第20話 団地でビラ配り(13)〔ジュンの行く末は……?〕

「ねえ……どう言ったら分かってくれるの?」

「何をよ」

「私……私なりに、早希のこと、大切に思ってたわ」

「あなたなりにね」

「……私だって、心に痛みは感じるのよ」

「そうやって口にすると、嘘っぽいわ」

「どうしてそんなことを言うの?」


 早希の瞳は私を見据えている。


「じゃあ、来る?」

「…………」

「一緒に横浜に、行く?」

「…………」

「二人でとことんまで、話そうじゃないの」

「…………」

「どうする? 行くの? 行かないの?」

「……だめよ」

「……だめ?」

「できない……私には、できないわ」

「…………」

「このまま二人でどこかに行くなんて……何か間違ってるわ」


 早希は追い詰められたような目で言った。


「やっぱり、そうなのね……」

「やっぱりって……」

「あたしを置いて、中野さんのところに行くんでしょ」

「それは……いけないことなの?」

「いいわ、行きなさいよ、みんなのところへ! そうやって、いつも周りの標準に合わせながら、生きていくんでしょ」

「何を言うのよ……」

「世間に波風が立たない、狭苦しい考えの範囲で、みみっちい背比べをしながら、あんたたちは一生生きていくのよ!」

「めちゃくちゃなこと言わないで」

「中野さんに報告すればいいでしょ。早希はめちゃくちゃで、付き合いきれませんでしたって」

「もうよして……」


 早希は視線を落とし、吐き捨てるように言った。


「あんたらの行く末が、見える気がするわ」

「……なんなのよ、それ」

「教えてあげようか?」


 私は聞いてみたくなった。

 早希は自分の中から次々に湧き起こる言葉を留めることができないようだった。


「あなたはこれから、中野さんのところに戻り、あたしの救いようがない問題行動について、高尚な意見交換をするでしょ」

「……そんな、自分を悪く言うのはおかしいわ」

「黙って聞きなさいよ。それからあなたは、なんだかんだ言って、学校に戻るのよ。自分の不利にならないように、手ごろな努力を続け、でも真実には触れることもなく、卒論でも書いて、頭の固い教授からおざなりの評価を受けて、とりあえずは卒業するのよ」


 今の私には、それすらできるかどうか分からないと思った。早希は続ける。


「卒業したら、どっかに勤めるんでしょうね。お茶を汲むのは誰だとか、あの子のスーツは安物だとか、あの上司はマネジメントができないとか、そんな会話で毎日が埋め尽くされ、自分が世界にどんな影響を及ぼせるかなんて、夢の中ですら考えてみない」


 私には、そうして働きお金を稼ぐこと自体が、遠い夢のような気がした。


「やがて仕事にも飽きたら、どこかで出会った会社員か役人とでも、結婚するのよ。でもあなたの頭の中は、その人の収入やら、披露宴の参加者やら、新居のインテリアのことでいっぱいで、あなたに与えられたその心が、少しでも震えることすら、なくなっているんだわ」


 そうした未来が、いつか私に訪れるのかどうか、思い描くことすら難しい。

 早希はもう私を見てもいなかった。


「そんな生き様は、誰の記憶にも残りはしないわ……。自分自身だって、忘れてしまうんじゃないの?」


 早希は再び私に目を向け、こう言った。


「ジュン……」

「…………」

「ジュン!」

「……何?」

「行かないで」

「…………」

「そんなところに、行っちゃだめ」

「…………」

「あたしと約束して」

「…………」

「あたしの言ったことを、忘れないで」


 早希はそう言うと、ゆっくりと向きを変え、私から歩み去っていった。

 その後ろ姿が小さくなり、角を曲がって見えなくなるまで、私は目を離すことができなかった。


 風が吹き、辺りの彩りが消えてしまったようだ。

 頭上で枝が流れ、地面を覆う影も揺れる。


 私はそのまま、冷たい欅の根元に座り込んでしまいそうになった。

 しかし私は、ふいに何かに急き立てられたように、再び歩きはじめた。

 私は待ち合わせ場所に向かうのだろうか……。今はそのことに、どれほどの意味があるのか分からない。


 私には方角も分からなかった。榎本さんがどちらを指さしたか、すでに思い出せない。

 歩き続けるうちに、同じ形の五階建ての棟が、繰り返し目の前に現れて、私はそのあいだをぐるぐる回っている気がした。


 顔も知らない人々の集まりの中で、淀みにはまったみたいに、歩いても歩いても、どこにもたどりつくことができない。

 私は自分が痛みを感じているのかどうかも、分からなくなった。

 どちらにしたって、力ない者は、そこに向き合うことも、そこから逃れることもできない。自分をとりまく現実を変えることだって、できやしないんだ……


 携帯電話が鳴った。

 バッグから電話を取り出すと、静かな住宅地を着信音が貫くようで、私はほとんどうろたえながら応答した。中野さんからだった。

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