第20話 団地でビラ配り(14)〔中野さんと活動を締めくくる〕

「もしもし、ジュンさん? 今どこにいる?」


 自分のいる場所が分からず、団地の中、とだけ答えた。


「早希は、どうした?」


 どう答えていいか分からなかった。


「見つからなかったの?」

「……いえ」

「何か、あった?」

「……行っちゃいました」

「え?」

「一人で、行っちゃいました」

「どこへ?」

「…………」

「今、あなた一人なのね?」

「私……止められなくて」

「ジュンさん、今どこにいる?」

「……ごめんなさい」

「それはいいから、今いる場所を教えて」

「……分からないの」

「何号棟のあたり? 建物の、番号が見える?」


 私はようやくそのことに気づき、近くの棟にある「4」の番号を見つけると、中野さんに伝えた。


「4号棟ね? じゃあそこにいて。私がこれからそっちに行くから」

「……ほかの、みんなは?」

「みんなには、先に支援センターに帰ってもらったわ。今は私一人よ」


 そう言って中野さんは電話を切った。


 歩みを止めてその場で立っていると、ものの五分も経たずに、向こうから歩いてくる中野さんの姿が見えた。

 中野さんは相変わらず髪を後ろに束ね、サングラスをかけていて、痩せた体が一本の線のように見える。

 彼女の考えがどの程度正しく、どの程度間違っているかは知らないが、少なくとも今の私を支えてくれるだけの堅実さがある気がした。


 中野さんは私に近づくと、サングラスをはずして言った。


「どうした?」

「…………」

「早希に、何か言われた?」


 中野さんに促され、先ほどのコミュニティプラザまで歩いた。

 歩きながら、早希とのあいだにあった出来事を話した。

 私の話は途切れがちで、順序もあいまいだったが、それでも中野さんは注意深く耳を傾けてくれた。

 話を一通り聞き終わると、中野さんは苦々しい調子で言った。


「あいつ、何言ってるんだろうね」

「…………」

「二十歳を過ぎたいい大人が、まるで子どもみたいにゴネたかと思うと、口先ばかり、利いたふうなことを言って……。自分は棚に上げたままで、人の矛盾ばかりあげつらうのよ」

「…………」

「ジュンさん、たとえもっともらしく聞こえたとしても、真に受けちゃだめ。自分をしっかり持って、あいつに言い返してやらなきゃ」


 私は言った。


「中野さん……早希のことが、とても気になるのね」

「……私?」

「なんだか、早希がここにいるみたいに話すから……」


 中野さんは笑って言った。


「彼女とは、一年くらいの付き合いになるかな。あなたがどんな言われ方をしたか、だいたい想像がつくの」

「……早希、大丈夫ですか?」

「まあ、心配ないわ。こんなことはときどきあるもの。あとで私から電話しとく。実はそのバーの店主とも、顔なじみだから」

「そう……」

「あなたも気になる? 早希のこと」

「……ええ、そりゃあ」


 中野さんは、世間話でもするように言った。


「彼女、誰にでもあんな言い方をするわけじゃないの。ときどきキレると、人にひどいことは言うけど、かなり相手を見てるわよ。自分の言ったことを、受け止めてくれる人じゃないと、そこまで饒舌にならないし」

「……私、そんなに受け止めてもないですけど」

「なんていうかな、ちゃんと話を聞いて、それなりに理解も示すでしょ」

「正直、理解しがたいところもありますが」

「理屈じゃないの。そうね、波長が近いのよ。性格とか好みとか、そういうこととは別にね」

「…………」

「あいつ、人の中にいると目立つし、話も盛り上げるけど、気づくとなぜか孤立してることが多いのよ。だから、たまに自分と波長の近い人を見つけると、必死につかまえておこうとするの。いつも不安に駆られてさ、理解してほしいというより、もう寄りかかっちゃうのね。相手の関心などお構いなしに、自分の重たい気持ちをひたすら訴えて、一緒に倒れてほしいくらいに思ってるの」

「私、倒れたくもないですが」

「そりゃそうよ。あいつにしても、あまり脆い相手だと、寄りかかり甲斐がないし」

「なんか、いい標的ですね……」


 中野さんは笑いながら言った。


「実はね、私も彼女の話には、だいぶ付き合ったわ」

「へえ……そういえば、親身に話を聞いてくれるって、言ってました」

「私も、波長が近いと思われてるらしくて」

「……じゃあ、あんな失礼なことを、中野さんにも言うの?」

「酒なんか飲むと、恐ろしいものよ」

「信じられない……。それで、どんなふうに答えるんですか?」

「私に屁理屈は通用しないわ。ただ、あいつの言うこと、ちょっと面白いじゃない……。私なんかが考えてもみなかった矛盾を、目ざとく見つけて、そこを突いてくるしね。あいつはたぶん、自分の中のどうしようもない思いを、苦し紛れに人にぶつけるんだろうけど、でもこの相手なら、何かの答えを返してくれるんじゃないかって、どこかで冷静に見てるのかもね」


 私は早希に何をどう答えたらよかったのか……。考えてみても見当がつかない。

 そう伝えると、中野さんは言った。


「ただ言葉を返しても、議論になるだけよ。そんな言葉の応酬には、私も興味がないわ。私はね、もっと手ごたえが欲しいの。おしゃべりするより、体を動かすほうが性に合ってるし。私一人ができることなんて、限られてるけど、みんながみんな、立派なことを宣ってるだけじゃ、何も変わらないわ」


 中野さんは、そんなふうに一人黙って何をしようというのだろう。

 あるいは早希のような人間が言い放ったことの一部分でも、律儀に成し遂げようとでもしているのか。


 コミュニティプラザに到着すると、エアコンの効いたロビーに入り、先ほど打ち合わせをしたベンチに腰かける。

 今日はお疲れ様、ここで解散にしましょうねと言って、中野さんは缶ジュースを買ってくれた。一口飲んだら、自分が脱水しかけていたことに気づく。


 中野さんは受付に預けた荷物を受け取り、残ったビラを整理している。

 ビラは区役所の広報で、地域助け合いとか、困りごと相談などの案内が載っていた。

 こうして眺めると、自分たちが配ったこのビラが、どこかで何かの役に立つのか、手がかりさえつかめない思いがした。


 ロビーは静かで、快適で、動きを止めたように見える。

 早希もいない、榎本さんも村田さんもいない。

 中野さんは、ふいに私を見て、やっぱりこんな暑い日にビラ配りをするべきじゃなかった、と言った。


 しばらく休んだのち、あいさつして帰宅しようとすると、駅まで送ろうか、と中野さんが言う。

 私はよっぽど落ち込んで見えたのか。


 駅までの道を二人並んで歩いた。

 私は中野さんの仕事のこと、家族のことなど、もっと聞きたい気がしたが、あまり会話は弾まなかった。


 中野さんは、すでに傾きかけた日差しを避けるため、私は、眉間に寄ったしわを隠すため、それぞれサングラスをかけた。

 これじゃあまるで、ブルース・ブラザースかメン・イン・ブラックだなどと思ったが、その二人を、通りすがりの誰一人振り返って見ることはなかった。

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