第23話 アルバイト情報(1)〔本屋で道に迷う〕

 私がしばらくぶりに外出したのは、その次の日だったと思う。

 誰に会うわけでもないのに、一番いいシャツを着て、メイクもすると、自転車で駅へと向かう。


 空は青く、風は冷ややかだ。

 時間の制約がないのに、ペダルをこぐ足が速くなり、駅前に着いたころには息が切れていた。


 自転車を停めて駅舎まで歩き、券売機で切符を買おうとするが……小銭入れには六十円しか入っていない。ICカードのチャージももちろんゼロだ。


 しばらく迷ってから、回れ右して自転車置き場まで戻る。

 横浜までは一駅だから、自転車で行けばいい。今日は涼しいし……。

 再び自転車にまたがるとペダルを回してスピードを上げる。


 横浜に来たのは何か月ぶりだろう。それも自転車で乗りつけたのは、高校のころ以来かもしれない。


 自転車を停められる場所は心得ている。そこから駅前まで歩いて出ると、平日の昼間にも関わらず、相変わらずの人出だ。


 今どき情報だけならネットでも取れる。

 しかし多くの人が行き交う街に出てこそ、新しい機会も開けるというものだ。

 ……仮にそれが、本屋で立ち読みするだけだったとしても。


 付近に本屋は何軒もあるが、中でも私は、広さも在庫も申し分なく、高校のころにも時折立ち寄った某書店に向かうことにした。

 いくつもの区画にジャンル分けされた売り場の中でも、どこにどんな本があるか、ここならおおよそ見当がつく。


 エレベーターに乗って、ビルの四階にある店舗の前までやってくる。

 入口には話題の新刊やベストセラーが華やかに並び、その奥には各種の雑誌、ビジネス書に実用書、地図にガイドブックなどが続く。

 文庫や新書の棚を過ぎると、学術書、アート、コミック、絵本や児童書もある。形やデザイン、著者の世代、性別、国籍もさまざまだ。


 気づくと私は、膨大な書籍の群れに完全に包囲されている。

 ――きっと私のような人間が、一生のあいだに体験する事柄を、はるかに超える情報がここにはあるんだろう。

 そしてそのすべてが、今ここで一気に押し寄せてくるようで、私は息を吸いすぎたみたいに、胸の奥が詰まる感じがした。


 こんな経験は初めてだ。

 おまけに私を取り囲む、どの一つの事柄にも、私は自分の居場所がないのを感じた。


 政治? 国会議員の名前を何人言えるだろう。

 経済? 小銭入れには六十円しかないし。

 音楽? 私は歌一つ歌えない。

 語学? 近ごろ英単語一つ覚えていない。


 私はいつだって、あの小さな部屋の中から、広い世界の一部分を、人知れずのぞき見するばかりじゃないか。


 そのとき、目の前にいきなり人が立ちはだかった。制服のエプロンを身につけた店員だった。


「何かお探しでしょうか」


 メガネをかけた三十代くらいの男性で、私の顔を探るように見ている。

 どうやら私は、書棚のあいだで立ち尽くしていたようだ。

 不審に思われないよう、とっさに言葉を返す。


「あの……アルバイト情報は、どのへんでしょうか」

「……どのような、アルバイトですか」


 どのようなってことはないだろう。

 ただあたりは、物理やら生物やらの学術書が並んでいて、どう見てもアルバイトっぽくない区画だ。


「いえ……一般的な、学生がやるようなやつですが」

「職種や地域で、情報も分かれていますがね」

「……それによって棚の場所が違うんですか」

「そういうわけでもないですが」


 私は、とにかく棚の場所だけ教えてほしいと言った。

 店員は、求人情報誌は駅寄りのエレベーターの近くにあります、と言う。

 礼を言ってそちらに向かおうとすると、店員が再び声をかける。


「お客さん」


 私は無言で振り返る。


「エレベーターは、反対側ですが」


 回れ右して、足早にその場を離れた。

 今まで何度も訪れた書店なのに、なぜ方向を間違えるんだろう。

 きっと万引きでもしにきたと思われたに違いない。


 こんな状態で、自分が望む情報を見つけられるだろうか。

 職種だの地域だの……意味が分からない。


 私はまずこの書店から抜け出すことにした。

 方向は分からなくても、まっすぐ歩き続ければ、いずれ店の外には出られるだろう。


 やがて本棚のない、普通の通路に出たときには、救われた思いがした。

 とにかく気持ちを落ち着けることだ。

 どこかに座って、お茶でも飲んで……。


 エレベーターで一階に下りたら、入口の近くにカフェがあった。

 平日ですいていたが、メニューを見ると予算オーバーなので、やむなく私は最寄りのデパートに避難することにした。

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