第20話 団地でビラ配り(11)〔早希の行方を探す〕

 榎本さんが指さしてくれたおかげで、私はさっきの自販機のある場所へ、最短距離とはいかないが、せいぜいSの字を描く程度でたどり着くことができた。


 ――しかしそこに早希の姿はなかった。

 ベンチの上には、私が残していったシャツがそのまま置いてある。


「早希? 早希?」


 名前を呼んでも返事はない。私の声は、辺りの静かな空気に吸い込まれて消える。

 外を見回しても人影はない。


 携帯を取り出し、早希にかけてみる。呼出音が聞こえるが応答はない。

 不安になって、次は中野さんに電話をかけた。


「ああジュンさん、そっちはどう?」


 早希とはぐれたことを伝えると、中野さんは言う。


「榎本さんたちは今戻ったけど、早希はこっちに来ないわね」


 どうしたらいいの? と聞くと、中野さんは言った。


「こんなことはときどきあるから心配いらないわ。悪いけど、ちょっと辺りを探してきて」


 電話を切ると、外に出てもう一度辺りを見回す。

 でもこの広い団地の、どこをどう探せばいいのか。迷子みたいに名前を呼んで歩くわけにもいかない。


 私が早希だったらどちらに向かうだろう……。たぶん木陰の多いほうに進むのではないか。

 私は直感のままに歩いていった。


 山で誰かを捜索するなら、とにかく人の気配を探るだろうか。

 でもここは団地だから、気配がありすぎて困る。


 しかもその気配の中から、一人一人の顔や暮らしぶりはあまり浮かんでこない気がした。

 隣で何をしているかも分からない単位の寄せ集めが、長い時間をかけて、今はとらえることも計ることも難しい大きな全体になっている。

 その深さと広がりの中に、自分も紛れ込んでしまったようで、今私が、早希という一人を探すことは考えにくいようにも思われた。


 棟の北側の自転車置き場を過ぎ、高い生け垣や街路樹に覆われた遊歩道を通り抜ける。

 ひと夏生い茂った暗い緑は、すり減った路側の大谷石に沿って続き、元は農地か雑木林を拓いて建てたであろうこの団地の中に、ありのままの姿を取り戻そうとしているかのようだ。

 私は再びシャツを羽織った。蚊に食われるかもしれないと思ったからだ。


 遊歩道の先に小さな公園があった。砂利を敷いた地面に、ベンチと遊具と砂場がある。

 高い欅の木の陰に、早希が立っていた。

 こちらに背を向けているが、その姿は見間違えようがない。


 私はこの風景もどこかで見た感じがした。

 出会うはずもなかったこの人と自分はなぜ出会ったのだろう。

 早希の姿は、何かの花のように、人の目を引くものが確かにあると思った。


「早希――」


 私は名前を呼んだ。声に気づかなかったのか、早希は動かない。


「ねえ、早希――」


 声は届いたはずだが、早希はただ立ち続けている。

 そばまで歩み寄り、早希と欅のあいだに回り込んだ。

 早希は顔を伏せ、私を見ようとしない。


「早希、どうしたの……心配したよ」


 早希は何も言わず、少し体をこわばらせたように見えた。


「ねえ……黙っていたら分からないわ」


 早希の顔をのぞき込む。

 色を抜いた髪が乱れて頬にかかり、目は伏せたままだ。

 頭上に広がる木の影が、早希の表情をなお覆っているようにも見える。

 すると早希は、その瞳にみるみるうちに涙を浮かべ、こう言った。


「どうして?」

「……え?」

「どうして置いていったの」

「……何?」

「どうしてあたしを置いていったの」

「置いていったって……」

「あたし一人を、どうして置いていったのよ」


 彼女を休ませて、私だけでビラを配ったことを言っているのだろうか。


「だって早希、疲れてるようだったし、ビラも配らなきゃいけないし……」

「そんな、どうでもいいこと聞いてないわ」

「どうでもいいって……」

「あんなところで、あたし一人で……どんな気持ちがしたと思う?」

「…………」

「あたしが不安だったの、知ってるでしょ。あたしたち、メールや電話で、たくさん話したじゃない。それでジュンが来てくれて、ほんとに心強かったの……。それなのに、どうしてあたし一人を置いて、自分だけ行ってしまうのよ!」


 早希は話すほどに感情が高まり、頭を持ち上げ、肩をいからせ、顔をくしゃくしゃにして私を非難する。

 少しうろたえて身を引くと、欅の幹が背中に当たった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る