パフェにチェリーを添える、私はあなたと同じ食卓につく

月花

パフェにチェリーを添える、私はあなたと同じ食卓につく



「そろそろ日本を飛び出して、ビッグドリームを掴みたいと思わない?」


 月曜日の九時十分。始業のチャイムが鳴ってしばらくしたころ、ガラス張りの会議室のなかで部長がそう言った。


 たぶん部長は私のリアクションに期待していたし、下手をすれば「ビー・アンビシャス!」なんて返事を求めていた可能性すらあった。


 しかし私はてんで意味がわからなかったので、「どちらかといえば飛びだしたくないですね」と返す。まさかそんな答えが返ってくると思わなかったのか、お互いしばらく無言が続いた。


 嘘である。

 絶対に日本を飛び出したくない。


 私は生まれてこの方日本で生きてきたし、これから先も日本で生きていくし、最後は畳の上で大往生する予定だ。世界へ飛び立ちたいなんて微塵も思ったことがない。


 部長はさっきの返事を聞き間違いだと思いこむことにしたのか、「日本、飛びだせるよ。次のステップ。早瀬さんは期待されてる」と力強く続けた。


「まあ端的に言ってしまえば海外赴任ね。早瀬さんの同期でも行ってると思うけど、連絡とか取らないの?」

「よくインスタが更新されますよ。新しい出会いに感謝してたり、みんな個性が強すぎるそうです」

「だいぶ嫌味のニュアンスが強かったけれど、ひとまず聞き流しておきましょうね」


 彼女は思い出したように「立ち話もなんだし座ったら?」と椅子を指さした。これは長い話になりそうだぞと私は唾をのむ。早くデスクに戻りたいなあと思いながら、近くにあったワーキングチェアを引っ張ってきた。


「海外赴任の話、受けてみない?」


 部長はマグカップの中のマドラーをくるくる回した。


「早瀬さんは部内での評価がすごく高いんだよ。目立つタイプじゃないけどマメで仕事が早いし。だからようやくチャンスが回ってきたわけ」

「はあ」

「回ってきたっていうか、回したんだけどね。あたしの推薦」


 私の口角がピクリと震えた。本当に余計なことをしてくれたものである。

 ありがた迷惑このうえなかったので、私は笑みを張り付けたままで見つめた。この微妙なリアクションよ、伝われ。頼むから伝わってくれ。


「そのう、私は……」

「あたしとしてはこの話、ぜひ受けてほしいのよね」


 残念なことにまるで伝わらなかった。コミュニケーションの難しさを痛感する。


「ここだけの話にしてほしいんだけど、あたしって社内じゃ唯一の女部長じゃない? だからまあ、いろいろ思うとこがあるわけ。実際うちってかなりの男社会だしね。だからこそ同じ女として早瀬さんの味方になりたいのよ」

「お気持ちはありがたいのですが……」

「うちだと海外赴任なんてチャンス、若い独身にしか回ってこないの。ここで成功すれば必ず将来のキャリアに繋がるわ」


 彼女は私の手を握った。


「女は家庭に入って夫を支えるものなんてナンセンスよね。早瀬さんにはバリバリ働いて出世して、幸せになってほしいの」


 ちなみに行き先はジャカルタだった。どこだよ。






 その夜、私は飲み会という名の合コンに参加していた。

 完全に騙されたのだ。


 久しぶりに同期から「飲み会やらない? 同期で近況報告しようよ」という連絡があったので、喜び勇んで向かってみれば半分が知らない男だった。

 へらへら笑いながら生ビールを注文しつつ、隣にいた子に「聞いてないんだけど」と抗議した。彼女からは「言ってないもん」と返ってきた。悪びれのなさでは優勝していた。


「だって人数足りなくてえ。合コンって言ったら早瀬ちゃん、絶対来てくれないじゃん」

「もはや同期の集まりですらないし。騙し討ちにもほどがない?」

「え、早瀬ちゃん焼酎ロック? 最初から飛ばすねえ」

「判断力を低下させようとしてこないで」


 海外赴任の話について探りを入れようと思っていたのに目論見が大外れだ。こうなったらもうヤケクソだった。

 さっそく届いたジョッキでとりあえず乾杯。端から自己紹介が始まっているけれど、私は男を狩りに行こうというモチベーションが皆無だったので、ひたすらお通しのチョレギサラダを食べていた。


 いわく、この合コンは取引先の独身男性を集めて開催されたものらしい。適当に話を合わせつつ酒を煽る。しっかり酔いが回ってきたころ、居酒屋の扉がガラガラと音を立てた。


「すんません、六時半からの団体の者です。もう始まってると思うんですけど」


 店員さんは「あちらの畳席ですよ」と大きな声で言った。ありがとうございまーす、と返すその声はとても聞き覚えのあるものだった。

 斜め前に座っている男の同僚なのか、こっちこっちと手招きされて近づいてくる。


「いやー、ごめん。発注でトラブルがあってさ――」


 靴を脱ぎながら言う彼と、空になったジョッキを持った私の視線がぱちっと合った。


「……絵里?」

「……啓人?」


 おたがいの名前を呼んで確かめ合ったけれど、正直そんな必要はなかった。三年ぶりだったとはいえ飽きるほど見てきた顔だったのだから。


 啓人はジャケットを脱いで座った。生ビールを注文して一息ついている彼に話しかける。


「スーツ、ほんとに似合わないね」

「マジでそれな」


 彼は子どもみたいに笑った。

 啓人は大学のバドミントンサークルの先輩だ。先輩といっても敬語は使っていないし、呼び捨てだし、もはや友だちみたいな感覚だった。サークルで一番仲が良かったのも啓人だ。


 啓人は一つ上の学年だったから私より早く就職した。仕事で忙しかったら悪いな、と思って連絡しないでいるうちに疎遠になってしまって、顔を見たのは実に久しぶりだ。だというのに昨日会ったばかりみたいな空気感は、やっぱり私と彼が本当の友だちだったからだと思う。


 とりあえず二人で乾杯してから改めて「お久しぶりです」と頭を下げた。


「で、最近どうなんだよ」

「ジャカルタの民にされそう」

「は?」


 挨拶もそこそこに今日起こったことを順番に話していった。酔いが回っている私は全力のため息をつく。


「絶対行きたくない。本当に行きたくない。でも若い独身で断った前例ないって。今のところ確定ジャカルタ」

「そういや海外旅行も興味ないって言ってたしな。でも絵里って就活かなり頑張っていい会社入ったんだろ? なんで海外行きたくないの?」

「あー……」


 私は静かに目を逸らしながら「日本のご飯が好きすぎる」と答えた。


「小さいときに家族旅行でグアムに行ったんだけど、そのときお腹壊しちゃってさ。それがトラウマになって無理なんだよね。でもそんな理由で断れないじゃん……」

「そりゃ卵がけご飯が食べたいので海外赴任できません、は無理があるな」


 だよねえ、と絶望が深まっていく。「そっちこそ最近どう?」と振ってみれば、啓人はギクリと顔を固まらせた。


「仕事はまあ、順調」

「仕事以外は?」

「……親戚中から結婚しろという圧をかけられてる……」

「田舎って怖いね」


 啓人は真っ青な顔で「冗談じゃないんだって。毎日夜になるとありとあらゆる親族から電話かかってくるんだよ。なにあれ、持ち回り制でかけてんの? 俺そろそろノイローゼになりそう。昨日はついに血尿でた」と報告してきた。


「それはもう病院行った方がよくない?」

「っていうか鬼電したって嫁はわいてこないだろ」

「割と冷静じゃん」


 啓人は「本気で困ってるんだよ。病むかもしれない」と唸り声をあげた。彼の出身はまごうことなきド田舎で、人間より猿の方が多いレベルだ。都内の大学へ進学するという口実で逃げ出してきた彼だけれど、帰省もせず結婚もしないとなれば山ほどいる親戚が放っておかないらしい。


 まったく、おたがい厄介な事情を抱えたものだった。

 盛大なため息をついて――しばらく考える。


「…………あれ? ちょっと待って?」

「…………もしかしたら俺も同じこと考えてるかも」


 私は海外赴任をしたくない。

 彼は親戚中からのしかかる圧から逃れたい。

 奇遇にも、回避するための方法は共通している。


「結婚――すればよくない?」


 声に出したのは同時だった。私たちはもう一度考えてみるけれど、これほどまで鮮やかな回答はもう二度と見つからないだろう。

 私はふーっと息をついた。そして人生で一番のキメ顔を見せつけながらプロポーズした。


「結婚しません?」


 啓人は三秒考えると、人生で一番のキメ顔でプロポーズに応えた。


「結婚しようか」


 私たちはグラスに残っていた酒をすべて飲み干し、力強く握手した。人生の友とはなんと美しいものだろう。今ならインスタに「この出会いに感謝」と書きこむ気持ちもわかる。


 そうして私たちは共同戦線を張ることなったのである。

 ちなみにこのとき私たちが飲んでいたのは度数四十の芋焼酎だった。






 部長に「実は結婚することになったんです。奇遇にも、偶然、天文学的確率で」と報告すれば、彼女は「若い子のなかじゃエイプリルフールの先取りが流行ってるの?」と返された。やや思考放棄している部長に物的証拠(結婚指輪)を見せれば、さすがに黙りこむ。


「そういうわけでジャカルタには行けません。私は所沢市で生きていきます」


 という具合で私の問題は片付いた。


 啓人の方も親戚中に電話をかけまくって「結婚する。共働きだから帰省できないし結婚式もしない。……いやだからしないって。そっちにチャペルないじゃん、あるの猪の罠だけでしょ」と一方的に報告していた。しばらくは着信が鳴りやまなかったけれど、啓人はスマホをミュートにすることで連絡をノーカンにしていた。


 そうこうしているうちに予定の入籍日は明日に迫っていた。十一月二十二日――いい夫婦の日にしたのは、単純に覚えやすいからで他意はない。おかげさまで仏滅だ。

 朝から市役所に行く予定だけれど、テーブルに載っている婚姻届はいまだ書きかけだ。


「苗字だけどさあ……」

「私は変えないからね。手続きとか面倒だもん」

「俺だって面倒だよ」


 こんな調子でおたがい譲らないものだから一向に話は進まないのだ。私たちに遠慮というものは存在していないし、妥協という概念も持ち合わせていなかった。私たちはとても野蛮なのでついに拳を握る。


「じゃーんけん!」

「ぽん!」


 こともあろうか苗字をじゃんけんで決めるという暴挙に出たのである。

 啓人が繰り出した渾身のチョキは、私の堅固なグーによってねじ伏せられた。


「シャア! シャアッ!」

「くっそ! 最悪だ! っていうか死ぬほど気合の入ったガッツポーズ腹立つな!」


 そんなこんなで彼は早瀬啓人になったのであった。私は満面の笑みで「似合うじゃーん。よく見れば早瀬っぽい顔してるよ。よっ、早瀬のなかの早瀬!」とほめたたえた。






 啓人と「やっぱりソファ欲しいよね。最悪寝落ちできるし」と意見が一致したから、週末は家具屋を回っていた。途中で私のスマホが鳴ったのでひとまず休憩だ。近くのソファに身身体を沈ませている啓人から少し離れて、電話に出る。


 電話をかけてきたのは妹の莉子だった。莉子は私の四つ下で、この春就職したばかりだ。すぐに家をでた私とは違って実家に住んでいるからたまに連絡を取るくらいだった。


『それにしてもお姉ちゃんが結婚するなんてねえ。しかもいきなり。青天の霹靂って感じ』


 私はへらへら笑いながら「ごめん、紹介が遅くなって。仕事が忙しかったから」と適当に誤魔化した。


『あのワーカーホリックがいつの間に彼氏作ってたの? 早く言ってくれればよかったのに! お姉ちゃんと彼氏の愚痴とかで盛り上がりたかったなあ』

「あれ? しばらく恋人いないんじゃなかったの?」

『何言ってんの、お姉ちゃんが知ってるのはたぶん三人前だよ?』


 あ、なるほど。私は棒読みで返した。莉子は私と正反対の人間で、いわゆる恋人が途切れないタイプだ。彼女の恋人遍歴は本人ですら怪しい。

 五分ほど莉子と話していたけれど、「お母さんが代わってほしいって」と電話相手が交代した。


『もしもし。元気みたいね』


 電話越しに聞くお母さんの声はいつもより高く感じる。私は「最近はちゃんと寝てるよ」と返した。


『莉子も言ってたけれど、まさか絵里が結婚できるなんて思ってもいなかったわ。仕事人間だし、孫も期待してなかったんだけどね。啓人さんとは上手くやれているの?』

「うん、喧嘩もしてない」


 お母さんは「それはよかった。仕事で忙しくて家事はきちんとするのよ」と念押しするように言った。


『そういえば莉子、配属は成田空港に決まったのよ。もう聞いてる?』

「さっき本人から。グランドスタッフだったよね。成田ならそのうち会うことになるかも」

『制服が本当に似合ってたのよ。あとで写真送るわ』


 それからしばらく莉子の話で盛り上がっていると、啓人が視線だけで「そろそろ買い物の続きしない?」と訴えかけてきた。私は頷いて電話を切りあげる。

 結局その日はいいソファが見つからなくて、私たちはなぜかホットプレートを買った。夜には焼きそばパーティーが慎ましやかに開催された。






 サークルで出会ってから三年間、大した喧嘩もなく友人関係を築いてきた私たちにとっては、新婚生活もそう変わりのないものだった。同じ家に住んでいて、同じご飯を食べて、同じお風呂に入る。ちょっとばかりやることが増えただけだ。


 私たちってつくづく相性がいいんだな、とお風呂につかりながら呟いた。たぶん啓人もそう思っているだろう。私たちは相手のデコボコを埋め合わせるようなピースみたいだ。


 なんて感傷にひたっていられたのは最初の一ヵ月だけ。

 笑ってしまいたくなるけれど、本当に。


 きっかけはとある日の夕食だったが、それはただのスイッチだった。つまりけれどだけだ。


「啓人、ご飯よそったよ。お箸並べてくれた?」

「ああ、うん」


 部屋着の啓人は二人分の水を注いだ。そしてテーブルに並べられた夕食を見ると、数秒考えるように黙りこんだのだ。


「…………」

「どうしたの? 早く食べようよ、卵焼きが冷めちゃう。見て、今日はすごくきれいに巻けたんだよ」

「…………あのさ」


 彼は椅子に座ると意を決したように口を開いた。仕事の愚痴を言おうとしているようには見えなくて首を傾げる。なかなか続きを言おうとしない啓人を急かせば、彼は改まるように膝に両手を置いた。


「……俺、甘い卵焼き嫌いなんだよな……」


 思わず「え?」という声がでてしまった。ぱっと口を閉じるけれど、二人きりの静かな部屋にはよく響いてしまう。私はあははと苦笑いしながら返した。


「卵焼きが嫌いってこと?」

「いや卵焼きは好き」

「うん? じゃあどういうこと?」

「だから甘い卵焼きがどうしても受け付けなくてさ……」


 啓人は悩ましい顔で言った。私には彼が何を言っているのかさっぱり理解できなくて、頭の中にははてなマークばかりが飛び回っている。


「甘くない卵焼きって、それ卵焼きじゃなくない? じゃあ逆に何で味つけするの?」

「うちは出汁だった」

「待って、待って。それは出汁巻きでしょ? 卵焼きには砂糖だよ」

「そもそも卵焼きと出汁巻きをそこまで区別してないんだよな。出汁巻きってあえて言うときはもっとたっぷり入れるかもだけど」

「ええ……?」


 私はスマホを出してきてグーグル先生に質問した。すると地域によっては出汁を使う人の方が多いらしいことがわかって、私はひっくり返ってしまいそうだった。「砂糖入れないの? 卵焼きが甘くないの? そんなことある?」とますます混乱してしまう。


「だから卵焼きは砂糖じゃなくて出汁がよくて……」

「や、やだよ。甘くない卵焼きなんて私が受け付けないよ」


 うっかり反射で拒否してしまった。私は食へのこだわりが人より強いことを自覚していたし、啓人も重々承知のはずだ。というか私が海外赴任したくないのだって元を正せば食が原因だったし。だからこそ彼も言いづらそうにしていたのだろう。


 けれど私がなんの譲歩もしていないわけではない。わがままだと思われるのは心外だった私は「でも」と続けた。


「啓人が味噌汁はじゃがいもよりサツマイモがいいって言うからそうしてるよ」

「わかってる。それはホントにわかってる。ありがとう。でも甘い卵焼きが駄目っていうのは変わんないというか……。できれば分けて作ってもらえたりしないかなあ~、なんて……」

「それはちょっと。仕事終わってから作るからあんまり時間ないし」


 何でもない風に返したつもりで、けれど少しむっとしてしまう。

 帰ってくる時間はいつも私の方が遅い。わざわざ二つの味つけで作る余裕なんてないし、そんなに卵焼きばかりあっても食べきれなくて困ってしまう。啓人はあまり自炊をしてこなかったから作る側のあれこれがわからないのだ。


 私は椅子に座りなおして背筋を伸ばした。啓人がそうしたみたいに膝に両手を置く。


「そんなこと言うなら、私だって言いたいことあるよ」

「え、なに」

「啓人ってお風呂のお湯毎日流すけど、もったいなくない?」


 彼はぱちぱちと瞬きをした。そんなことを言われるとは思ってもみなかった、という顔で。


「……は? どういうこと?」

「残り湯で洗濯できるし。実家はそうしてたし、一人暮らしのときもやってたよ。節水になるの。チリツモで年間五千円くらいは浮くんじゃないかな」

「逆に五千円しか浮かないんだ?」


 さすがに残り湯で洗濯を知らないはずもないけれど、啓人はいまいち乗り気に見えなかった。節約になるし環境にもいいし、やらない理由なんてないはずなのに。

 私が訝し気なのに気づいたのか啓人は「わざわざやるほどじゃなくない? 風呂の残り湯っていうほどきれいじゃないじゃん」とぶつぶつ言った。


「きれいにするために洗濯するのに、きれいじゃない水使うとか変だろ」

「最初だけ使うんだよ? 洗った後のすすぎは普通の水なの」

「いや、でもさあ」

「そもそもお風呂の水を汚さないように入るんだよ。石鹸の泡とか髪の毛とか入らないように気を付ければ大丈夫」


 私はしっかりと説明をしていく。それでも啓人の浮かない顔は変わらなかったし、むしろむっとしたような表情になった気さえする。さっきまでの私と同じ顔だ。一度気づいてしまえば私もにこやかではいられない。


 黙りこんでしまうとリビングはとても静かだった。視線を合わせないようにそれぞれがバラバラの場所を見る。わざとらしいにも程があった。


 私か啓人のどちらかが「じゃあ一回試してみようか」なんて言えばそれで収まるはずなのに、だったら相手が言えばいいじゃん、という気でいるのだから延々と平行線だ。

 なにか不利益があるわけでもないのになぜか譲りたくはなかった。一度譲ったら負けのような気がしていたのだ。


 少しして啓人は急に立ちあがった。私がぱっと見上げると、彼は何も言わずにリビングを出ていってしまった。

 ガチャン、と扉の閉まる音がやけに大きく響く。


 悪くない判断だったと思う。このまま黙っていたってなんの意味もなかった。だったら頭を冷やすために時間を置くのはきっと間違っていない。

 なのにどうしてだか私は無性に寂しいような悔しいような、とにかくよくない感情でいっぱいになっていくのを感じたのだ。


 ご飯くらい、食べてから行けばいいのに。

 啓人はチンすれば温かいのが食べられるじゃん、なんて言うのだろうけど。


「…………もっと上手くやれると思ってたのになあ」


 一人きりになってしまったリビングで、私は頬杖をつきながら呟いた。

 けれど私が一人きりでいたのはたった三分のことだった。


 再びガチャンという音を立てながら扉が開いた。私が「え?」と声をあげながら振り向くと、そこにいたのはやっぱり啓人で。

 どうしてだか、本当にどうしてだかさっぱりわからないけれど、右手には作業用のヘルメット、左手には新聞紙を丸めたものを持っていた。


 私はもう一度「えっ?」と大きめの声で言った。ゴキブリを入念に処理するための装備だろうか。

 啓人はリビングの真ん中に立つと、すーっと深呼吸して声を張り上げた。


「チキチキ! 第一回叩いてかぶってじゃんけんぽん大会~!」


 啓人は高らかに開催を宣言した。状況にまったくついていけない私はとりあえず立ちあがった。


「待って、第一回ってことは第二回があるってこと?」

「そこはどうでもよくない?」


 あまりにも冷静に返されたので、ごめん現状を理解できなくて、と私はなぜか謝罪する。


「俺はさ、卵焼きは出汁がいいし、味噌汁にはサツマイモがいいし、洗濯の残り湯は使いたくないわけ」

「そりゃあ私だって黙碁焼きは砂糖がいいし、味噌汁はジャガイモで、選択の残り湯はリサイクルしたいよ」

「だったら叩いてかぶってじゃんけんぽんで決着つけるしかなくない?」

「ちょっと待って、明らかに話が飛んだ気がするよ」


 私は昔からその場のノリに流されない子どもだったので、きっぱりと否定してみせた。


「そこは普通話し合うとか妥協するとか、いろいろあるじゃん」


 世の中の夫婦はたいていそうしてると思う。というかいい大人ならそうする。私が「嘘でしょ」と返せば、啓人は「よく思い出してみろ」とかぶりを振った。


「そもそも俺ら、苗字もじゃんけんで決めた」

「あっ」


 啓人はけらけら笑いながら新聞紙とヘルメットをセッティングし始めた。私がテーブルの前で立ったまま固まっていると、「俺の強さに怖じ気づいた?」と茶化すように言った。


「誰が。かつては四天王の一角と恐れられた私の栄光を見せてあげるよ」

「初耳なんですけど」


 そりゃあそうだろう、たった今考えた嘘だから。


「絵里はさっき普通って言ったけど、普通ってなに?」

「普通は普通……じゃない? 世間におけるマジョリティ? 多数決したら勝つ方?」

「じゃあこれが普通だって言われたら絵里はジャカルタに行って、好きじゃない仕事して、ご飯食べて、寝るわけ?」

「それは……違うけど」

「っていうかジャカルタってどこだよ。アフリカ?」

「インドネシアの首都だよ……」


 最近調べたばかりのことをさも知っていたかのように言う。それきり私は言いよどんでしまった。普通断らない海外赴任を断ってここにいるのだ、何も言えやしない。「でも」とか「だって」とか続きのない言葉を繰り返していたら、啓人はまた笑った。


「普通でも普通じゃなくても、大人でも子どもでもいいじゃん。ちゃんと二人で同意したことなら。俺はそれがいいと思ってて、絵里もそうだって言ってくれるんだったら、誰に文句言われても痛くもかゆくもない」

「本当にそう思ってる?」

「思ってるよ。人生長いんだからせめて息しやすい方法で生きてたくない?」


 私は思い出したように深く息をする。啓人はいつだって私の呼吸を正してくれる。


「好きじゃない普通になるくらいなら、好きな変でいいよ。人様に迷惑をかけてないならなんでもいいし、プラスで面白いじゃんって笑ってくれるやつが一人いればより救われる。俺はそれだけ」


 少しだけ背筋が伸びる。その一人に私を選んでくれるのなら、私も少しは救われるような気がした。


 チキチキ第一回叩いてかぶってじゃんけんぽん大会の結果、卵焼きには砂糖、風呂の残り湯は使わないことが決定した。私たちは冷蔵庫の横に大きな紙を張って、試合結果を書きこんでいくことにした。







 二週間ほどたったとある土曜日、なんの前触れもなくマンションのチャイムが鳴った。キッチンで野菜を茹でている私が「なにか注文してた?」と聞けば、ソファーでゲームをしていた啓人が「いや、別に?」と首を傾げた。


「もしかしたら私かなあ。お取り寄せスイーツとかポチッたかもしれない」


 彼はまくれあがっていた部屋着を指先で戻しながらリビングの扉を開けた。

 私はふんふんと鼻歌を歌いながら、茹で終わったブロッコリーをざるにあげる。お取り寄せスイーツだったらいいな、むしろお取り寄せスイーツであれという気分になっていた。


 玄関からはかすかな話し声が聞こえていて、なんだか思っているよりも長いな、とか考えているうちに足音が近づいてきた。──なぜか二人分。

 私が「あれ?」と手を止めたところで扉が開いた。けれどそこにいたのは啓人ではなかった。


「絵里さんお久しぶりねえ! 結婚のご挨拶以来かしら」

「お、お義母さん!?」


 度肝を抜かれた私はざるをひっくり返し、シンクにすべてのブロッコリーをぶちまけた。

 あわてて熱々のそれをザルに戻しながら、なにか予定でもあっただろうかと必死に考える。思い当たる節は微塵もなかった。お義母さんの背後に立っている啓人にヘルプの目で訴えたが、啓人はぶんぶんと首を振るだけだ。


「と、とにかく座ってください。今日は遠いところからありがとうございます」

「ついでよ、ついで。ちょっと東京にくる予定ができたから寄ってみただけ。あなたたちの新居を見てみたくってね」


 お義母さんは薄いジャケットを腕にかけた。


「それにしてもいい所じゃないの! この部屋はどっちが選んだの?」

「ええと、見つけてきたのは私で、選んだのは啓人です」

「絵里さんったら本当によくできた人ねえ。いい会社にお勤めなんでしょう? 」


 私はエプロンを丸めて置いて、コーヒーマシンのスイッチを押した。来客用の食器セットなんて買っていなかったからどうしようかと焦る。とりあえず啓人のものを使わせてもらおう。たぶん啓人的には飲んでる場合じゃないだろうし。

ダイニングテーブルで向かい合わせに座った啓人は、困ったようにため息をついた。


「母さん、せめて連絡くらい寄越してくれない?」

「ごめんなさいね、急に思いついちゃったもんだから。あんた、絵里さんとは仲良くやってるの? 喧嘩なんてしていないでしょうね」

「してないって。もしかしたら今晩、絵里からなんで言ってくれなかったのってキレられるかもしれないけど?」

「あらやだ。ねえ、絵里さん! そんなことはないわよねえ?」

「え? あ、はい!」


 話をよく聞いていなかった私は適当に返事をする。お義母さんは「ほら。絵里さんは優しいお嫁さんね」と言った。


「とにかく、あんたは絵里さん連れて一度くらい戻ってきなさいよ。結婚の挨拶だってうちにしかしてないでしょ。お義父さんにくらい絵里さん会わせてあげたら?」

「じいちゃん半分ボケてるじゃん。ヘルパーさんと間違えて風呂に入れてくれって言うね」

「山内の叔母さんは? ずっとあんたのこと心配してたわよ。三日に一回は電話かけてくれたらしいけど、啓人が疲れてるみたいだって相談してきたのよ。鬱にでもなってるんじゃないかって」

「元凶がなんか言ってるわ~……」


 私は吹き出しそうになったのをギリギリで堪えた。彼の血尿の生産者がわかってしまったので、心の中でご愁傷様ですと合掌する。


 それから十五分ほど似たようなやり取りを続けていた。啓人は「今は忙しいから地元に戻るつもりはないし、結婚式もしない」と主張して、「絵里のことはそのうち紹介するから」と無理やり話をまとめた。


 お義母さんは終始不服そうだったけれど、珈琲を一杯飲み終わると意外にもさっさと帰っていった。手土産のクッキー缶と、引っ越し祝いに可愛いクマのぬいぐるみを置いて。

 私たちは大きくため息をついた。お義母さんはけっして悪い人ではないし、むしろ世話を焼いてくれる親切さがあるけれど、同時に嵐みたいない人でもあったのだ。


「母さんがごめんな。親戚に紹介しろとか結婚式しろとかうるさくて」


 私はクマのぬいぐるみをテレビ横に飾りながら、「まあ一般論だとは思うよ」と返した。


「普通は恋愛結婚だもんね。私たちみたいに利害の一致で結婚するなんて、お義母さんからしたら考えられないよ」

「合理的だと思うけどなあ。絵里の海外赴任、結婚したからギリギリ断れたんだろ? 俺もようやく結婚しろコーラスが収まって万々歳だ」

「お義母さんには絶対言えないけどね」


 私たちはわははと笑いあって昼食の準備を再開した。

 スマホに着信が入ったのはその日の夜だった。






『お姉ちゃん、何考えてるの?』


 スマホから聞こえてきたのは莉子の声だった。莉子はいつになく冷たい口調でそう言って、『信じられないんだけど』と続ける。

 私が「えっと? 私、なにか約束すっぽかしてた?」と困惑気味に返すのを聞くと、彼女はますます苛立ったようにため息をついた。


「ちょっと、ほんとに私なにかした?」


 莉子がこんな風に怒っているのは珍しい。昔はいろいろ小言を言われたりもしたが、今となっては良好な関係のつもりだ。

 電話の向こうはガヤガヤとうるさかった。車のクラクションも響いている。莉子は外を歩きながら電話をかけているのだろう。


『夕方ごろうちに電話があったの。お義兄さんのご家族から』

「ああ……そういえばお昼、お義母さんがうちに来てくれたよ。珈琲だけ飲んですぐ帰っちゃったから、大した話はできなかったけど」

『なにかおかしいとは思ってたのよ』


 莉子は遮るように呟いた。私には話のつながりがまるで見えてこない。何に怒っているのかもさっぱり。もしかしたら啓人の食器を出したのが悪かったのかな、なんて不安になり始めていたら莉子はとんでもないことを言い出した。


『お姉ちゃんたち、偽装結婚だったんだ』


 私が「は?」と声を漏らしたのと、啓人が振り返ったのはほとんど同時だった。

 啓人はたぶん不穏な空気を感じ取って聞き耳を立てていたのだと思う。しっと人差し指を唇に当てると、私の手からスマホを取り上げた。スピーカーを押してから私の手に戻す。続けて、というジェスチャーに私は呆然としたまま頷いた。


「偽装結婚って。莉子、何言ってんの」

『とぼけたって無駄なんだから。向こうのお母さんから全部教えてもらったのよ。録音した会話も聞かせてもらったから証拠だってある。言い逃れなんてしても意味ないから』

「ろ、録音?」


 私はスマホを落としてしまいそうだった。なに、今この子録音って言ったよね。録音? 私たちの会話を録音したって、いつ、どうやって?

 そばで聞いていた啓人は思い当たる節があったのか、顔を覆って天井を見上げていた。


 ともかく今は莉子を宥めなければいけないと思って、私は「落ち着いてよ。偽装結婚とか変な単語使わなくていいじゃん」と半笑いで言った。


「啓人はいいパートナーだよ。そりゃ確かに恋愛感情とかじゃないけど、一緒に暮らしててすごく楽しいし」

『キスもセックスもできない男と暮らしてるんだ?』

「り、莉子。もうちょっと言い方を考えて……」

『ちょうど今お姉ちゃんの家についた。ドア開けてもらえる?』


 なんの冗談を、と思っていたら本当にチャイムが鳴った。私はすっかり動転していて、スマホをテーブルに置いてばたばた走る。ドアのチェーンを外して押し開けてみればそこには莉子がいた。

 ゆるく巻いた栗色の髪。グロスが塗られてぷっくりとした唇。淡色でまとめられた服。誰が見ても振り返りたくなるような可愛らしい女の子は、けれど私に軽蔑の視線を向けていた。


「久しぶりだね、お姉ちゃん」

「……ひ、久しぶり」

「お義兄さんもいるの? ああ、いるよね。男物の靴あるし」

「なんで莉子がうちに」

「お母さんカンカンだよ。もうずっと怒ってて手がつけらないくらい。でも家のことがあって動けないから代わりに私が来たの。話を聞きに行ってほしいって」


 玄関でこんな話を続けられても困る。とりあえず家にあがってもらっていいかな、と尋ねたら莉子は頷きもせずにショートブーツを脱いだ。

 リビング戻ると啓人がテレビのそばに立っていた。右手にはハサミを握っている。


「待って、啓人。ハサミなんて持ってどうしたの!?」


 おかしくなってしまったのかと思って慌てて肩を掴む。けれど啓人がハサミを向けた先は私たちではなかった。テレビの横に飾ったばかりのクマのぬいぐるみを鷲掴みにすると、背中にざくっと刃を入れたのだ。


 私がああっと声をあげたのも聞かずに、乱暴に綿をかきわけていく。せっかくお義母さんがくれたものなのに――と思ったあたりで私は背筋に悪寒が走るのを感じた。お義母さんがくれたって、まさか。


「……うちの父さん、結婚前にキャバクラ通いしてたことがあったらしくてさ」


 啓人が綿の中から取り出したのは黒い機器。


「そのとき母さんはカバンに盗聴器しかけて証拠見つけたって言ってたんだよ」


 はー、やられた、と啓人は疲れきった顔で嘆いた。

 二代で同じ罠にかかるとは、人間とはなかなかどうして学ばないものであった。けれど日ごろから盗聴器を警戒しているご家庭はそう見つからないだろう。

 啓人はハサミを引き出しのなかに片付けると、思い出したように莉子を見た。


「……いらっしゃい」

「お邪魔しています」

「ところで盗聴器ほしかったりする? 今ちょうど処分に困ってるやつがあってさ」


 莉子はますます不機嫌そうに顔を歪めた。彼女はそういう冗談が通じるタイプではなかった。

 莉子からすれば非難の対象はどちらかといえば私らしく、啓人には礼儀程度の会釈をしてからは目も合わせない。


「マジで一緒に住んでるんだ。ここに着くまでずっと、嘘だったらいいのになって思ってた」

「だって結婚してるし」

「好きでもない人と?」


 莉子ははっと鼻で笑った。


「お姉ちゃん、嘘で結婚してまで幸せになりたかったんだ?」


 私は唇を噛んだ。吐き捨てるみたいに言われて腹が立たなかったわけじゃない。言い返したいことなら山ほどあった。急に押しかけてこないでよ、とか。けれどそれ以上に私は喉の奥がつっかえるような息苦しさを感じていたのだ。酸欠になったみたいだ。


 いつだってそうだった。莉子が正当で私は異端。

 みんな莉子の言うことの方が正しいと褒めて、私が変なのだと怪訝な目を向ける。


 お母さんはいつも莉子を自慢の娘だと言った。じゃあ私は何だって言うのだろう。莉子みたいな可愛さも愛嬌もなくて、正しさもなくて、残っていたのは真面目さだけの私は。


 私なりに頑張ってみたのだ。いい学校に入れば褒めてもらえると思った。お母さんは喜んだけど期待してた反応じゃなかった。だったらいい会社に入れば。いい成績を取って、プロジェクトリーダーになって、私もきっとあなたの自慢の娘に――。

 最近お母さんが一番喜んだのは、莉子が華やかなグランドスタッフになったことだった。


「私は」


 妹相手に声が震えてしまう情けなさ。


「私は……」


 ここでぽろぽろ泣ける可愛げがあればどれだけよかっただろう。でも私はこういうとき固まって何も言えなくなってしまう。誰が助けてくれるわけでもないのに黙りこくるのだ。

 結局それ以上何も言えなくて沈黙が続く。


 そんなとき啓人が「莉子ちゃん、悪いけど」と声を上げた。莉子が私から視線を反らせた隙に、ぱっと手を広げて私たちの間に一線を引いた。


「ちょっと留守番してもらっていい? 帰りは何時になるか分からんけど、鍵預けるし、途中で帰りたくなったらポストにいれてくれればいいから」

「……は?」


 莉子も、ついでに私も呆けたように彼を見た。


「じゃ、そういうことで」

 

 だが啓人は有無も言わさない調子で鍵を握らせた。それから私の手を取ると、大股でリビングを出ていく。はっと我に返った莉子が「急に何を。お義兄さん!」と叫んでいた。なのに啓人は「よろしく〜」と大声で返しただけだった。

 押しかけられて、逆に家主がでていくなんて聞いたことがなかった。






 何をどうしてそうなったのか、啓人は徒歩十五分の距離にあるファミレスに入ると、「何パフェがいい?」と聞いてきた。私はわけも分からずに「チョコバナナ」と答えたので、気づいた時にはチョコバナナパフェが目の前に鎮座していた。たぶんこんなことをしている場合ではない。


 夜九時のファミレスは客もまばらだ。

 ちらりとスマホを見ると莉子からの着信が十二件。啓人は私の手からスマホを取り上げると、「パフェの写真送って飯テロしてやろ」とにやにや笑った。


「早く食わないと溶ける」


 私はずっと手をつけられずにいるのに、啓人が自分のいちごパフェをぱくぱくと食べていた。あまりの図太さに私は空いた口を閉じられなかった。


「啓人」

「サイレントマジョリティとかいうけど、マジョリティの声もたいがいデカいよな」


 ぼやくように言って、啓人はコーンフレークをすくった。


「人類みな自分が正解だと思ったら声が大きくなるもんだ」

「……私は正解じゃないから」

「なんで? 世の中、仕事で成功したら幸せな奴もいるし、好きな人と結婚できたら幸せな奴もいるわけ。でも絵里はどっちでもないじゃん。美味い飯を食べられたら幸せ」


 思い浮かべてみる。私の毎日を。

 うん、私はそれがとても幸せ。


「……でもお母さんは認めてくれない」

「じゃあ幸せとか不幸とか、全部他人に決めてもらうの?」


 私は俯いたままでぴくっと肩を揺らした。思わず顔もあげる。


「そんなわけ」

「そんなわけ、ないよな」


 目の前にはいたずらっぽい笑みを浮かべた啓人がいた。

 私はぱちぱちと瞬きをする。彼は昔から何も変わらない目で私を見ていたし、自分のさくらんぼを一つ私のパフェに乗せてくれた。

 それはきっと愛だった。恋の延長線上じゃなくても愛だった。


 本当は、分かっていたのだ。最初から分かっていた。お母さんが私の人生のすべてじゃないこと。お母さんの価値観が私の人生の優劣を決めるわけでもないこと。他にもたくさん。

 けれど私はお母さんに認めてほしかった。私のすべてじゃなかったとしても、私を形作ったのは間違いなくお母さんだったから。どれほど息苦しくても私はあの人に縋っていた。いつだってずっと。


 私は「いいのかな」と呟いた。いいのかなあ、お母さんに嫌われても。認めてもらえなくても。自慢の娘になれなくても。私の今までの生き方を全部全部否定しちゃっても。それで私は楽になれるのかな。それとも、もっと苦しくなるのかな。


「私、頑張ってきたんだよ」

「知ってる」

「ずっとずっと、頑張ってきた。勉強なんて嫌いなのに大学受験したし。グローバルなんて興味ないのにTOEICで900点取ったし。給料高くなくてもいいのに就活頑張ったし。将来のキャリアなんていらなかったのにプロジェクトリーダーやったし」

「すごいじゃん。何も無駄じゃないだろ、それは。俺じゃそんなことはできない」

「…………啓人はなんで私の友だちでいてくれるの?」


 彼はぱちぱちと瞬きをした。ぴったりな言葉を探すように数秒間目を伏せる。それから私を指さした。


「息がしやすいから」

「?」

「なんでだろうな、絵里といると俺はすごく生きやすい」


 彼は左手の指を順番に折りながら、「ハイボール99円の店でも一緒に行ってくれるし、叩いてかぶってじゃんけんぽん強いし、コストコで馬鹿みたいにでかいティラミス買ってもいいし、沖縄旅行のとき成田と羽田間違えた時も全力で走ってくれたし――うわ、なんか恥ずくなってきた。もう言わんでもいい?」と真顔で訊いてきた。私もだいぶ恥ずかしくなってきたので小さく頷いた。


 代わりに彼はパフェのグラスをそっと押し出してきた。私が注文した、少し溶けているチョコバナナパフェ。


「美味いよ」


 啓人がスプーンを取ってくれたから、私はパフェのアイスクリームをすくって食べる。チョコレート味のそれは甘ったるくて美味しかった。あんまりにも美味しかったから、私はほんの少しだけ泣いてしまった。


 私はお母さんの理想にはなれない。たぶん一生。


 不出来な娘だったからあの人の愛は手に入らなかった。けれど、それでも同じくらい大事な人がくれたのもやっぱり愛なのだ。


 啓人は「このあとボウリング行こ。負けた方がマックのポテトおごりな」と呑気に言った。私はばくばくと食べながら「Lサイズおごらせてやる」と半泣きで返した。

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パフェにチェリーを添える、私はあなたと同じ食卓につく 月花 @yuzuki_flower

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