くことと離れ離れになることを結びつけたのだ。理由は分からないが、葵は自分と離れることを異様に嫌がっている。これでは、無暗に布団を取りに行く方向で話を進めることができない。つまり、同じ布団で眠れるということだ。
西田が自分の作戦に酔いしれていると、溜息交じりに葵が話し始めた。
「分かった。じゃあ、一緒の布団で寝よう。但し、変なことしたら、分かってるわよね」
拳に力を籠める葵に、西田は光の速度で首を縦に振った。渋々葵が先に布団に入り、西田が後から入った。西田は、再び有頂天になった。
「ちょっと、変なところに手置かないでよ。気持ち悪い」
葵が文句を言っているが、西田は一切意に介さなかった。この二日で、間違いなく西田と葵との距離は縮まった。西田はあまり詳しく覚えていないが、きっと祭りデートで親睦を深め、こうして一緒に寝ることも許容するまでに至ったのだろう。
そう思うと、西田の心に喜びの感情が溢れた。そんな時、西田はふと気が遠くなるような感覚を覚えた。西田はまた記憶がなくなると思い、疲れていたからかいつの間にか眠っていた葵の寝顔を脳裏に焼き付けることにした。
「この可愛い寝顔に集中している間は、いくら俺の脳みそといえど眠りにつくことも、記憶を消すこともないだろう」
西田ははち切れんばかりに目を見開き、襲い掛かる強烈な眠気に対抗しようとした。だが、徐々に違和感を覚え始めた。何か眠気とは違うような、妙な感覚が自分を襲っている。その正体が、西田には掴めなかった。
怖くなった西田は、思わず葵を呼んでしまった。しかし、葵は目覚めなかった。――ただ単に、葵の眠りが深いわけではない。自分の声が聞こえていない――西田にはそう感じられた。
やがて、はち切れんばかりに見開かれていた西田の目は、暗闇に包まれた。気付くとそこは、この世とは隔絶されたような、次元が違うような、奇妙な静寂に包まれた世界だった。
六月六日、午前零時。隠鬼の島は、静寂に包まれた。それは、これから始まる悪夢を予見させる、嵐の前の静けさというにふさわしいものだった。
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