第23話 アルバイト情報(3)〔それが膿んだ病巣になる……〕

 私にはいつも気がかりの種があった。

 今、それは棚の中にしまいこんだ、一冊の求人情報誌だ。


 私以外は誰も知らず、知られたところで問題にする人もいない。

 その本が、椅子に座っていても、ベッドに横たわっていても、食事をしていても、私の頭を離れない。


 私は今すぐ棚を開け、中身を調べるべきだ。

 本屋で立ち読みした内容は覚えている。新聞配達、警備員、美容モニター、アパレル販売、エキストラ、塾の先生、電話オペレーター……。


 世の中の仕事って、ほかに何がある? ウェイトレス? スーパーやコンビニのレジ係?

 その中から、候補を選び出して応募する。

 無事雇われたら、上司や同僚とやりとりし、仕事の基礎を覚え、客の注文や苦情にも対応しながら、日々のルーチンをこなす。


 問題は、ずっと家に閉じこもっていた自分が、そんな現場の動きについていけるかだ。

 私はたぶん、物事に慣れるのに人より時間がかかる。

 学生バイトに割り振られる仕事が、たとえ簡単なものであっても、それを身につけるまでのあいだに緊張や混乱は避けられない。


 私は大学で起きたさまざまな出来事を思い出す。いや勝手に思い浮かんでくるのだ。

 友人たちとのすれ違い、孤立。見くびられないよう、隙なく身構えていたが……それで私はどうなった?


 アパレルショップでのバイトの経験も思い出す。

 周囲と話が合わず、店長の娘にさえ言い負かされ、一人マネキンのように立ち続け……それで私はどうなった?


 そうした出来事のすべてが、自分の耐えがたい汚点のように思われ、私の中にも外にも、黒く大きく広がってきて、呼吸や血の巡りまでふさぐようだ。


 私の頭の中には、アルバイトをしなければならないという、ほとんど理由のない義務感と、自分を萎えさせる過去の汚点とがぐるぐる回り、私の自由を奪い、身動きを取れなくする。


 パソコンも開けない。食欲もわかない。涼しいからシャワーも浴びない。

 やがて起き上がるのも億劫になり、そのまま一日、二日と過ぎていく。


「どうしたの、また具合が悪い?」


 夕暮れどき、明かりもつけずにベッドで休んでいる私に母が言う。


「なんでもない。ちょっと頭痛がするだけ」


 私はすでに、自分が冷静な思考ができなくなっているのを感じた。

 この状態から抜け出さなくては……。


 私は体を起こし、扉の閉まった棚を見た。

 買ってから一度も見ることをせず、しまい込んでいる一冊の本。

 まだ紙袋から取り出してさえいない。


 これでは意味がない。

 役に立たないばかりか、まるで膿んだ病巣のように、自分を苦しめるだけじゃないか。

 私はベッドから起き出し、棚に歩み寄ると扉を開き、紙袋を取り出した。


 これだ……。

 私は両手で持った紙袋を、どこかから紛れ込んだ異物のようにじっと眺める。

 さあ、どうする……。


 仕事が自分に務まるかどうかは、やってみなければ分からない。

 私はこれから袋の中の本を開き、情報を調べて、電話をかける。そして……。


 そう思い描いてみると、鼓動が胸から頭蓋の奥まで響き、足元に開いた深い穴をのぞき込んだように、自分を支えきれなくなって、背後のベッドにもたれかかった。


 だめだ、今はだめだ……。

 私は紙袋を床に放り投げる。


 そのまましばらく座り込んでいたが、再び立ち上がり、クローゼットに駆け寄って上着を取り出す。

 こんな姿は誰にも見られたくない。

 帽子を取り出し目深にかぶり、床に落ちた紙袋を拾うと、部屋を飛び出て階段を駆け下り、スニーカーを突っかけて、そのまま何日かぶりに外に出た。


 できるだけ遠くに行かねばと、自転車にまたがりスピードを上げる。

 町のはずれにゴミの集積所がある。ひたすらペダルをこぎ、集積所までたどり着くと、古新聞古雑誌の回収ボックスを見つけだす。

 その中に、私は紙袋のまま本を放り入れた。

 しばらくボックスを眺め、紙袋が間違いなく廃棄されたことを確かめたあと、再び自転車をこいでその場を走り去った。

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