第23話 アルバイト情報(6)〔解けない問題〕

 いよいよ新しい出来事が起きるんだという予感に、いつもと変わらぬ部屋の様子も、どこかがずれてしまったように見える。

 自分はうまく切り抜けられるんだろうかと、小さな物音にも敏感になる。


 半面、不確かな期待もあって、真っ先に思ったのは、まともな冬服が買えるんじゃないかということだ。

 クローゼットに残っているのは、毛玉のついた子供服ばかりだし、これでは人前に出るのもはばかられる。


 今の自分は昨日までとは違うんだと考えてみる。

 しかし鏡に映った姿は相も変らぬようで、不規則な生活から張りを失った肌には、近ごろ私が受け止め続けた嘲りや蔑みが、深く染み入っているようにも思える。


 私にできることも変わらなかった。

 朝遅く起きて、キッチンからパンとミルクを取り出す。

 顔を洗って歯を磨き、あとは部屋の中で、机やベッドに座って過ごす。

 気づくと私は宙を眺め、自分のことを考えている。


 私は一人っ子だから、小さなころに、人と付き合う術を十分に学ばなかったのかもしれない。

 でもなぜ今になってそれを思う?

 私は以前から社交的ではなかったし、自分を主張することも弁護することも苦手だった。

 最新ニュースや流行に疎く、物事の要点をとらえて述べる力も弱い。

 人を楽しませる話術もない。


 しかし、ついこのあいだまでは、万事はそんなものだと思って、日々を過ごしてきたのではなかったか。

 人との付き合い方や話し方はいくらでも学べると思うし、そのこと自体を問題視することもなかった。


 でも何かが起きている。

 私の見方が変わったのか。

 物事との関わりが変わったのか。

 何かの順序やバランスが変わったのか。


 ともあれそれに気づいてしまった以上、もう無視することはできない。

 離れたところに見つけた小さな異変が、少しずつ連なり、ふくらみ、近づいてきて、やがて私の足元を崩し、私を転倒させた。

 私はもがいても立ち上がることができない。

 でも私は打ち負かされたつもりはない。

 今は黙って次の機会をうかがっているだけだ。


 私はこれから、初めての場所に行き、初めての人たちに会う。

 たとえ気に食わないことがあろうと、そこに留まり、みんなと顔を突き合わせ、慣れない仕事をする。

 私はどう行動する? 自分をどうやって守る?


 私はここ一月くらい、人とまともに話をしていない。

 世間の動きも知らない。

 おまけに私は機転が利かない。

 効率なんて考えたこともない。


 私の頭の中に、これから起きるかもしれない出来事が、勝手に思い浮かんでくる。

 私はなすすべもなく、みんなの前で立ちすくんでしまうかもしれない。

 罵声が聞こえる。あざ笑う顔が見える。


 ――なんて素敵な想像力だ。

 私は頭を振って立ち上がったが、しばらく息をついてから腰かけると、また同じ考えにとらわれている。


 誰が私を批判するんだ。私には批判してくれる相手さえいないじゃないか。

 なのに私の頭は自分の弱点を一つ一つ確認しながら、私に残っていたほんの少しの自信も、期待も、自らぶち壊していく。

 やがて自分がこれからバイトをすること自体が、まったく理屈に合わない、絵空事のように思えてくる。


 来る日も来る日も私は同じ考えにとらわれ続け、気力をすり減らしていった。

 やがて食欲がなくなり、座っているのもだるくなり、気づいたらまたベッドに横たわっていた。


 私は何をしている。

 なお自分を励まそうとしたが、動けば動くほどどこかに沈み込んでいくようで、ただ毛布の中で丸くなる以外にない。

 同じことの繰り返しじゃないか……。


 結局私は怖いのだ。自信がないのだ。

 この世の中で、どんな小さな役割も果たすことができず、居場所もなければ、たぶん存在する価値もない。

 いやだめだ、悲観しちゃだめだ……。


 そうして私は一日の大半を寝転がって過ごした。

 カウンセラーや医師に連絡することも考えたが、話を聞いてもらったところで、私の気力が劇的に回復するとも思えない。

 このうえ私に何ができるだろう……。


 私は自分の負けを認めたくなかった。

 できれば、目の前からすべてのアルバイトが消え去ってくれないか。

 あるいは、誰かが私をどこかに連れ去ってくれないか。

 いっそのこと、このままベッドの中で弱り果て、息の根が止まってしまえばいい。


 私は自分を救い出すためにどんな行動をとることもできず、次の日もまた次の日も、ただ同じように寝転がっていた。

 応募をしてから面接日まで二週間あった。自分を打ち砕くには十分な時間だ。


 ある日、私の寝息以外はほぼ無音だった部屋の中を、携帯電話の着信音が貫いた。

 私はベッドの中で動き、拒むように毛布に包まる。

 しばらく耐えていたら、着信音は鳴りやんでくれた。


 しかしその後も着信音は繰り返した。

 何度目かの着信に、私は追い立てられるようにベッドを出ると、携帯電話の前まで這っていった。

 携帯は充電ケーブルにつながれたままで、液晶画面には、ABCコンベンションと表示されている。

 来るべきものが来たまでだ。私は画面を見つめながら通話ボタンを押す。


「あ、森下さんのお電話ですか」


 電話の相手は、先日と同じ人なのか、担当の女性だった。

 私は、そうです、と答える。


「ABCコンベンションの加山と申します。今、お時間よろしいでしょうか」


 時間なら持て余すほどある。


「先日応募をいただいた、○○化学会のアルバイトの件ですが、おかげさまで多数の応募をいただきまして……。集合場所と改めてのご意向の確認については、メールも含めて何度かご連絡さしあげたんですが、森下さんからはお返事がいただけませんで……。実はご意向の確認をいただけた方から、先に登録を確定しておりまして……」


 つまり私が返事をしなかったそのあいだに、確認できた順に採用を決めていき、すでに募集の定員に達してしまった、とのこと。

 悪しからず了承いただき、次の機会にまた応募してほしいという。


 私はどう答えたものか迷ったが、まずは、分かりました、と言い、次に、このところ調子が悪かったんです、と言った。

 ――なんの調子がどう悪かったのかは自分でも分からない。


 電話を切ると床に座り、しばらく壁を眺めていた。

 救われた、と言っていいのだろうか。

 少なくとも自分から逃げ出したり、投げ出したりせずにすんだわけだ。


 勝負は避けられた。雨天順延だ。

 心のどこかでこうなることを望んでいたのかもしれないが。


 胸の中の大きなつかえが、急に取り去られたようで、自分の中にも外にも焦点が定まらない感じがする。

 息をつきながら、床に置かれた手や足を交互に眺めていたら、ふいに自分の全身がひどく汚れている気がした。

 それはそうだ、私はしばらく自分の面倒を見ていない。


 体の中に血が巡り、少しずつ生きた心地がよみがえると、なんだか脂っぽい自分のにおいに耐えられない気がして、私はゆっくり立ち上がり、部屋を出て、ふらふらと階下のバスルームに向かった。

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