第23話 アルバイト情報(4)〔情報処理に必死になる〕
本を手放すと、不思議なもので私は少しずつ平静を取り戻した。
まず空腹を感じ、パンとカップスープを胃に流し込む。
数日ぶりにシャワーを浴びたら、例によって排水口に大量の髪の毛がたまる。
脱衣所の鏡に映った自分は、覇気がなく、多少干からびてはいるが、それ以外は変わった様子もない。
部屋着やベッドシーツを新しいものに変えると、あとはいつもの毎日が戻ってくる。
ベッドに寝転ぶことなく、今は机の前に座っている。
本も読まない。音楽も聞かない。
携帯電話も切ったままで、パソコンも開かない。
今のところ、このパソコンが、外の世界との唯一の接点だとは感じていたが、それだけに電源を入れることをためらってしまう。
スクリーンの向こうから、何かの光が私を照らしてくれるかもしれないし、逆に私を根こそぎ否定するメッセージが送られてくるかもしれない。
私はやはり、机の前でただ座っているだけだ。
そんな自分を私は認めていなかった。
私の頭はまだ解き放されず、気づいてみると、再び空回りを始めている。
私は負けたくなかった。
少なくとも闘いたかったし、それができない自分を責めていた。
私は若く、健康な体を持っている。
客観的に見ても、多くの機会に恵まれている。
それがなぜ、この小さな部屋で、すべての刺激から閉じこもり、たった一人で座っているのか。
私の中には、迷いや、焦りや、悔しさが、行きどころもなく滞っている。
外の世界にいる、私以外のすべての人が輝いて見えた。
自分がこのうえもなくひ弱で、のろまで、価値のない人間に思えた。
私はいても立ってもいられなくなった。私は何をしたらいい?
――そしてこのとき、私にはただ一つのことしか頭になかった。
私は何かに突き動かされるように、引き出しからパソコンを取り出し、電源につないで起動した。
私の胸は高鳴ったが、見慣れた起動画面が、いつものようにパスワードを要求する。
反射的に指を動かし、ログオンすると、ブラウザを開き、少し息をついてから、検索語を入力した。
――アルバイト情報
エンターキーを押すと、検索結果の画面にいくつかの求人情報サイトが表示される。
しかもこの段階で、横浜市、藤沢市、東京23区、多摩地域など、すでに地域別に区分けされている。
なんだ、便利じゃん……
横浜駅まで出かけていって、すったもんだして手に入れようとした情報が、早くも目の前にあるわけだ。
サイトの一つをクリックし、ページを開くと、その冒頭に、職種、勤務日、時間帯、雇用形態、交通費や福利厚生といった分類表があり、それぞれの項目には、職種であれば、販売、飲食、事務など、勤務日であれば、週1日、週2~3日、土日祝のみOKなど、具体的な選択肢が一覧になって例示されている。
……初めからこうやって聞いてくれればいいのに。
人がアルバイトを探すときに考えようとする条件の、ほぼすべてがここに書き出してあるのだろう。
ただ私は、その分類の中からも条件を絞り込むことができず、チェックボックスはすべて空白のまま、とりあえず「横浜市」という項目を開いてみた。
画面に表示されたのは、家電量販店、ホームセンター、中古車販売店、鮮魚市場、レストランのホール・キッチン、コールセンター、イベント会場などの求人情報で、スクロールを重ねてページの最下部までたどり着くと、そこには「次ページへ」のリンクが1・2・3・4・5……と数限りなく表示されている。
……どうすればいいんだ。少し上に戻って、いくつかの求人情報を改めて眺めてみるが……
正社員、アルバイト、契約社員……
9:00~17:00、13:00~20:00、20:00~翌1:00……
時給○円、月給○円、出来高制……。
そうした条件のそれぞれが、私とどんな関わりがあるのか、まるで空き箱でもつかまされたように実感がわかない。
情報を読めないのは、私の理解力が弱いのか、決意が鈍いのか。
私は息を吸い込んで画面を見つめなおす。
朝、昼、夕方、夜、深夜、早朝……。
データ入力、電話オペレーション、家電修理、精肉加工、接客販売、検品作業……。
このうち自分にあてはまるものが、はたしてあるんだろうか。
次第に汗ばんでくるが、手足は冷たい。
……ひょっとして、怖がってる?
どの仕事も自分には無理だと、悲観してる?
そうじゃない、今は情報を集め比較してるんだ。
画面とにらめっこを続けても、どうやららちが明かないので、私は引き出しからノートとペンを取り出し、情報を書きとってみる。
勤務地:横浜駅から○m、桜木町駅から○m、関内駅から○m……。
勤務時間:1日3時間以上で、9:00~、11:00~、13:00~……。
勤務期間:短期(1か月~)、中期(3か月~)、長期(半年~)……。
ノートはすぐに書き込みでいっぱいになり、これが情報の整理に役立つとは、すでに自分でも思えなくなったが、とにかく書き出すことが大事だと、ひたすらペンを走らせ続ける。
どのくらい時間が経っただろう。読み込んだウェブページも、書き取ったノートのページも、十数ページにはなっていたろうか。
時計を見るとすでに深夜のようだ。
私はまだ気が済んでいなかった。
しかし根を詰めた作業で目は乾き、肩はこわばり、少し前から始まった片頭痛が耐えきれないほどになっている。
……ここで作業を中断したら、次にパソコンを開く気になるのは、いつになるか分からない。
なんとか今夜のうちに結論を出したいと思ったが、その思いに体がついてこない。
やむなくノートを閉じ、パソコンもシャットダウンして、重くなった体をベッドに運び横たえた。
アルバイト一つ探せない自分にいら立ちながらも、それ以上に疲労が私の全身を包み込み、やがて意識が遠のくように、眠りに就いた。
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