消えた島民たち

佐々木 凛

序章

 鬼は無数の星が滲む空を見て、ただ平和を願った。

 時刻は間もなく午前零時。夜は更けるばかりだ。絶海の孤島というにふさわしいこの隠鬼おきしまでは、普段ならこの時間、波の音といくつかの野生動物の声以外にはなにも聞こえない。

 しかし今の鬼の耳には、酒盛りでバカ騒ぎをしている男たちの声が聞こえる。自分が身を潜めている森のすぐ近く、とある神社から聞こえてくる声だ。神を祀る社で、酒を飲みながら騒ぐ。とんでもなく愚かで慎むべき行為のように思えるが、それが許容される理由が今はある。

 それは、今日が隠鬼の島に伝わる由緒正しい祭りの日だということだ。祭りの夜だから騒いでも許されるわけではない。その祭りが島に封印されたという鬼に打ち勝った記念日を祝すものだから、神に仕える人々も愚行を行いたくなると、寛容になれるという意味だ。

「鬼が復活する? 島に災いをもたらす? あんなもんは、科学のかの字も知らない昔の人間の戯言だ! 現代の、この日本に、鬼なんているわけねえだろ。鬼なんて怖くねえ! 不思議な力や災いなんて、ただのまやかしだ」

 酒盛りで騒ぐ声の中から、そのような声が聞こえた。そう、この島に伝わる鬼伝説は、ただ人間が鬼に勝利したという吉報だけではない。


 ――六十六年に一度、鬼はこの世界に舞い戻るだろう。その時この島には、とてつもない災いが降り注ぐことだろう。


 島民の誰もが知っていて、誰もが信じず、誰もが恐れる、言い伝えがこれだ。先ほどの酒盛りでの発言も、煎じ詰めて言えばただの強がりである。そう断言できる。

 何故なら午前零時を過ぎれば鬼が復活すると言われているその日がやって来るし、自分がその復活する鬼だからだ。――といっても、外見上はただの人間である。いや、内面もただの人間だ。この日に新たに鬼として生を受けたわけではなく、ここまで人生を紡いできた。一人の人間である。

 だが数日前のある日、その人物は悟った。自分に鬼の力が宿ったことを……今の自分には、現実を改変する力があると……そう悟ったのだ。生まれた時からずっと信じていなかった伝説だったが、今の自分はその伝説の当事者である。何故か分からないが、その確信が頭から離れなくなった。きっと、それが事実だからだろう。

 だからその人物は、その日から自分は鬼だと思って過ごした。かといって、傍若無人に振る舞いを変えたわけではない。鬼のように、人を人とも思わない悪行を働いたわけでもない。表向きは、何も変わらない。ただ力を揮う今日この日のために、鬼の自分が為すべきことは何かを問い続けたのだ。


 そしてついに、鬼は結論を出した。


 為すべきは、この島を平和にすることだと。鬼は何度も迷った。自分の望んでいる平和とは、独りよがりのものではないか。島民の大多数が望む平和とは、違うのではないか。何度も何度も迷い、考えに考え続けた。そして、取り敢えず願って見てから考えよう、と思い、それ以上考えることを止めた。答えなど、出るわけがない問いだった。

 枕代わりにしている鞄から取り出したスマートフォンで、時刻を確認する。午前零時になった。鬼は目を閉じ、拳を天高く突き上げて願った。

 途端に脱力。全身から、力が抜けていく。だが、確かな手応えはあった。十秒、二十秒と時間が経つ。そして目を開け、願いが叶ったかどうか確認しようとした時、鬼はひどく後悔した。

 願いが抽象的すぎて、鬼自身もどのような変化が起きたのか分からなかったのだ。もっと具体的な願いにするべきだったと、鬼は反省した。そして願いを取り消したり、変更できないかと試してみたが、これは全く手応えがない。どうやら一度使ったら、もう鬼の力は使えないらしい。

 静寂。自分の溜息と波の音以外は、何も聞こえなかった。そう、聞こえなかったのだ。あのバカ騒ぎしていた、酒盛りの声でさえも。

 鬼は思わず上体をはね起こし、耳を澄ませた。あれだけ盛り上がっていた酒盛りが、こんなにも唐突に終わりを告げるとは思えない。仮に終わったのだとしても、それならそれで食器などを片付ける音や神社を後にする人々の足音等、なにかしらの音が聞こえるだろう。

 しかし、聞こえない。何も聞こえない。波の音以外は何も。隠鬼の島は、静寂に包まれていた。鬼は全身をゆっくりと起こし、ゆっくりと神社の方へ歩を進める。遠くから様子を窺うと、社の明かりはまだ点いていたが、それに照らされる人影は一つもなかった。

 さらに歩を進めて、戸を開けてみる。その時、鬼は二つの異変に気付いた。一つ目は、社の中に誰一人として居ないということである。テーブルの上にはまだ温かい料理が並び、酒が並々と注がれた盃もあるのに、何処をどう見てもまだ酒盛りは途中だというのに、誰も居ないのである。二つ目は、鬼自身に起こった異変である。なるほど確かに。これほどの強力な力なら代償があって当然だ、と考えて、そのことはそれ以上気にしなかった。

 社の中をくまなく探索した後、鬼は島中を歩き回ることにした。毎年祭りの夜は吞兵衛で溢れかえる飲み屋街でさえ、人の姿は見えない。どこを歩いても、どれだけ歩いても人影を見ることはない。

 夜が明けるにつれ、鬼は状況と自分のしたことを理解していった。祭りの翌日だろうと午前五時から通常営業だと息巻いていた豆腐屋も、祭りの翌日こそ売れると張り切っていたパン屋も、鬼の力を退けるために夜通し祈り続けると言った巫女も、誰一人としてその姿を見せる者はいなかった。

 やがて、鬼の力で起こった異変に気付いた者が鳴らす警鐘の音で集まってみれば、最終的に現れた人間は七人。それ以外の人間は、影も形も無くなっていた。鬼は、自分の力で人が消えたのだと確信した。


 そして、生き残った面々を見て、その真意に気付いた。


 まだ自分の願いは完遂されたわけではない。願いが叶いやすいように、状況が整えられただけだ。力の制限上いくつかの不純物は混ざっているようだが、鬼は願いの完遂のために必要な人間だけが生き残ったのだと分かった。


 ――この島に平和を取り戻すため、必要な犠牲なのだ。

 島民が姿を消して取り乱しそうになった鬼だったが、自分にそう言い聞かせて納得させることにした。そして、決意する。願いを叶えるため、もう手段は選ばないと……。

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