第3話 島に降り立つ
六月五日正午、島に着いた。フェリーを降りた葵は、整備された港のアスファルトの上に立ち、周囲を見回した。正面にはきれいに整えられたアスファルトの道が、微かに見える中心地らしきところへまっすぐに伸びている。
しかし右を向けば、命知らずのボルダリング愛好家しか挑まないであろう切り立った崖がある。その崖の上には、岩肌とは対照的な色合いの鮮やかな緑が見え、そこから何かしらの動物の声が聞こえた。癒しを与えてくれそうな可愛らしい声から恐怖心を煽るようなおどろおどろしい声まで、おそらく野生動物のものだろうと思われる様々な声が聞こえた。
そして左を向けば、ほとんど手つかずなのであろう、少し汚れた海岸が見えた。普段の生活を見つめ直してしまうほどの漂着物の多さに、思わず辟易としてしまう。
そんな周辺の状況は、いくらアスファルトに囲まれた生活を送っていた葵といえど、むしろ整備された港や正面の道のほうに違和感を覚えるほどのものだった。
「自然が豊かな場所なんだね」
「うん。今は昼間だから大丈夫だと思うけど、夜には野生動物にも気を付けないといけないくらいだからね」
「あの小屋は?」
葵は、手つかずの海岸には不釣り合いの人工物である、木で出来た古い小屋を指さした。あちこちにガタが来ていて、いかにも雨漏りしそうな風貌だったため、とても人が住んでいるようには見えない。
しかしその小屋の前には、果物や魚などがまるでお供え物のように置かれていた。どこを取っても違和感しかない、葵はそう感じた。
「あ、あの小屋まだあったんだ。懐かしいな。俺が転校する前からあって、その時からボロボロだったんだよな。でも、見た目は4年前と大して変わらないな」
「あの食べ物は?」
「食べ物? なんだろう。俺が居た頃は、あんなお供え物みたいなもの無かったけどな……そんなことよりも、早く俺の親戚の家に行こうぜ。こんな重い荷物あったら、観光だって出来ないからさ」
葵は小屋のことが気になりつつも、親戚の家に向かう西田の後に付いていった。最初は整備された道を歩いていた西田だったが、こっちのほうが近いからと言って、途中から脇道に逸れた。脇道はほとんど整備が行き届いておらず、慣れない葵は、木の根や石などに躓かないように歩くので精一杯だった。
「あー、やっと家に着いた。まさか、港から歩いて二十分もかかるなんて思わなかった」
「あの、家っていうか……ここ、どうみても交番なんですけど」
「うん。親戚の旦那さんが、この島唯一の駐在さんなんだって。だからここは、島唯一の駐在所兼二人の愛の巣ってわけ」
「誰だ、駐在所の前でふざけたこと抜かす奴は。逮捕されたいのか」
西田がいつもの馬鹿話をしていると、駐在所の奥から人が出てきた。居る場所や服装から、駐在さんだということがすぐに分かった。
「只野さん。久しぶり」
「おう、かんちゃん。久しぶり」
西田に只野さんと呼ばれたその駐在さんは、さすが犯罪者を逮捕しようとしているだけあって、かなり大柄に見えた。しかし、特に怖いという印象を持つことはない。言葉の端々から優しさが滲み出ているからだろう。制服はしわの一つも許さないような着こなしで、几帳面な性格であることがうかがえた。
「で、この子が噂の……かんちゃんの彼女かい」
只野はあごに手を当てながら、値踏みするように葵のことを見て言った。葵は少し不愉快に感じたが、泊めてもらう恩義があるため我慢することにした。
葵が只野に下手に出ていることを見るや否や、西田は日ごろの恨みを晴らすかの如く、乱暴に言った。
「よかったね、只野さん。三神さんの機嫌がよくて。機嫌が悪かったら、今頃その顎が砕けるほどの強烈なアッパーをもらっていると思うよ」
「お前、そういう子が好みだったんか」
「お言葉を返すようですが、私三神葵は、ここにいる西田と友たち以上の関係にはありません。以下なら、あり得るかもしれませんが」
葵は、思わず反論してしまった。それを聞いた只野は、からかうように言う。
「俺は、一応警察官だからな。証拠がない話は信用しない」
「私が西田の恋人であるという、確たる証拠があるんですか」
「親元を離れ、二人きりで島へ旅行に来る。それも、異性同士でだ。ただの友たちとすることではないだろ。それだけで、十分証拠になると思うが」
「その程度の薄い証拠なら、覆すことは簡単ですね」
自信満々に言う葵に、只野は感心したように頷きながら更に続けた。
「で、その恋人ではない証拠を見せてくれ」
「もう見せています」
「なに言ってるんだ?」
只野は、首を傾げた。横に居た西田も、首をかしげていた。そこで葵は、止めの一言を西田に言った。
「さっき只野さんから呼ばれてた名前、かんちゃんって、どこから来たあだ名なの?」
只野も西田も、閉口した。またあの気まずい時間が、西田を襲った。いや、その気まずい時間よりも、葵の一言によって傷ついた心のほうが問題だった。西田は、この世の終わりを目撃したかのようなか細い声で、質問に答えるのが精いっぱいだった。
「俺、西田勘二郎って名前なんだ。だから、下の名前から……だね」
西田は俯き、肩を落としたまま駐在所の奥へ消えていった。その背中は、あまりにも寂しいものだった。
「さすがに、あそこまでやらなくてもよかったんじゃない。かんちゃん、滅茶苦茶傷ついてるじゃん。後で謝りなよ?」
只野がそう言ったが、葵は強く言い返した。
「只野さんが、証拠を出せと言うから悪いんです。あだ名の由来なんて大体想像もつきましたし、黙っておくつもりだったのに。私は、謝りません。只野さんが、謝ってください」
「かんちゃんの言っていた通り、自分の主張を頑として曲げない、芯の強い子だね。じゃあ、俺はパトロールがあるから」
そう言って只野は自転車に乗り、駐在所を後にしようとした。葵はそんな只野を呼び止めて、海岸で見た小屋のことを聞いてみた。置かれていた食材がお供え物だったら、事件の可能性もある。そうなると、只野が何か知っているかもしれないと考えたのだ。
突然の質問に驚いたが、只野は落ち着いて、ゆっくりと答えた。さっきまでのやり取りとはまるで別人で、頼りがいのある駐在さんの風格を漂わせていた。
「この島は、鬼伝説があるのに平和……ってところが魅力なんだ。だから、僕がここに赴任してきた三年前から一度も、海岸では事故も事件も起きてないよ。あれはね、誰が流したかも分からない噂を信じた人が置いたんだと思うよ」
「噂ですか」
「そう、噂。この島の海がきれいだから、人魚が住み着いているって話。鬼伝説の次は人魚伝説なんて、この島一つに盛り込みすぎだと思うよね」
「本当にそうですね。でも、それを信じた人が、あんな風にお供えをするんですね。誰が信じているんでしょう」
「大方予想はついているけど……別に事件って訳でもないから、詮索する必要はないかな。それじゃあ、ゆっくりしていってね」
「あ、最後にもう一つ」
出発しようとする只野を、再び葵が呼び止めた。只野はよろけながらもなんとか自転車を止め、少し苛立ちながら言った。
「なに。もう行かないといけないから、手短に頼むよ」
「はい。先ほど只野さんは、赴任してきてから一度も海岸では事件や事故が起こっていない。そうおっしゃいましたよね」
「そう言ったよ。だから、なに」
「いえ、わざわざ“海岸では”と強調したことが気になったんです。ひょっとしたら、海岸以外ではなにか大きな事件が起きたんじゃないかと思って」
葵がそう言うと、只野の顔が少し強張った。明らかに、動揺していた。
「……まるで、小説に出てくる名探偵のようなことを言うじゃないか。驚いたよ。僕の一言で、そこまで考えるなんて」
「それで、どうなんですか」
「……あったよ、半年前に。大きな事件が」
「事件、なんですね。事故ではなく。それも、大きな事件だと」
只野の顔は、更に強張った。手や足が震えている。しかしこれは、動揺しているというよりは、怒りを必死に抑え込んでいるような仕草だった。
「どんな事件だったんですか」
「……よそ者の君には、関係ない」
只野は、自転車で走り去った。もう葵の呼びかけには、一切応じなかった。
「まあ、いっか。今回のことと関係あるか、まだ分からないし」
葵は、荷物を持って駐在所の奥に入っていった。駐在所の奥はそのまま二階建ての一軒家につながっていた。
昔ながらの木造日本家屋というのにふさわしい建物で、勝手口をくぐると畳の良いにおいがした。そんなにおいに気を取られていると、西田の親戚が温かく迎えてくれた。ここには只野とその奥さん、そして二人の子供と一緒に住んでいるそうだ。
「可愛いお姉ちゃん、一緒に遊ぼう」
子供の一人が、葵にそう言った。葵は照れながらも、先に荷物を置いてくることを伝えた。泊めて頂けるという二階の奥の部屋に行き、荷物を置いた。二階は客間として用意されているようで、頻繁に使われている形跡はなく、きれいに掃除されていた。
「昔から、子供には好かれるんだよね。まあ、嫌いじゃないからいいけど」
そういうと葵は、部屋の隅に立てかけてあった大きな姿見の前に立った。しばらく睨みつけるように鏡を見て、少し表情を和らげていった。
「私だけだったら少し不安だったけど、あの人も無事なら、きっと大丈夫。あの子たちもきっと……きっと無事なはず」
葵は自分に言い聞かせるように何度もそう呟いた後、一階に戻り、子供たちと楽しく遊んだ。そこから一日中、駐在所の中には子供たちの楽しそうな声が響いていた。
一方そのころ、西田は二階の手前の部屋で、布団にくるまれて泣いていた。この一週間ほどで、西田はどれだけ傷ついたのだろうか……。
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