第1話 全ての始まり

 すべての始まりは、六月一日。暗く重たい雲が、影を作る。そんな朝のことだった。

「三神さーん、一緒に学校行こー」

「毎朝毎朝、律儀に家まで迎えに来て。しつこいよ。ストーカーなの? 訴えるよ」

 そんなことを言いながら、玄関を開けて三神葵が姿を現した。髪は後ろで一つに束ね、シャツは一番上のボタンまできっちりと閉め、スカートは膝丈。まさに校則で決められた規定通りの、完璧な着こなしだった。

「さすが、神社の娘。言葉遣い以外は、完璧な礼儀作法を叩き込まれている。顔も可愛くて、背も小さい。こんなにも愛くるしいキャラクターなのに、どうして言葉遣いだけが可愛さの欠片もないんだろう。神は残酷だ。天は二物を何とやらとは、まさに三神さんのためにあるような言葉だ」

 西田が、“いつものあいさつ”を済ませた。このあいさつをすると、いつも葵に軽く受け流され、学校までは無言の気まずい時間を過ごすことになる。

 だが、西田はこれを止めることが出来なかった。葵の家に着くまではあれこれと話のネタを考えるくせに、いざ葵を目の前にすると何も思い出せなかったからだ。おはようという、素直な挨拶さえ記憶の彼方に消えていくのだ。なんて役に立たない脳みそなんだと、西田はつくづく思っていた。

「なんていうか……朝から女子の体を見てするそのセクハラ発言、止めたほうがいいよ。普通に、嫌われるよ」

 今日は葵から返答があった。だがそれは、流されるよりも深く、鋭い傷を西田に与ええる結果となった。

 傷心の中、西田は今日も無言のまま、学校までの気まずい時間を過ごす羽目になる――そう覚悟した。しかし突然、脳みその中にある一つの話題が光り輝いて現れた。それは、天啓というにふさわしいものだった。

「神様……」

「なに、急に。お参りなら、あっちでしてよ」

 思わず口をついて出た西田の言葉に、葵が怪訝な目を向けながら、冷たい言葉を返した。

「いや、違う。お参りがしたいんじゃない。三神さんに話したいことがあるんだ」

「なに、告白? 朝から気持ち悪いからやめて。それに、答えはもう決まってるから」

「勝手に話を進めないでくれ。告白じゃなくて、旅行のお誘いだよ。ほら、俺って隠鬼の島からの転校生じゃん。今度その隠鬼の島で、島民限定の祭りがあるんだよ。ほら、テレビとかでもたまに特集されてるだろ、国のお偉いさんとかが参加したがるような、伝統あふれる祭りだよ。でまあ、今は住んでないけど、俺も島の血が流れてるわけだし、参加できるわけ。神社の娘の三神さんなら、そんな伝統ある祭りに行きたいかなと思ってさ。良ければその……二人で一緒に……」

「二人でって、私たちまだ中学生だよ。さすがに二人旅行は厳しいでしょ」

「親戚がまだ住んでるから、そこに泊まるんだよ。港までは、俺のお母さんが車で送ってくれるし。二人きりになるのは、船の上だけだから、大丈夫だよ」

 西田が慌てて取り繕う。葵は、ただ西田を見つめていた。だが、その視線には少し違和感がある。確かに西田のほうを見てはいるのだが、見ているのは西田ではない別の物。西田にはそのように感じられた。

「私が行かないって言ったら、あんたはどうするの」

 葵は、少し悩んだ様子で言った。西田はそれを見て、チャンスだと感じた。

 葵が祭りに興味を持っているから、自分一人でも行くと言ったら必ずついてくる――そう考えた。だから、一点の迷いもなく答えた。

「三神さんが来なくても、一人で行くよ。あのお祭りは、楽しくて好きだしね。久しぶりに会える友達も、たくさんいる」

 その答えを聞いて葵は、眉間にしわを寄せた。予想外の反応に、西田は少し困惑した。

 お祭りに行きたい気持ちと、自分と一緒に行くのを嫌がる気持ちを天秤にかけているのではないか、そう考えたからだ。考え込んで何も言えなくなった西田は、葵が何か言うまで待った。無言で学校に行くよりも、遥かに気まずい時間だった。

 西田には、その時間がとてつもなく長い時間に感じられた。やがて、葵が口を開いた。

「分かった。私もいっしょに行く」

「あ、オッケー。分かった。じゃあ、お母さんにも伝えとくね」

 西田は感情が表に出ないように、懸命に振舞った。だが、明らかに足が震えていた。言い訳のしようもないくらいに、足が震えていた。全身で喜びを表現したくて、仕方がなかった。

 でも西田の脳みそは、それを許さなかった。震える足に気付かれまいと、次の話にもっていこうと考えた。

「それじゃあ、日程なんだけど……」

 その時、葵の後ろにあった玄関の引き戸が、大きな音を立てて開いた。

 そこには、葵の父であり、この三神神社の住職の姿があった。

「葵、いつまでここにいる気だ。あと三分で、学校が始まるぞ」

「え、噓でしょ。ここから学校まで二十分はかかるよ。絶対間に合わないじゃん。なんでもっと早く言ってくれなかったの」

 苛立ちを見せる葵に、葵の父は落ち着いて言った。

「いやぁ。彼氏との時間を邪魔したら、悪いと思ってな。これでも気を遣ったつもりだったんだが――」

 その一言に、西田と葵の二人は飛び上がりそうなほど動揺し、二人揃ってこう答えた。

「まだ恋人じゃない‼」

 二人は、学校に向かって走り出した。残された葵の父は、空を見ながら感慨にふけっていた。

「まだ……ね。いいね、二人とも青春してるね。これが青春の醍醐味だよね。晴れ晴れしい、明るい未来の幕開けだな……」

 葵の父は、空を見上げた。そこにはより一層重たく暗い雲が、まるで地上に降り注ぐすべての光を遮断するかの如くあった。

「それにしては、似つかわしくない天気だな。……三神家の使命を果たす時が来たのか、葵」

 西田と葵の二人が、走って学校に向かっている最中、ふいに葵がその足を止めた。西田も止まって葵の視線の先を確認すると、そこには母親と一緒に信号待ちをする小さな男の子の姿があった。しっかりと手を繋ぎ、歩道の点字ブロックより内側に立っている。

 だが葵はその親子を見て、小さく「そんなところに立っていては駄目、危ない」と呟いた。西田にはその言葉の意味が全く分からなっかったが、そのことを考えているうちに、葵は親子のもとに走り出していた。西田も、慌てて後を追う。

 葵は親子に手が届く範囲まで来た時、突然子どもを抱えてきた道を引き返した。泣きじゃくる子どもに、誘拐だ、と叫ぶ母親。そして、こちらに向かってくる葵にどう対処したらよいか困る西田。混沌とした状態があった。

 その刹那、母親の後ろから生涯忘れられないだろうと思えるほどの轟音がした。全員がそちらの方に目をやると、トラックがさきほど親子が立っていた辺りの電柱に衝突し、横転していた。移動していなければ、親子の命はなかっただろう。

「間に合ってよかった。ごめんなさい、手荒な真似をして。助けようと思って、必死で」

「いえ、ありがとうございました」

 低姿勢で男の子を母親に受け渡す葵に、母親が涙ながらに感謝を伝えている。男の子はなにが起こったかよく分かっていないようで、ぽかんと口を開けて、じっと動かずに母親に抱きしめられていた。

「また子どもを助けたんだね、三神さん」

「……視えちゃったもんは、助けないと駄目でしょ」

 西田がそっと耳打ちをすると、葵は気怠そうに答えた。だが西田には、それが照れ隠しであることがすぐに分かった。この状況を一番喜んでいるのが葵だと、耳を赤くする姿を見て確信したからだ。


 そんなこんながあり、学校に着く頃にはもう三時間目が始まる頃になっていた。

「まずい。俺のクラスの三時間目、社会科じゃん。絶対怒られるって」

 西田が、頭を抱えた。

「あの、鬼の坂井の授業に遅刻するとか。ドンマイ」

「そういうお前は?」

「私は、理科」

「天使担当の授業じゃん。ズルい」

「何もズルくないわよ。神に仕えるものとして、運気が良いのよ。羨ましかったら、毎日うちにお参りへ来ることね。あ、お賽銭は千円以上じゃないと受け付けないから。それと、私にお祓いをお願いするなら、チップをはずみなさい。そうね……一万円でいいわ」

「お前、二度と神に仕えてるとか言うな」

 そんな漫才のようなやり取りをした後、二人はそれぞれの教室へ向かった。無論、西田が酷く叱られたことと葵がすんなり授業に参加できたことは、言うまでもない。


 すべての授業が終わり、帰宅部の葵は学校を後にしていた。家と学校の中間地点に差し掛かったころ、突然後ろから声をかけられた。

「三神さん」

 振り返ると、そこには西田が立っていた。

「西田、あんた部活中でしょ。こんなとこで、なにしてるの」

「いや、今朝の話。まだ予定話せてなかったからさ、追いかけてきた。ま、サッカー部のエースだから。三神さんに追いつくのなんて、簡単だったけどな」

 軽口をたたく西田。だがその両手は膝に付かれていて、視線も下がったままだった。それを見て、葵は思わず笑ってしまった。

「そんな体制で余裕って言われても、説得力無いよ。本当は全力で走ってきてしんどいですって、認めればいいのに」

「だから、余裕だって言ってるだろ」

 西田は、少し苛立ちながらそう言った。

「いや、この際俺がしんどいか、しんどくないかなんてどうでもいい。それよりも、旅行の話だ。急な話だけど、島で祭りがあるのは、六月六日なんだ。ただ、当日だとフェリーが満員で大変だから、前日に島に行こうと思ってる。六月五日ね。今朝言った通り、親戚の家に泊めてもらえるから」

 ようやく、西田の目がこちらを向いた。

「ふん。レディを誘うのにそんな急な予定を立てるなんて、どうかしてるわ。あんたと旅行ってだけでも気が乗らないのに」

「でも三神さん、今滅茶苦茶嬉しそうじゃん。本当は、俺と行きたいんでしょ」

「そ、そんなわけないでしょ。自惚れないで、気持ち悪い。私はただ、お祭りが楽しみなだけ。一緒に行くのがあんたなんて、マイナス要素でしかないわ」

 葵は、とっさに視線をそらした。西田は、少し声のトーンを落として、話を続けた。

「それじゃあ、朝の十時に迎えに行くよ。港まで車で三十分くらいだし、十時五十分に出向するフェリーもあるから。優等生の三神さんには言うまでもないことだと思うけど、六月五日は金曜日だけど、創立記念日で休みだからね。寝ぼけて登校して、旅行ドタキャンとかやめてよ?」

「あんた、誰に向かって言ってるの?……分かった、準備しとく」

「よしっ、決まり! 祭りなんだから、浴衣用意しといてよ。頼むよ! 可愛い浴衣姿見せてよね」

「ハードル上げるな、バカ」

 葵は、照れ笑いをしながら西田を小突いた。“いつものあいさつ”とは違うニュアンスで使われている可愛いという言葉に、思わず反応してしまったようだ。

 西田は西田で、そんなことを言ってしまった……いや、言えてしまった自分に驚いていた。

「じゃ、じゃあ、俺は部活戻るから。気をつけて帰れよ。後、旅行のこと忘れんなよ」

「うん。じゃあ、部活頑張って」

 走って学校に戻る西田の姿を、葵は手を振って見送った。

 さすが、サッカー部のエースと言われるほどの実力者。走り方がとても軽やかで、本当にここまで走るのは余裕だったのかもしれないと感じるものだった。

「あ。そういえば、サッカー部の顧問って……」

 その後学校で、西田が“鬼の坂井”に手ひどく怒られていたことは、言うまでもない。

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