曇天に悪魔
獣乃ユル
曇天に悪魔
噂をすれば影が射す、ということわざが日本と言う国にはある。なら、この状況は心のどこかで祈ってしまった俺の所為だともいえるのかもしれない。悪魔でもいいから誰か、と願ってしまった俺の落ち度だ。
「結構綺麗な部屋ね」
日常を過ごしてきた自室の中央に、非日常の象徴のようなそれが鎮座している。耳の辺りで切り揃えられた薄紫色の髪や、喪服とドレスを混ぜ込んだような漆黒の衣装が異様な雰囲気を醸し出している。しかし一番着目すべき点は二つだろう。
「角……?」
手入れされた髪の隙間から、羊のような円を描く角が生えている。それに加えて、そこそこの広さのあるこの部屋すら狭いと言わんばかりの大きさで、背中から黒い翼が生えている。
「そう、初めて見たの?」
「一応、人間社会に生きてるので」
心底不思議そうに言い放ったそれに散り散りの事を思考していた神経たちを総動員し、返答する。
「普通の人間のところに来ることは少なくてね。じゃあ、自己紹介と行きましょうか」
藤紫の瞳が妖しく光り、底冷えするような冷たい視線でこちらを真っすぐににらみつける。
「私は……いえ、名前はいいわ。それが聞きたいわけじゃないでしょう?」
抒情詩でも連ねる様な雄大さで、水面に跳ねた雫のような繊細さで彼女は言葉を紡いでいく。
「貴方の心の闇に呼応し、貴方の願いを叶える代弁者。さぁ、貴方の願いを言ってみて?」
彼女はゆっくりと、緩慢にこちらに手を差し伸べる。確かに、一つの願いを心に秘めて日々を過ごしていて、その思考の中に悪魔と言う単語を出してしまったことは確かだ。けれど、この願いは初対面の人に向けるようなものでは……
「何を悩んでいるの?貴方が代償を払ってくれるなら国だって滅ぼしてあげるわ」
そう、か。彼女は願いを叶えるために現れたのだ。ならば、何を願った所で俺の勝手ではないだろうか。
「じゃあ……」
「そうよ、貴方の欲を吐き出して」
獰猛に、残虐に。全てを挑発するようで、その反面全てを受け止める様な一種の寛容さを見せる笑顔を彼女は浮かべる。疑っていたわけではないが、彼女が悪魔なのだとその表情を見て確信した。今まで見てきた人間は、こんなに恐怖を抱かせるような笑みを見せなかったからかもしれない。それとも、今まで見た笑顔の中でこんなに引き込まれるような感覚に陥ったことが無いからだったのか。
「甘やかして……ください」
「え?」
前言撤回、彼女に抱いていた恐怖の感情は吹き飛んだ。俺の言葉に拍子抜けしたのか随分と気の抜けた表情をしている。
「ん、え?聞き間違いじゃないのよね?」
「はい。甘やかしてほしいです」
「そんなことで……私が……?」
落胆と絶望の入り混じった、簡潔に言うとしたらすごくかわいそうな顔を見せている。そんなこと、と言われてしまったが俺にとっては死活問題である。人間、独りでは生きていけない。一人を望むことはあっても、孤独は嫌なものである。
「まぁ……契約だものね。ほら、来なさい」
床にへたりと座り込み、正座のような姿勢で彼女は腕を広げる。不服さこそ拭いされてはいないが、何処か吹っ切れているように感じた。初対面の女性の胸元に突っ込むという行為への恥ずかしさとその行動に反発する筈の社会性は心身の疲れによって本能に溶け、いつの間にか右脚は前へ踏み出していた。
「お疲れ様。少しは貴方の事を見てたわ」
人間の姿をしているからか体温は俺より少し高い程度で、程よい温かみを感じられる。さす、さす、と俺の髪越しに頭を撫でる音と時を刻む秒針の音だけが部屋の中に跳ね返っている。
「何か、してほしいことはある?」
「いや、もう少し、このままで」
最近まともな睡眠がとれてなかったせいか、瞼が鉛のように重たい。思考がどんどんと鈍り、意識が朦朧としてくる。
「見てて、くれてたんですか?」
睡眠の深海に沈みかけた思考力の最期の力を振り絞り、一番の疑問をどうにか口にする。先程の言葉が真実とするなら、それほど嬉しいことはないだろうと思ったからだった。
「ええ、悪魔と言うものはしっかり下調べをするものよ。こんな願いだとは、予想していなかったけれどね」
「そう……そっかぁ」
抑えきることのできない感情と、緩んだ涙腺から零れた液体が混ざって僅かな理性も滅茶苦茶になる。
「え、どうしたのよ!?……何か嫌だったかしら?」
「いや……違います……」
自分が不幸だとは思わない。人にも、環境にも恵まれていると思う。けれど弱ってしまった心では尖った視線しか捉える事しかできず、自分の努力すら、自分が認められていなくなってしまっていた。
「誰か、見てくれてたんだなって」
初対面だからなのかもしれない。忌憚のないであろうその言葉が、何よりも心の奥底に突き刺さった。
「……えぇ。努力も後悔も、見ていたわ」
「そっかぁ、そっか……」
安心感と、心に着いた重りが取り除かれたような身軽さが意識を一層深みに引きずり込む。変わること無いリズムで頭を撫で続けられているのも相まって、眠気に抗うことはできなかった。
瞳を閉じて、そのまま眠ろうとしたところで一つのとっかかりに気が付く。彼女が俺の心を楽にしてくれたのは確かだ。けれど、彼女は悪魔だ。無償の救いだとか、無償の愛を目的にここに現れたわけではない。
「だいしょう、は……」
◆
「そんなの、要らないわよ」
気持ちのよさそうな寝顔を見せる男を寝床に置いた後、誰に向けたわけでもなく悪魔はそう呟く。
「とっくの昔に貰ったっての……」
彼女は、一つ彼に嘘を吐いていた。いや、彼女は嘘を吐いたわけではなく、そう男が思うように演じただけだった。幼子であった男が、偶々人間界に迷い込んでしまった悪魔を遊びに誘った。そんな、悪魔の中ではありふれた話だ。それでも、彼女の心にはその過去が根幹として根付いており、そんな男に偶然出会ったときは驚愕を越えて感動が走ったものである。
「貴方が、少しでも楽しく生を全うできるなら私は……」
しかし、干渉することはなかった。彼女の美貌と力が在れば彼を従える方法なぞいくらでもあるはずだが、それでも只管に見守り続ける事を選んだ。今の今になるまでは。
「どんなものにでもなる。どんなものにだって抗う」
夜空に響き渡るその決意は、彼の耳には届かない。けれど、それでもいいと、彼女は言い放つ。愛する男の影になる。それは彼女の選んだ道なのだから。そのためなら、幾ら傷つこうとも
「えっ!?」
決意に染まった顔が、一瞬にして驚愕へ移り変わる。不意に己の右手が何者かに掴まれたからだった。勢いよくその無礼を働いた相手を確認すると、それは眠ったはずの男の手だった。
「いや……寝てる……?」
起床を防ぐために出来るだけ小さな声で話していたのだが、眠りが合くなってしまったのだろうか。それともただの寝相か。しかし彼女にとっては、優しく自分を繋ぎ止める鎖のように見えた。
「ふふ」
彼女は男の努力を捉え続けていた。彼女は影になろうと暗闇で努力し続けることを誓った。ならば、男が彼女の努力を知ること日がいずれ来ることだろう。努力は、いつか誰かの元に届くものなのだから。
曇天に悪魔 獣乃ユル @kemono_souma
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